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異端の奇跡でやり直し。~正教会が世界を染める前に、私が潰します~  作者: 綾瀬蒼


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第4話 夜の事故


夜は、音がよく聞こえる。


昼間なら庭のざわめきに紛れる足音も、蝋燭の火がぱちりと弾ける小さな音も、夜更けにはやけに鮮明だ。だから私は、眠れなかった。


寝台の上で目を閉じても、脳裏に浮かぶのは大聖堂の石の冷たさと、断罪の鐘――そして、封蝋の縁の“薄さ”。


(今夜、来る)


来ないほうが助かる。けれど来ないなら来ないで、教会は別の場所で仕込むだけだ。なら、来る夜に捕まえたほうがいい。


私は上掛けを肩にかけ、手帳を開いた。昼に書いた文字を指でなぞる。


――『今夜、必ず動く』


その隣に、私は小さく追記してある。


――『副隊長名:カイル・グラント』


指先で触れた瞬間、胸の奥がまたちくりと痛んだ。昼、私は彼の名前が出なかった。今は書いてあるから思い出せる。思い出せる、というより“参照できる”。


(……怖い)


戻れる奇跡が、私の何かを削っている。分かっているのに、止まれない。


止まったら、焼かれる。


私は手帳を閉じ、部屋を出た。


廊下には父がつけてくれた護衛がいる。彼らに気づかれないようにする必要はない。むしろ、気づかせるために歩く。


「セレナ様、こんな時間に」


「保管庫の様子を見に行きます。……今夜は警戒を上げて」


護衛が緊張を強める。私はそれ以上言わない。言わずとも、彼らには“何かある”と伝わる。


保管庫へ向かう通路は、石壁が続く。窓が少なく、月明かりも届かない。だから私は昼間のうちに、床に薄く白粉を撒いておいた。誰かが歩けば足跡が残る程度に、目立たない程度に。


そしてもう一つ。


保管庫の扉の前の壁に、糸を一本、ぴんと張ってある。暗いと見えないが、通れば引っかかって切れる。切れたら分かる。


――小さな罠。けれど“記録”と同じだ。派手な剣より、細い線が効く。


扉の前には騎士団の巡察が二名。外套の影が廊下に落ちている。


「令嬢」


小声で呼ばれ、私は顔を上げた。


そこに立っていたのは、カイル・グラント。昼と同じ、濃紺の外套。眠気のない灰色の目。


「巡察隊は配置しました。伯爵家の護衛とも連携しています」


「ありがとうございます」


私は扉を見た。封蝋は……昼に押し直したばかりの厚みを保っている。


「異常は?」


「今のところは」


カイルが答えた瞬間――廊下の奥、曲がり角の向こうから、衣擦れの音がした。


人が近づく音。しかも一人じゃない。


巡察の騎士がすっと姿勢を変える。カイルも同じだ。気配が鋭くなる。


曲がり角から現れたのは、黒衣の司祭が二人。そしてその後ろに、フードを深く被った男が一人。


司祭が、丁寧な笑みを作って頭を下げた。


「この時間に失礼いたします。大聖堂管理局より、聖遺布の移送準備のため……扉を開けさせていただきたく」


昼の司祭と同じ台詞。


同じ台詞は、同じ罠だ。


私は笑わなかった。代わりに、淡々と聞く。


「書面は」


司祭は袖から巻紙を出した。封蝋は白、印章もある。けれど――


私は受け取らず、目だけで見る。


「差出人の署名が違う。これは管理局の代筆ですね。規定上、聖遺布の移送命令は“大司祭以上の直筆”です」


司祭の笑みが固まる。


「令嬢、そこまで細かい規定を……」


「必要だから覚えました」


言い切ってから、私はカイルへ視線を送る。


カイルは一歩前へ出た。


「騎士団としても、書面が不備な移送は認めません。加えて――この時間の移送は不審です。日中に改めて」


司祭の目が揺れる。彼らはここで引くべきだ。引けば“怪しさ”は残るが、現行は取れない。


しかし、彼らは引けなかった。


後ろのフードの男が、ふらりと前へ出た。


「……時間がないのだ」


声が低い。司祭より粗い口調。教会の人間にしては雑。


その男が、腰のあたりから何かを取り出した。


一瞬、銀色が光る。


――短剣?


騎士が動くより早く、男はそれを扉へ向けた。封蝋の上から無理やり刃を突き立てるつもりだ。


「やめなさい!」


私が叫んだ瞬間、カイルが踏み込んだ。


刃が封蝋に触れる直前、カイルの手が男の手首を掴む。骨が鳴る音。男が呻いた。


「……っ!」


同時に巡察の騎士が司祭二人を押さえる。司祭は悲鳴を上げるが、抵抗の仕方が下手だ。最初から“捕まる前提”ではない。つまり、これは正教会が表でやる仕事じゃない。


フードの男が、口元を歪めた。


「離せ……!」


力任せに振りほどこうとした瞬間、男の袖から小瓶が転がり落ちた。


床に当たって、ころりと回る。


黒い液体。


私は息を呑んだ。


――あれだ。聖遺布に付いていた黒い染みの色。


男が慌てて瓶を踏みつけようとする。けれど白粉の床が、彼の足をくっきり映した。足跡が踊るように残る。証拠が増える。


「動くな」


カイルの声が冷たく落ちる。


彼は男を壁へ押し付け、短剣を奪い取った。刃には、黒い液の匂いがうっすらと付いている。


「これは何だ」


男は唇を噛み、ふっと笑った。


「……お前たち、何も分かっていない。これは“浄化”だ」


浄化。


その言葉が、胃の底を冷たく撫でた。


正教会は、何でも浄化と言う。穢れを作っておいて、浄化で焼く。


私は男のフードを見つめた。顔は半分隠れているが、頬の線は粗い。貴族でも司祭でもない。雇われだ。


「誰に雇われたの」


男は答えない。歯を食いしばる。


代わりに司祭の一人が震えながら叫んだ。


「違います! 私たちはただ……管理局の命令で来ただけで……!」


「なら、なぜ鍵を持っていないの」


私は淡々と返す。


「正規の移送なら鍵管理者が同行します。あなた方は、鍵がない。扉をこじ開けるつもりだった」


司祭の顔から血の気が引いた。


カイルが男の懐を探り、布袋を取り出した。中から出てきたのは――柔らかい粘土の塊。


私は目を細めた。


昼、棚の奥で触れた“鍵の型取り”の欠片と同じ匂い。


「……それ、鍵の型だわ」


私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「伯爵家の保管庫の鍵を複製しようとした。今日、鍵を交換したから間に合わなくなって、力ずくに変えた」


カイルの目が僅かに鋭くなる。


「つまり、昼の段階で既に侵入されていた可能性がある」


「ええ」


私は頷き、扉の封蝋へ視線をやった。


「だから、封蝋を押し直した。……今夜、来ると分かっていたから」


“分かっていた”。その言葉が喉に引っかかる。未来を知っているとは言えない。けれど、私はこれ以上、同じ手を許せない。


司祭が、泣きそうな声で言った。


「令嬢、これは誤解です! 聖遺布は大切なもの、我々も守るために……」


「守るために刃物を持ち込むの?」


私が問い返すと、司祭は黙った。


静寂が落ちる。


遠くで、伯爵家の護衛が走ってくる足音。灯りが増え、廊下が明るくなる。その明るさの中で、床の白粉に残る足跡が、くっきりと浮かび上がっていた。


――動かぬ証拠。


「令嬢」


カイルが低い声で言った。


「この件は騎士団が預かります。教会へ引き渡せば揉み消される。……伯爵家の名誉も守るために、王城へ正式に報告を」


私は頷く。


「はい。書面は私が作ります。封蝋、署名、時刻、立会い、押さえた物。全部」


言いながら、私は手帳を取り出した。


その瞬間、頭の中が一瞬、真っ白になる。


(……今夜の巡察、誰が来るって、私は――)


さっきまで確かに覚えていたはずの細部が、霧みたいに散った。名前が、番号が、配置が。


手帳を開くと、そこに書いてある。


――『今夜:巡察隊2+副隊長。配置:扉前、曲がり角、庭側窓。合図:二回の足音』


書いてある。だから分かる。


私は息を吐き、ペンを走らせた。記録は私を裏切らない。記憶は裏切っても。


「……セレナ様」


護衛が駆け寄ってきて、状況を見て顔色を変えた。


「これは……!」


「大丈夫。捕まえたわ」


私は言った。


“捕まえた”。本当は、捕まえたのはカイルだ。けれど、私が盤面を作った。だから、これは私の勝ちでもある。


司祭の一人が、最後の足掻きのように言った。


「令嬢、あなたは教会に逆らうおつもりですか。正教会は国の導き手。あなたが今していることは……」


「国を守ることです」


私は遮った。


「信仰を盾に、私の家へ侵入し、聖遺布を汚して罪を作る。そんなものは導きではない。権力です」


司祭の顔が歪む。


その時、廊下の端に、白い影が見えた気がした。


ほんの一瞬。蝋燭の火が揺れただけかもしれない。


けれど、私は確かに――慈愛の微笑みを思い出した。


聖女エレノア。


(見ている)


見ている。私が今夜、動いたことを。教会の手が失敗したことを。


胸が冷える。


でも、同時に熱くもなる。


「……次は、あなたの番よ」


私は心の中で言った。


翌朝、私が徹夜で仕上げた報告書は三通になった。


一通は王城宛。騎士団経由で正式に。

一通は伯爵家の控えとして。封蝋付きで保管。

そしてもう一通――財務大臣府宛に、寄進の記録と合わせて。


金の流れは、権力の背骨だ。背骨を折れば、巨体は立てない。


机に封を置いた瞬間、窓の外で朝の鐘が鳴った。


その音は、祈りの音ではない。


戦の合図だ。


そして、まるでそれに合わせるように、玄関から侍女マリアの声が飛び込んできた。


「セレナ様! 大聖堂から……“聖女様”から、直々のお手紙が!」


私はペンを置き、ゆっくり立ち上がった。


来た。


私の二周目に、聖女が直接、手を伸ばしてくる。


封蝋は白。けれど、指先に触れた瞬間だけ、冷たさが違った。


――あの大聖堂の空気と同じ冷たさ。


私は封を切る前に、手帳を開いて一行だけ書いた。


『聖女、動く。ここからが本番』


そして私は、白い封筒を開けた。

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