第45話 保護移送
朝の廊下は、音が薄かった。
薄い音の中で、紙だけが重い。
国医所見(国が出した診察結果)の写しを胸に抱えると、そこだけが現実の輪郭になる。
けれど輪郭があるほど、輪郭の外から来るものが怖い。
(来る)
そう思った瞬間、王城の係官が走り込んできた。顔が青い。
「至急、法務官室へ……保護移送の通達が出ました」
保護移送(保護を名目に別の場所へ運ぶこと)。
綺麗な言葉は、蓋になる。
喉の奥がひやりと鳴った時、カイルの手が私の手を包んだ。
強くない。でも逃げ道を塞ぐ温度。
「先に紙を見る」
低い声。命令みたいなのに、呼吸が戻る。
私は返事の代わりに、彼の指を一度握った。
(ここ)
法務官室の机に置かれていたのは、白い封蝋の文書だった。
《保護移送通達》
対象者を教会附属治癒院へ移送し、継続観察を行う。
添付:治癒師診断書(刻名汚染による意思不安定)
昨日折ったはずの紙が、形を変えて戻ってきた。
折ったのに、戻る。戻るたび、こちらの記憶が薄くなるように。
エリオットが文書の端を指で弾いた。
「通達。命令ではない」
淡々としているのに、声が冷たい。
「国王名代の封蝋がない。王城外へ出す権限がない。これは“押し切り用の紙”だ」
ノアが静かに言う。
「保護を言うなら、監督者、期間、責任者が必要です。ここには何も書いていない」
リュカが鼻で笑った。
「雑でも現場で動く。動かされたら終わりだ」
カイルが一歩前に出た。盾の背中。
「なら現場で止める。ただ、俺が止めると“暴力”にされる」
「だから紙です」
エリオットが即答し、法務官へ視線を向ける。
「差止(手続きを止める申立て)と居所指定(いまいる場所を法的に固定する文書)。さらに出頭要請(調査のための出席命令)。対象者は重要参考人です。勝手に移送するのは証人妨害になります」
法務官が眉を寄せた。
「……参考人?」
エリオットは国医所見、受理偽装の保全記録、香の証拠保全を机に並べた。
数字と封蝋が、机の上で鎖になる。
「本日から正式に調査が始まる。対象者の出頭が必要です。今日付で出頭要請を。場所も時刻も固定してください」
法務官は一瞬だけ迷い、それでもペンを取った。
「……分かった。出す」
封蝋。受領番号。
その瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
(動けない理由を、先に作れた)
だが係官が震える声で続けた。
「執行は今朝です。すでに礼拝堂附属に……輿が」
輿。運ぶ箱。
喉の奥が痛んで、私は金属片を握った。角の痛みで自分を縫い止める。
その動きを見て、カイルの手がもう一段だけ強くなる。
「行く」
短い。逃げない。
法務官が居所指定の文書を作る。封蝋。受領番号。
エリオットが受領証を受け取り、私を見た。押さない目。
「行けますか」
私は頷き、紙に書いた。
「いく」
その字を見た瞬間、カイルの息が少し落ち着いたのが分かった。
(言葉より、私の字の方が彼を動かす)
王城礼拝堂附属の前は、やけに明るかった。
朝日が白を照らして、輿が“清らか”に見えるのが嫌だった。
白い輿が一つ。
周囲を固める護教兵。
教会附属治癒院の白衣。
そして、薄く混ざる甘い匂い。
(香)
リュカが低く言った。
「匂い、持ってる」
その瞬間、カイルが私の前に立った。
盾の背中が、匂いを遮る壁になる。
「紙を出せ」
治癒師が胸を張る。
「通達が――」
「通達じゃ足りない」
カイルの声は低い。
「王城外へ出すなら命令が要る。監督者、期間、責任者。香の持ち込み禁止。記録官同席。本人の意思確認。全部だ」
治癒師が眉を吊り上げる。
「あなたは何者です。治癒に口を――」
「口じゃない」
エリオットが受領証を板の上に置いた。
「居所指定。出頭要請。国医所見。対象者は本日、王城内で調査に協力する義務がある。移送は証人妨害。違法」
ノアが静かに追い打ちを落とす。
「連れ出すなら、あなたの名前と所属と責任者を議事録に残します。あなたは治す人ですか、運ぶ人ですか」
治癒師の喉が動いた。
その背後で護教兵が一歩踏み出し、輿の帷が揺れた。
(来る)
私は反射で、カイルの指を二度握った。
いいえ。
カイルが即座に言い切る。
「拒否。令嬢は移送を拒否している」
記録官のペンが走る。
敵の密室じゃない。国の机だ。
治癒師が苛立って笑う。
「代弁など――」
「意思補助登録(本人が言いにくい時の補助手段を国に登録する)で受理されている」
エリオットの声が冷たい。
「代弁ではなく、補助です。あなたが否定するなら否定理由を文書で。署名で」
“署名で”の一言が、相手の背筋を冷やす。
責任を取れ、という意味だから。
リュカが術式具を軽く鳴らした。
「香、出したら終わりだ。証拠になる」
護教兵の動きが止まる。
止まるところが、彼らにも怖いものがある証拠だ。
そこへ、白い外套が現れた。
聖女エレノア。
微笑みだけを貼り付けた顔で、私を見た。
「国が、病を放置するのですか」
ノアが一歩前へ出る。
「病なら国医が診ます。昨日診ました。所見があります」
聖女が私へ視線を滑らせる。
「……あなたは国に利用されている」
喉の奥の空白が、ひやりと鳴る。
でも私は紙を出し、震える指で書いた。
「わたしが きめる」
聖女の目が一瞬だけ歪む。
「文字遊び」
「文字は命令になります」
エリオットが淡々と返す。
「あなたが一番知っている」
聖女は笑みを薄くして、次の刃を落とした。
「なら、ここで診察しましょう。教会治癒師が公開で。あなたは拒めません。病を隠すのですか」
公開。
綺麗な言葉で、恥と圧を作る。
胸の中がぐらついた時、カイルが半身で私の前に立った。
誰の目からも私を隠す角度。
「拒める」
低い声。確かな声。
「国医が診た。再診は国の手続きで予約済み。教会治癒師は利害関係者。拒否して当然だ」
その言葉が、胸の奥に熱い鎖みたいに巻き付く。
守られるのが、怖いのに嬉しい。
私は堪えきれず、カイルの手を合図じゃなく握った。
彼が一瞬だけ目を細める。
(……好き)
言えないのに、身体が先に言ってしまう。
エリオットが追撃する。
「必要なら次回の国医診察に教会側の立会いを認める。条件は香の持ち込み禁止、質問は文書、記録官同席。これで足りる」
条件を並べるほど、敵は動けなくなる。
聖女は小さく笑った。
「……あなた方は本当に紙が好きですね」
「紙が人を守るからです」
ノアの声が静かに落ちる。
聖女の指先がわずかに動いた。
香を出す合図にも見える。
リュカが短く言う。
「出すな」
たった三文字が刃だった。
聖女は動きを止め、治癒師へ視線を投げる。
治癒師の肩が落ちた。
そして聖女は微笑みを戻したまま言った。
「……分かりました。今日は引きましょう」
輿の帷が揺れ、護教兵が退く。
箱は閉じたまま去っていった。
(勝った)
でも勝利はいつも、次の冷えを連れてくる。
人が散り始めた時、膝が少し笑った。
怖さが遅れて来る。
カイルがすぐに私を支え、柱の陰へ連れていく。外套で包む距離。逃げ道のない優しさ。
「よく拒否した」
私は頷き、紙に書いた。
「こわかった」
カイルの喉が動いた。
何か言いそうで、言わない。
代わりに、私の額へ短く口づけた。
許される場所。逃げない場所。
「怖くていい。……俺がいる」
その一言で、胸が焼けた。
少し離れた場所で、エリオットが受領証を整えながら言う。
「これで相手の保護移送は一度折れた。だが次は“正当な命令”を取りに行く。国王名代の封蝋を持ってくる」
ノアが静かに頷く。
「だから、こちらが先に“近づけない”を取るべきです」
接近禁止(特定の人物や組織を近づけない命令)。
香も刻名も、届かなくなる。
その時、廊下の向こうから係官が走ってきた。顔が白い。
「聖女側が、王城広場で祈りの集会を宣言しました。本日夕刻。名目は『国家保全の冒涜を正す』」
集会。群衆。祈り。
“人の目”を武器にするのは、私たちのやり方でもある。だから余計に怖い。
ノアが小さく言う。
「……国の入口を、群衆で塞ぐ気です」
リュカが舌打ちする。
「香を群衆に混ぜる。最悪だ」
エリオットが結論を落とした。
「なら、こちらも公示を打つ。公告板(公式掲示)で、国医所見と移送拒否と調査開始を掲示する。国の紙で、群衆の前に出す」
公告板。
国の目。人の目。
私は胸に手を当て、金属片を握った。角の痛みで自分を固定する。
次に潰す罠は、もう見えている。
群衆の祈りを盾にして、国の手続きを止め、芯を奪い返すこと。




