第49話 断罪の議事録
王城文書所の奥は、紙の匂いで満ちている。
そこだけは、世界が薄くならない気がした。数字と封蝋が、私の輪郭をつなぎ止めてくれるから。
エリオットが提出口係から受け取った控えを机に並べる。
「偽造提出者の身分証は本物。つまり、提出者本人は“利用された”可能性がある。鍵は運搬記録です」
運搬記録(運んだ履歴)。
出入り記録(出入りした履歴)。
開閉記録(扉を開け閉めした履歴)。
エリオットの指が、ひとつの欄を叩いた。
「昨日の夜明け前、礼拝堂附属から“書板”が一つ。行先が空白。記録係の署名が薄い」
薄い。
薄い、は嫌な言葉だ。私の記憶みたいで。
ノアが覗き込み、静かに言った。
「その記録係……統合派に近い者です。枢機卿府の中にも」
リュカが鼻で笑う。
「なら簡単。空白の行先を、足で埋める」
カイルが私の手を握ったまま、低い声で言った。
「令嬢はここにいる。俺が動く」
私は首を振り、紙に書いた。
「いく」
行かなければ、私がまた“いないこと”にされる。
入口の戦いは、立っていなければ負ける。
カイルの指が、ほんの少し強くなる。
それだけで分かった。止めたいのではなく、怖いのだ。
「……離すな」
彼がそう言って、私の手を指ごと包んだ。
逃げ道のない温度。
礼拝堂附属の裏手、書板の運搬が通る回廊。
そこにいたのは、昨日の偽造提出者ではない。
白い外套でもない。
王城の雑役に紛れた、灰色の男。
手には木箱。封はない。軽い。――軽すぎる。
エリオットが一歩前へ出た。
「その箱、何だ」
男が肩をすくめる。
「廃棄物です」
「廃棄なら廃棄札がある。見せろ」
カイルの声が落ちる。盾の声。
男の目が一瞬だけ揺れた。
その揺れを、リュカが逃さない。術式具をかざし、空気をきしませた。
「……匂いがある」
香(意思を削る匂い)。
一瞬で喉の奥が冷え、世界が薄くなりかける。
私は反射で、カイルの指を二度握った。
いや。
カイルが即座に叫ぶ。
「記録官、香の疑い! 封緘を!」
廊下の端にいた記録官が机を開き、ペンが走る。
その音で、薄くなりかけた世界が踏みとどまる。
エリオットが淡々と告げた。
「廃棄物に香は不要です。――開けます。立会い、記録」
男が後ずさろうとした瞬間、カイルが腕を取った。痛めない。逃がさない。
「動くな」
木箱が開く。
中には羊皮紙の束。巻かれたままの誓文原本。
表面に、聖女の印章。
そして、羊皮紙の隙間に薄い陶片。香の器。
(本物だ)
喉の奥がひやりと鳴った。
本物があるほど、怖さが現実になる。
ノアが低く息を吸った。
「……混ぜてる。原本に香を移して、触れただけで薄くなるように」
リュカが吐き捨てる。
「汚染じゃねえ。仕込みだ」
エリオットが即座に指示する。
「封緘袋へ。羊皮紙と陶片を分離。受領証。運搬者は身元確認して拘束。これは提出前の証拠隠滅と、意思阻害の疑い」
紙が、鎖になる。
数字が、逃げ道を塞ぐ。
男は崩れ落ちるように言った。
「……命令されただけだ。聖女様に……」
聖女。
名前だけで、喉が痛む。
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
薄くなる前に、ここにいる。
その日のうちに、臨時の審査会が開かれた。
小法廷。議事録を作るための場所。
そして、四人の父が揃った。
騎士団長。
財務大臣。
魔術大臣。
枢機卿。
息子たちの進言が、父の権限を動かす。
それが、私の味方の形だった。
エリオットが机の上に置いたのは、封緘袋と受領証の束。
「本物の誓文原本を押収しました。提出前の運搬経路で。香の器も同封」
法務官が眉をひそめる。
「香の器が、誓文の中に?」
魔術大臣が低く言った。
「意図的だ。羊皮紙に匂いを移し、触れた者の判断を鈍らせる。儀式ではない。工作だ」
枢機卿が静かに続ける。
「信仰を盾にするなら、なお悪い。信徒を道具にしている」
財務大臣が淡々と補足する。
「運搬者の口も押さえた。金の流れは、私のところで追える。帳簿は嘘をつけない」
騎士団長が短く言う。
「護教兵の動きも、命令系統も追える。記録がある限りな」
記録。
記録がある限り。
私はその言葉だけで息ができた。
聖女エレノアは、微笑みを崩さずに立っていた。
微笑みのまま、私を見た。
「彼女が危険なのです。異端の奇跡。回帰。だから私は……皆を守ろうと」
喉の奥が冷える。
危険、という言葉は、私を箱に入れる。
でも私は、紙を出した。震える字で書く。
「こわい」
そして、もう一行。
「わたしは こわくて だから きろくする」
その文字を見た瞬間、法廷の空気が変わった。
危険というラベルより、怖いという事実の方が現実だから。
ノアが静かに言う。
「怖いのは、香で人の意思を削る側です」
リュカが短く吐く。
「刻名もな。名を奪う仕組みを作ったのは誰だ」
カイルが私の前に半身で立つ。誰の目からも喉を見せない角度。
「令嬢は拒否している。筆記で。補助手段で。記録官立会いで」
エリオットが最後に落とす。
「危険の根拠を出してください、聖女。医学用語ではない汚染で隔離を求めた。
誓文原本に香を仕込み、提出前に密かに運んだ。
それを“守り”と呼ぶなら、守りのために誰の人生を奪うつもりだったのか」
聖女の微笑みが、ほんの少しだけ遅れた。
法務官が議事録に目を落とし、淡々と宣言する。
「後見開始申立て、棄却。暫定措置、却下。
誓文原本は押収し、提出無効。
香の使用、意思阻害、運搬工作、受理偽装、偽造提出の疑いで捜査を開始。関係者拘束」
紙の一行が、白を切り裂く。
ざまぁは、叫びではなく、議事録で来る。
聖女の微笑みが、初めて割れた。
「……王家は信仰を捨てるのですか!」
枢機卿が静かに返した。
「捨てない。あなたを止めるだけだ」
その瞬間、聖女の視線が私へ刺さる。
「……あなたは何も覚えていないでしょう。最後には味方の名も、あなた自身の名も」
胸が凍る。
母の輪郭が薄い。確かに。
そして今――一瞬だけ、ノアの名前が喉の奥で滑った。
(……だれ)
怖くて、氏名カードを握りしめる。
セレナ・アルヴィス。
そこへ、カイルが私の手を握った。合図じゃない、ただの握り。
「忘れてもいい」
低い声。怖いほど優しい。
「俺が呼ぶ。毎日。お前の名を」
胸が焼ける。
私は紙を出して、震える字で書いた。
「……すき」
字は歪んだ。
でも、残った。
カイルの呼吸が止まったみたいに見えた。
彼は何も言わず、私の額に短く触れた。誓いみたいに。
その横で、エリオットが視線を逸らし、ノアが小さく笑って、リュカが「今かよ」と呟いた。
でも誰も、否定しなかった。
聖女は連行されながら、最後の言葉を落とす。
「異端の奇跡は、必ず罰になる」
私は紙に書いた。
「なら わたしが とめる」
審査会が終わり、廊下へ出ると、足が少し笑った。
勝ったはずなのに、怖さが遅れてくる。
エリオットが封緘袋を抱え直す。
「誓文原本は押さえた。次は芯です。最終処置を決める」
芯。回帰の起点。
私を救いもしたし、削りもしたもの。
ノアが静かに言った。
「封印すれば、戻れない。でも削れ方も止まる」
リュカが短く吐く。
「決めるのはお前だ」
カイルが私の手を握り、低く言う。
「俺は、お前の決めた方に付く」
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
そして、紙に書いた。
「わたしが きめる」
次に潰す罠は、もう最後の形になっている。
芯の最終処置の場で、私の意思を薄くして、別の答えを書かせること。




