第38話 移送受領証
外箱は、重いくせに空っぽだった。
「……軽い。芯がない」
リュカの声が低く落ちた瞬間、喉の奥の空白がひやりと広がりそうになった。
“間に合わなかった”という言葉が、身体の内側から崩してくる。
でも――崩れる前に、指が握られていた。
カイルの手。
強くないのに、逃げ道を塞ぐ握り方。
「まだ終わってない」
額が触れるか触れないかの距離で、カイルが言う。
前に立つ盾の声じゃない。私にだけ落ちる声。
胸の痛い熱が、すこしだけ甘い方へ傾いた。
(終わってない)
(私が、ここにいる限り)
私は返事の代わりに、彼の指を一度だけ握り返した。
枢機卿が命じ、出入り台帳が机に置かれる。
新しいインク。新しい筆圧。
“封鎖中に出た”記録がある。
エリオットが指でなぞる。
「この時間帯。封鎖中。――ここが“移送の事実”だ」
ノアが覗き込み、息を吸った。
「……名が偽装されています。書記官の筆致に似せてる」
「触媒だな」
リュカが短く吐く。
「癖を馴染ませるやつ。台帳と同じ系統だ」
つまり、敵は“記録を作る”ことを知っている。
だから、こちらは“記録を固定する”しかない。
エリオットが即座に結論を出した。
「次は、移送受領証(=移したことを受け取った証明)を探す。
芯を動かしたなら、必ず“受理”の形にする。形がなければ違法移送。形があるなら、そこを折る」
枢機卿が頷いた。
「移送は枢機卿府の管轄だ。芯を運ぶなら、庫長の署名が要る。――庫長、確認しろ」
文書庫長が台帳をめくり、首を横に振った。
「……私の署名ではない」
その一言で、場の空気が変わる。
(違法)
(だからこそ“国”の印を使う)
ノアが小さく言った。
「統合派は、国王名代の名を借りる可能性があります。『保全のため王城に移した』と」
カイルが低く言う。
「王城へ?」
「はい」
エリオットが紙束を抱え直す。
「だから、先に“確認”を受理させる。王城文書所の特別保管庫。――あそこなら、持ち込みも受領証も残る」
私の胸がきゅっと鳴った。
王城文書所。
また、入口の場所。
入口で止めれば、流れは止まる。
移動の途中、カイルが私の歩幅に合わせてくれる。
でも速い。早くて、優しい。
階段を下りるとき、カイルは一瞬だけ私の腰に手を添えた。
押し上げるでもない、落ちないように支えるだけの手。
(……近い)
鼓動が、喉の空白を叩く。
その後ろで、エリオットとカイルの会話が、低く交わされる。
「……保護婚約、あれは必要だった」
エリオットの声は淡々としているのに、妙に硬い。
「必要なのは分かる」
カイルが言う。硬い。
「だが、令嬢の前で“婚約者”を名乗るのは――」
「名乗ったのは聖女だ」
エリオットが切った。
「俺は“代理権”を名乗っただけだ。勘違いするな」
その言い方が、喧嘩なのに少しだけ甘い。
私は胸の奥が熱くなって、逃げるようにノアの方を見る。
ノアは気づいたのか、何も言わずに小さな紙片を差し出した。
そこには短く書かれている。
『二度握れば いいえ』
私はそれを指でなぞり、頷いた。
ノアが小さく、私にだけ言う。
「……あなたの“いいえ”は、僕らが守る。誰が、じゃなくて」
誰が、じゃなくて。
その一言が、胸に刺さる。
でも、次の瞬間、カイルが私の手をぎゅっと握った。
一度。
“俺がいる”の一度。
(……誰が、じゃないはずなのに)
(今は、あなたが一番近い)
そんな自分の心が、少し怖い。
王城文書所・特別保管庫の前。
扉番の役人が眉を寄せた。
「……ここは王家預かりの区画です。立会いなく開けられません」
エリオットが封筒を差し出す。王城法務官の封蝋。受領番号。
「立会いを呼んでください。こちらは“現状保全命令”の追補。
大聖堂地下の物件が移送された疑いがある。――保管庫に入っているなら、受領証を確認する必要があります」
役人は渋ったが、封蝋を見ると顔色が変わった。
「……少々」
数分後、立会い役――文書所の上級書記官が現れる。
疲れた目。眠れない目。
「またあなた方ですか」
「またです」
エリオットが淡々と返す。
「今回は“芯”です。聖具の芯。回帰の起点。――受理が残っているはずです」
上級書記官の眉が動く。
「……そんなものは」
「“ない”なら、それを記録にします」
エリオットの声が冷たくなる。
「“王城保管庫に受領記録がない”。つまり、正当な移送ではない。――その場合、移送者は国法で裁かれる」
書記官が沈黙した。
沈黙は、扉を開ける。
「……立会いで、確認します」
鍵が回る。
重い扉が開く。
中は、紙と鉄と冷気。
祈りの匂いがないだけで、少し呼吸が戻る。
書記官が棚の台帳を引き出す。
《特別保管庫 受領台帳》
エリオットが指で示す。
「今日の時刻。保管物件。差出人。受領者。受領番号」
書記官がページをめくり――止まった。
「……あります」
胸が冷える。
(正当な受理が、作られている)
書記官が読み上げる。
「物件:祭具(聖具部材)一式。差出:大聖堂管理区画。受領:王城礼拝堂附属・聖務係。受領番号――」
数字が落ちる。
その瞬間、エリオットの目が鋭くなった。
「その受領番号、読み上げをもう一度」
書記官が言い直す。
――微妙に、桁が違う。
私の掌の金属片が、痛みで教えてくる。
(違う)
(数字が“似てる”だけ)
リュカが鼻で笑った。
「触媒だな。番号の癖を似せてる。けど、完全じゃねえ」
ノアが低く言う。
「台帳の受領者欄……署名が、枢機卿府の書記官に似ています」
枢機卿の目が冷えた。
「似せた、か」
エリオットが即座に言う。
「この受理は偽装の可能性が高い。――台帳ページの証拠保全を。控えを。受領証の写しを」
書記官が青くなる。
「こ、控えは――」
「拒否するなら拒否を記録」
カイルが低く遮る。
書記官は観念したように頷き、写しが作られる。封蝋。術式印。受領番号。
(また一つ、鎖)
私の胸が少しだけ落ち着いた。
そして、エリオットが言う。
「次の目的地は決まりました。――王城礼拝堂附属・聖務係」
礼拝堂。
また、香の場所。
喉の奥の空白がひやりと鳴る。
その瞬間、カイルが私の肩に外套を掛け直し、耳元で言った。
「行く前に、息を整える」
命令形なのに、優しい。
「俺が呼ぶ。お前が言えなくても」
胸が熱くなって、私は小さな紙片に書いた。
「こわい」
カイルがそれを見て、ほんの少しだけ表情を崩す。
「知ってる」
そして、指先で私の手の甲を一度だけ撫でた。
「……でも、逃がさない」
逃がさない。
それが、手続きの言葉じゃないのに、いちばん強い鎖みたいだった。
礼拝堂附属の小部屋――聖務係の執務室は、扉が閉まっていた。
扉の前に、白い外套が二人。
護教兵ではない。王城の礼拝係の制服。
「聖務係は不在です。本日は――」
言いかけた係の言葉を、エリオットが受領台帳の写しで切った。
「この受領は、あなた方の係名で行われている。なら、台帳と物件を確認する権限が国にある。――開けてください」
係が視線を泳がせる。
「……鍵は、聖女様が」
カイルの目が冷たくなる。
「つまり、教会が王城の区画を勝手に押さえている。根拠文書は?」
係は黙る。
ノアが静かに言った。
「根拠がないなら、あなた方は“共犯”になる。……今なら、協力者になれます」
係の喉が動いた。
「……わ、私は……命じられて……」
その瞬間、部屋の中から、かすかな金属音がした。
(中にいる)
(動かしてる)
リュカが低く言う。
「芯、ここだ」
私の喉の空白が広がりそうになって、反射で二度、カイルの指を握った。
拒否じゃない。
“行こう”の二度。
カイルが頷く。
「開ける」
扉番の係が震える手で鍵を探し――見つからない。
鍵は聖女が持っている。
エリオットが即座に言う。
「鍵がないなら、封鎖の根拠文書を出せ。出せないなら、これは違法占拠。――法務官へ通報する」
係が青い顔で首を振る。
「そ、そんな――」
そのとき、扉の隙間から、甘い匂いがわずかに漏れた。
(香)
視界が滲む。
カイルが私を引き寄せ、外套で口元を覆った。
近い。胸板がすぐそこ。
「吸うな。俺の方に」
私は彼の外套を掴み、必死に頷く。
心臓が、布越しに跳ねる。
(……これ、恋だ)
(怖いのに、安心してしまう)
ノアが小さく言った。
「……香が漏れてる。中で焚いています。国の条件違反です」
リュカが術式具を掲げる。
「遮断。――開けるなら今だ」
その瞬間、部屋の中の音が止まった。
止まった、ということは。
誰かが“こちらを聞いた”。
エリオットが冷たい声で言う。
「中にいるのは誰です。名を名乗れ。――名乗らないなら、不法侵入として記録する」
沈黙。
沈黙は、次の一手。
そして、扉の向こうから聞こえたのは――
聖女の声だった。
「……遅いのですね」
甘い声。慈悲の声。
でも、その奥に“勝ったつもり”の冷たさ。
「芯は、もう“受理”されました。あなた方が何をしても――」
エリオットが遮った。
「受理は偽装です。番号が合わない。署名が似せ。触媒の痕跡。――全部、記録に落ちています」
扉の向こうで、聖女が小さく笑った気配がした。
「記録、記録。……ではその記録で、止めてみなさい」
その言葉と同時に、匂いが強くなった。
(来る)
喉の奥がひやりと凍り、世界が薄くなる。
私は必死に金属片を握り、名前カードを握り、そして――カイルの指を一度、強く握った。
“ここにいる”。
カイルが低く、私にだけ言う。
「大丈夫。お前の“拒否”は、俺が守る」
その声が、香より強かった。
扉は、まだ開かない。
でも、こちらには“受理台帳の偽装”という鎖ができた。
敵は“正当な受理”を作ったつもりでいる。だからこそ、折れる。
次に潰す罠は、はっきりしている。
「芯を“王城礼拝堂の正式物件”として固定し、統合の儀式に組み込むこと」




