第42話 意思能力の壁
「……本人が意思表示できないのなら、あなたの“保護婚約”も無効です」
聖女の声が、会議室の空気を凍らせた。
“無効”という言葉は、紙より強い顔をする。
――だからこそ、紙で殴り返す。
私は喉の奥が冷えた。
母の輪郭が薄いことが、急に武器にされる気がした。
その瞬間、カイルの手が強くなった。強くないのに、逃げられない強さ。
「見るな」
耳元で落ちる命令形。
私は頷いて、二度握った。
いいえ。
カイルが即座に言い切る。
「令嬢は隔離を拒否している。いまこの場で、記録官立会いで示した」
ペンの走る音が、やけに心地いい。
拒否が、紙になる。
聖女は微笑んだまま続ける。
「代弁は無意味。本人の意思は不確かです。……あなた方は“都合のいい合図”で操作している」
――来た。
“合図の否定”は、私の足場を崩す。
だからエリオットが、静かに立ち上がった。
「それは違います」
声は淡々として、冷たい。
「合図は“今日、今、勝手に作った”ものではない。意思表示補助手段として、すでに手続きで受理され、議事録に固定されている」
エリオットが机に置いたのは、受領証の束だった。
番号。封蝋。記録官の署名。
「誓文拒否の意思確認室。握り二回=拒否、の記録。
礼拝堂予備聴取の同条件受理。
国家保全封緘覚書への本人印(○)。
――これらは全て、第三者立会いで成立している」
聖女の微笑みが、ほんの僅かに薄くなる。
「それでも、意思能力がないなら無効でしょう?」
「無効にするには、順序があります」
エリオットは一拍も置かずに言った。
「意思能力の否定(=契約の意味を理解できない、という認定)は、この評議会の権限ではありません。
必要なのは、医療(治癒)鑑定と、法務の審査、そして――裁判手続きです」
会議室がざわついた。
“裁判”という単語は、皆が嫌う。時間も責任も伴うから。
枢機卿(ノアの父)が、静かに追い打ちを落とす。
「教会が“汚染”と呼ぶなら、なおさら医療鑑定が要る。信仰語で人の権利を止めるな」
ノアが一歩進み、聖女へ目を合わせた。
「あなたは“隔離”と言った。隔離は身柄拘束に近い。
拘束には根拠文書と、期間と、監督者が必要です。――あなたの紙には、それがない」
聖女は唇を薄く引く。
「……では鑑定を。今すぐ。彼女は刻名式に触れた。記憶が摩耗している。危険です」
危険。危険。危険。
言葉で塗るつもりだ。
リュカが、そこで前へ出た。珍しく、まっすぐに。
「摩耗させてんのは香だろ」
ぶっきらぼうな声が、会議室の空気を割る。
「礼拝堂で“隠し香”を仕込んだ証拠は保全した。内陣でも香が焚かれてた。
――刻名式のせいにする前に、香の成分鑑定(=何が入ってるか)を出せ」
聖女が目を細める。
「魔術省の言葉など――」
「国の鑑定だ」
リュカが言い切る。
「信じないなら、信じないって文書で書け。責任者名つきで」
文書。署名。責任。
それが嫌で、聖女は口を強くしてきたはずなのに。
議長代行が木槌を鳴らした。
「……よろしい。意思能力の議論は――」
「待ってください」
カイルが低く遮った。
盾の声が、珍しく会議室を止める。
「意思能力が争点になるなら、“本人の確認”を今ここでやる。
この場で、第三者立会いで、短い質問を。――拒否が出れば拒否、理解が示されれば理解、記録に落とす」
聖女が微笑む。
「言えない者に?」
「言えないなら、書く」
カイルは私を見ないまま言った。
でもその声が、私の背骨を立てる。
「書けるだろ」
胸が熱くなる。
“できる”と言われると、身体がその通りに動く。
エリオットがすぐに補足した。
「意思能力の最低確認で十分です。
①自分が何を拒否しているか分かるか
②拒否した場合の結果が分かるか
③同意した場合の結果が分かるか」
議長代行が渋い顔で頷き、記録官へ目配せした。
「……簡易確認を行う。記録官、記録。聖女側も立会いは可能だが、圧力行為は即時中止。香も禁止だ」
聖女の微笑みが、さらに薄くなる。
(密室じゃない)
(圧が入れられない)
私は呼吸を整えようとして、喉の空白が痛んだ。
その痛みを、カイルの手が支える。
彼が耳元で低く言った。
「大丈夫。言えなくてもいい。――俺が待つ」
待つ、という言葉が恋みたいに刺さった。
記録官が白紙を差し出した。
ペンも。
手が震える。
でも、震えていい。書けるなら。
最初の質問が読み上げられる。
「アルヴィス伯爵令嬢。『隔離』とは何ですか。あなたに何が起きますか」
私は息を吸い、紙に書いた。
「とじこめられる」
「ひとりにされる」
次の質問。
「隔離を拒否すると、何が起きますか」
私は書く。
「きょひしたまま ここにいる」
「てつづきで きめる」
三つ目。
「隔離に同意すると、何が起きますか」
胸が冷えた。
“同意”の文字が、削られそうになる。
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定して、書いた。
「もどれなくなる」
「いやが いえなくなる」
ペン先が少し滲んだ。
でも、文字は残る。
記録官が淡々と宣言する。
「記録。対象者は質問を理解し、拒否と結果を把握している。意思能力に明確な欠缺は認められず」
会議室の空気が、目に見えて変わった。
“意思能力なし”という札が、貼れなくなった。
聖女が、はっきりと苛立ちを滲ませる。
「文字を書けても、誘導されている可能性が――」
「誘導はあなたが得意だ」
枢機卿が静かに落とす。
「香も、刻名も」
そして、ノアが一言だけ刺した。
「……彼女の字は、彼女の震え方をしている」
その言葉が、胸に落ちた。
私の震えを、“見てくれている”と思った瞬間、涙が出そうになる。
カイルの親指が、私の手の甲を一度だけ撫でた。
その撫で方が、叱咤じゃなく慰めで――恋だと分かってしまうのが苦しい。
聖女が次の矢を放つ。
「では“保護婚約”は。本人が契約語を言えないなら、成立していない。無効です」
エリオットが、静かに笑わずに笑った。
「保護婚約覚書は、“契約語の口頭”で成立していない。書面で成立している。
そして重要なのはここだ」
彼は覚書の写しを掲げ、条項を指で叩いた。
「解除は“×印一つで即時”。
本人が意思表示できないなら、むしろ“解除できない”として保護が強く働く。
あなたの理屈だと、『本人が弱っている時ほど守る手段が消える』――そんな制度は国が認めない」
議長代行が呻く。
「……筋が通っている」
聖女が噛みつく。
「では私は、隔離要請を国王名代へ――」
「どうぞ」
エリオットが淡々と言った。
「その場合、要請は“医療鑑定書”が添付必須。香の成分鑑定も併せて提出してください。
提出できないなら、あなたの要請は“印象操作”として記録に残る」
記録官のペンが止まらない。
――ざまぁ。
聖女の一番強い武器、“人を箱に入れる言葉”が、紙の前で折れた。
会議が休憩に入った。
廊下へ出た瞬間、膝が少し笑った。
カイルがすぐに私を支え、壁際へ連れていく。外套で包む距離。
「……よく書いた」
私は小さく頷いた。
喉が痛い。胸が熱い。
エリオットが少し離れた場所で言う。
「君の字は、武器だ。消えない」
ノアが、私の掌に例のカードを重ねた。
セレナ・アルヴィス
「……薄くなっても、戻ってこれるように」
リュカがぶっきらぼうに言う。
「香の成分、取ってやる。あいつらの“汚染”って言葉、全部逆にしてやる」
私は、四人の顔を見て、息を吸った。
そして――カイルの手を、今度は合図じゃなく、ただ握った。
彼が一瞬だけ目を細める。
「……離すなよ」
その言葉が、心に鎖みたいに巻き付く。
休憩明け、議長代行が木槌を鳴らした。
「本日の結論。隔離要請は保留。意思能力否定は不成立。保護婚約覚書は有効。
次回議題――香の成分鑑定と、受理偽装の調査」
聖女が、微笑みを戻した。
戻した、だけ。
目は笑っていない。
「……分かりました。では次は、正式に申し立てます」
正式に。
その単語が、背中を冷やす。
(裁判手続きに持ち込む)
(時間を使って、私を削る)
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
次に潰す罠は、はっきりしている。
「後見(=意思能力なし)の正式申立で時間を奪い、香と刻名で“本当に”意思を削り切ること」




