第44話 暫定措置
向こうがまだ眠っているのに、私の胸の中だけが起きていた。
机の上に置かれた封筒。
後見開始申立て。暫定措置付き。
そして、診断書。
刻名汚染。意思不安定。
(うそ)
紙に書いた二文字を思い出すだけで、喉の空白が痛んだ。
痛みで自分を固定しようとして、私は金属片を握る。角が刺さって、世界が少しだけ濃くなる。
扉が静かに開いて、カイルが入ってきた。まだ鎧の下だけで、髪も少し乱れている。眠っていない顔。
「……起きてたな」
私は頷いて、封筒を指で叩いた。
カイルの視線が紙へ落ち、次に私の喉へ戻る。
その目が、一瞬だけ暗くなる。
「今日は俺がずっと横にいる」
命令形じゃない宣言。
宣言なのに、胸が熱くなる。
私は返事の代わりに、彼の指を一度だけ握った。
ここ。
書斎に皆が集まるのは早かった。
エリオットは紙束を揃えたまま、最初に結論だけ言った。
「暫定措置の争点は一つ。『緊急性』です。相手は“今すぐ隔離が必要”と言う。だからこちらは“今すぐ国医の前に出す”」
ノアが静かに頷く。
「隔離を先にされると、医療も記録も相手の箱になります。……だから箱に入る前に、国の診察を受ける」
リュカが鼻で笑った。
「箱に入れたがるのは、香を焚きたいからだろ。外にいれば、鑑定が取れる」
エリオットが机に置いたのは、受領証の束だった。
意思補助登録の受領証。
国医予約の申請書。
香の成分鑑定請求の下書き。
診断書の真正調査申立て(本物か調べる手続き)。
数字と封蝋が並ぶと、恐怖が少しだけ形になる。
(形になれば折れる)
でも、折れる前に折られる可能性がある。暫定措置は速い。
エリオットが淡々と言う。
「朝一で法務官へ行く。暫定隔離の停止申立てを先に受理させる。根拠は三つ」
指が紙を叩く。
「
一、本人が隔離を拒否している記録。
二、国医の診察枠が確保されている。隔離の代替手段がある。
三、相手診断書が教会付き治癒師。利害関係者の疑いがある
」
“利害関係者”。
言い方が冷たいのに、守る言葉に聞こえるのが不思議だった。
私は、ふとノアの方を見る。
彼は私の手の中に、いつものカードをそっと入れた。
セレナ・アルヴィス(氏名カード)
(戻れる)
薄くなったら、これを見ればいい。
王城へ向かう馬車の中。
窓の外は動き始めた街。
私は外套の端を握り、喉の空白を撫でる冷えを追い払おうとする。
カイルが隣で、私の手を取った。指を絡める。逃げられないほどではない、でも離れない握り。
「息を合わせろ」
私は頷いて、彼の指を一度握る。
ここ。
カイルは小さく息を吐いた。
「……今朝の申立てが通れば、隔離は止まる」
止まらなければ?
問いが頭に浮かんで、胃が冷える。
その瞬間、カイルが私の額に額を寄せた。ほんの一瞬。
「止まらなければ、俺が止める」
紙の言葉じゃない。
でも、紙より強く聞こえた。
恋だ、と身体が勝手に答えてしまって、私は目を逸らせなかった。
法務官室は朝から混んでいた。
人の声、紙の音、靴音。現実が濃い。
法務官は私たちを見るなり、疲れた声を出した。
「……来たか。暫定措置だろう」
エリオットが受領証を差し出す。
「はい。暫定隔離の停止申立て。今日中に受理を」
法務官が眉を寄せる。
「相手は聖女だ。国王名代も動く。止められるかどうかは――」
「止めるために紙を出します」
エリオットは淡々と封筒を並べた。
隔離拒否の議事録控え。
意思補助登録の受理控え。
国医予約の申請書。
香の妨害の保全記録。
刻名式停止命令違反の記録。
ノアの父が低く言う。
「枢機卿府としても、暫定隔離には反対する。証拠も、保全も、国の手続きで進んでいる」
法務官は長く息を吐き、封筒の封蝋を見た。
「……受理する。だが、評議会の臨時決裁が必要になる」
受理。
番号が付く。
それだけで、胸が少し軽くなった。
(先に受理)
(先に鎖)
しかし、軽くなった胸を、すぐに冷やす声がした。
「臨時決裁なら、もう出ております」
扉の前に立っていたのは、白い外套の使者だった。
教会の印章を胸に、王城の通行札を下げている。
使者は、文書を掲げた。
暫定措置命令。
隔離場所は、王城礼拝堂付属。
立会いは、教会治癒師。
(箱だ)
法務官の顔色が変わる。
「……こんなに早く……」
エリオットの目が冷たくなる。
「その命令の根拠は?」
使者が、診断書を添えて差し出した。
治癒師診断書(刻名汚染)。
ノアが静かに言う。
「治癒師はどこの所属ですか」
使者が胸を張る。
「正教会附属治癒院」
エリオットが淡々と返す。
「利害関係者」
その一言で、使者の眉が動いた。
法務官が咳払いをして言う。
「……だが、暫定措置は緊急性だ。診断書がある以上――」
「緊急性を否定します」
エリオットが被せる。
「国医の診察枠がある。本人は拒否している。意思補助登録が受理されている。隔離は最終手段であり、代替手段がある」
法務官が唇を噛む。
「それでも、命令が出た以上――」
その瞬間、カイルが一歩前へ出た。盾の背中。
「なら、“現場”で止める。命令の執行条件を確認する」
使者が嘲るように笑う。
「騎士が命令に逆らうと?」
「逆らわない」
カイルの声は低い。
「命令に従うために、命令の条件を守らせる。香は禁止。密室禁止。記録官同席。本人の意思確認。国医の立会い」
条件を並べるほど、命令は重くなる。動きにくくなる。
エリオットが続けた。
「そして、この暫定措置命令は“執行前に本人の意思確認を行う”と書けていない。書けていないなら、執行手続きの追補が要る。今ここで受理してもらいます」
法務官の目が開く。
(追補で止める)
法務官はしばらく黙ってから、書類を引き寄せた。
「……分かった。執行手続きの追補を作る。記録官を付ける。香は禁止。密室禁止。国医の立会いを求める」
使者が顔を歪める。
「そんな……」
「嫌なら、拒否理由を文書で」
エリオットの声が冷たい。
「聖女が国の形式を拒否するなら、聖女は国に逆らうことになる」
使者は黙った。
黙れば、紙が勝つ。
王城礼拝堂付属の隔離室は、扉が開いたままだった。
扉が開いているだけで、私は少し息ができた。
密室じゃない。逃げ道がある。
記録官が机を置き、紙を広げる。
国医が入ってくる。白衣の老人。目が現実的だ。
教会治癒師が不満げに立つ。
白い外套の奥に、香の気配。
リュカが低く言う。
「匂い、持ってる」
私は喉が冷える。
でもカイルが私の前に立って、外套で口元を覆う。
「吸うな」
私は頷き、彼の指を一度握った。
ここ。
国医が淡々と宣言した。
「隔離の要否は私が診る。宗教語ではなく、症状で判断する」
教会治癒師が言い返そうとした瞬間、ノアが静かに言う。
「国の鑑定に従ってください。従えないなら、診断書は偏りとして記録されます」
記録官のペンが、すでに走っている。
国医が私に向き直る。
「名前は書けるか」
私は震える指で、紙に書く。
セレナ・アルヴィス
国医が頷く。
「質問。隔離に同意するか」
私は、紙に大きく書いた。
「いいえ」
そして、カイルの指を二度握った。
いいえ。
記録官が読み上げる。
「対象者、隔離を拒否。筆記で意思表示。握り二回で拒否の補助表示」
教会治癒師の顔が歪む。
国医は淡々と続けた。
「症状。喉の発話阻害、記憶の一部欠落。しかし意思理解は保たれている。隔離は不要。必要なのは継続観察と、香の曝露回避だ」
曝露回避。
つまり、香が原因になり得る。
リュカが短く笑った。
「ほらな」
教会治癒師が噛みつく。
「刻名汚染は――」
国医が切った。
「刻名汚染という医学用語はない。根拠を出せ」
根拠。
紙。数字。
教会治癒師は黙るしかなかった。
隔離は、成立しなかった。
暫定措置命令は、執行条件の追補で無力化され、国医の所見で折れた。
それでも胸の奥は熱くて、震えが残る。
帰りの廊下で、カイルが私の肩を抱いた。逃がさない距離。
「……よく拒否した」
私は頷いて、紙に書いた。
「こわかった」
カイルがそれを見て、低く言う。
「怖くていい」
そして、額に短く口づけた。
その甘さで、涙が出そうになる。
でも――涙が出る前に、エリオットが私へ封筒を差し出した。
「国医所見の写し。受領番号付き。これで相手の診断書は弱くなる」
私は受け取って胸に抱えた。
紙の重さが、私の輪郭になる。
ノアが小さく言う。
「……あなたが拒否できた。だから次は、拒否を“書けない”場を作りに来ます」
リュカが吐き捨てる。
「香を強くする。短時間で削る。……次は“裁判”じゃねえ。奇跡だって言い出すぞ」
エリオットが静かに結論を言った。
「次の罠は、暫定措置ではなく“保護”の名を借りた移送です。あなたを国医から遠ざけ、教会の箱に入れる」
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
次に潰す罠は、もう見えている。
「保護の名で、私を王城外へ移送すること」




