第39話 強制開錠の受理
扉の隙間から漏れる甘い匂いが、喉の奥の空白に絡みついた。
世界が薄くなる。言葉の輪郭が、指先から抜け落ちていく。
(だめ)
私は金属片を握った。角が刺さる痛みで、自分を縫い止める。
それでも匂いは、じわじわと“拒否”の場所を削りに来る。
その瞬間、カイルが私を引き寄せた。外套の内側に押し込むみたいに。
胸板が近い。心臓の音が、布越しに伝わる。
「吸うな。俺の中に隠れろ」
命令形なのに、抱きしめる言い方。
私は彼の外套を掴み、必死に頷く。
そして――一度、強く握った。
“ここ”。
カイルの指が同じだけ返した。
それだけで、薄くなりかけた世界が少し戻る。
扉の向こうで、聖女が笑う気配がした。
「記録で止める? 無理ですよ。ここは祈りの場。あなた方の紙は、香で燃え尽きる」
燃え尽きる、だと?
エリオットが、冷たい声で返した。
「燃えない形にします」
次の瞬間、彼は封筒を二つ取り出し、扉番の係へ突きつけた。
「法務官発行の立入検査命令(=中を確認する命令書)。受領番号付き。
開けないなら、“命令不履行”としてあなたの名前で議事録に残る」
係の顔が真っ青になる。
「わ、私は……鍵が……」
「鍵がないなら、破っていい」
カイルが言った。静かで、怖い声。
係が息を呑む。
「ただし――」
ノアが続ける。
「破る前に、最後の確認を。命令書の受領、拒否、どちらですか。どちらでも記録になります」
逃げ道がない。
係は震える手で命令書を受け取った。
受領証が作られ、番号が付く。
“扉を開ける紙”が、正式にここに置かれた。
聖女の声が、少しだけ苛立つ。
「……扉を壊すのですか。なんて粗野な」
エリオットが淡々と言った。
「粗野なのは、香で人の意思を削る方です」
リュカが短く吐き捨てる。
「壊すのは扉じゃねえ。匂いの逃げ道だ」
彼が術式具を床に置くと、空気が“きしっ”と鳴った。
匂いの流れが、ほんの数瞬だけ鈍る。
「今!」
カイルが頷き、扉の蝶番へ手を伸ばした。
壊すのではなく、外す。
騎士がやると、暴力じゃなく“解体”になる。
金具が外れる音。
扉が、重く内側へ倒れた。
部屋の中は、香が濃かった。
机、書類棚、蝋燭。
そして中央に置かれた、小さな祭壇。
祭壇の上に、銀の小箱。布で覆われている。
その布に、見覚えのある紋。
――統合派の印。
聖女エレノアはその祭壇の横に立ち、微笑んでいた。
「ようこそ。……遅かったですね」
彼女の指先が、小箱に触れる。
「ここに“芯”があります。あなたが望むなら見せてあげる。――でも、条件があります」
条件。
その単語が、喉の空白を冷やす。
聖女は私を見る。見透かす目。
「あなたは誓いなさい。『私は回帰を用いていない』と」
“契約語”。
台帳の文字が脳内で光る。次に削られる言葉。
私は反射で、カイルの手を二度握った。
いいえ。
カイルが一歩前へ出た。盾の背中で、聖女の視線を切る。
「条件は受けない」
聖女が笑った。
「あなたが拒否しても、あなたの“婚約者”が誓えばいい」
婚約者――その言葉をわざと投げる。
場を乱すために。
エリオットが、逃げずに前へ出た。
「誓いません」
低い声。揺れない声。
「そしてあなたは今、王城内で誓文行為を迫った。立入検査命令の範囲外です。議事録に落とします」
記録官のペンが走る音が、香より強い。
聖女の微笑みが、はっきり割れた。
「……あなた、彼女を盾にして権力遊びを?」
「違う」
エリオットは一拍も置かず、言い切った。
「俺は彼女を守る。――守るために権力を使う」
その言葉は、制度の言葉なのに、告白みたいに熱かった。
カイルの肩が僅かに強張る。
ノアの視線が一瞬だけ落ちる。
リュカが「面倒くせえ」と小さく吐く。
――でも私は、その熱で息が戻った。
(守られてる)
(でも、選ばされてる)
胸の奥が、痛い。
リュカが祭壇へ近づき、術式具をかざした。
「……これ、芯じゃねえ」
聖女の目が鋭くなる。
「何を――」
「外側の“器”だ。中心が空洞。さっきの外箱と同じ匂いだ」
リュカが布をめくる。
銀の小箱。封印は綺麗。――綺麗すぎる。
「偽物」
その一言で、部屋の空気が変わった。
聖女が、ほんの僅かに笑った。
「……当たり前でしょう。あなた方が来るのは分かっていましたから」
そして彼女は、机の上の紙を指で叩いた。
そこには、もう一つの“正当”があった。
《移送受領証(写)》
受領者:王城礼拝堂・内陣係
物件:聖具芯
時刻:先刻
「芯は、もう内陣へ」
聖女が囁くように言う。
「そこはあなた方の“紙”が届く前に、儀式が始められる場所」
内陣。
王城礼拝堂の、さらに奥。
国王名代が入れる場所。
(統合の儀式に組み込む)
エリオットが、すぐに写しを取ろうと手を伸ばす。
しかし聖女が指を鳴らした。
ふわり、と香が強くなる。
視界が滲む。
言葉の角が丸まる。
(削られる)
その瞬間、カイルが私の頬に指を添え、顔を上げさせた。
近い。目が、近い。
「俺を見る」
命令形。
でもそれは、私の世界を固定する合図。
私は必死に頷き、カイルの指を一度握る。
“ここ”。
カイルが、低く続けた。
「お前の“いいえ”は、俺が抱えて持ってく」
抱えて持つ。
その言い方が、甘くて痛い。
ノアが一歩前に出て、聖女へ静かに言った。
「聖女様。香を焚くのは条件違反です。――あなたの告発状に“圧力下”の疑いが付きます」
「疑い?」
聖女が笑う。
「あなた方は疑いばかり。……信じるものがないのですか」
ノアは、私を一瞬だけ見た。
その目が、静かに熱い。
「僕は、信じています」
短い。けれど逃げない。
「彼女の“怖い”が本物だと。――だから、あなたの香は許しません」
その言葉で、胸がきゅっと鳴った。
恋の温度が、別の方向から刺さる。
リュカが床に術式を叩きつける。
「遮断、最大」
空気が硬くなる。香の流れが止まる。
完全じゃない。でも、今は足りる。
エリオットが写しを掴み、記録官へ差し出した。
「これを証拠として保全。写しでいい。受領番号を付けろ」
聖女が舌打ちを飲み込み、目を細める。
「……遅いですよ。内陣はもう――」
「遅くない」
カイルが言った。
「俺たちは“入口”で止めてきた。なら次は、“奥”でも止める」
そしてカイルは、私の手を一度、強く握った。
宣言みたいに。
「行くぞ」
部屋を出る直前、エリオットが私の横へ来て、小さく言った。
「怖いなら、俺の手を取っていい」
取っていい、じゃない。
取れ、とも言わない。
選ばせる言い方が、ずるい。
私は一拍迷って――でも、今は迷っている時間がない。
私は、カイルの手を握ったまま、もう片方でエリオットの袖を“掴んだ”。
手ではない。袖。逃げられる距離。
(両方、必要)
(今は、どちらも)
エリオットの目がほんの少し柔らかくなる。
カイルは何も言わない。言わないまま、手だけ強くする。
ノアが静かに前へ回った。
「内陣の入口は二つあります。……先回りします」
リュカが短く言う。
「匂いが来る前に決めろ。内陣は密室だ」
私は喉の奥の空白を抱えたまま、走り出した。
――芯は、王城礼拝堂・内陣へ。
そしてそこでは、“統合の儀式”が始まる。
次に潰す罠は、ひとつだけ。
「内陣で“誓文原本なしの回帰停止”を成立させること」




