第37話 封鎖の根拠
「走るぞ」
カイルの声が落ちた瞬間、私の足は勝手に動いた。
頭が追いつく前に、身体が「間に合わない」を理解していた。
石の廊下。昼の王城。
けれど私の耳には、自分の息と、革靴の音と、心臓の音しかない。
カイルが私の手を取る。
いつもの“手首を固定”じゃない。指を絡めて、引く。
「離すな」
その命令形が、盾より熱かった。
私は返事の代わりに、彼の指を――一度、強く握り返す。
“ここにいる”。
息が苦しい。喉の空白が冷える。
でも、握られていると、空白の縁が崩れない。
(恋愛の割合が増えるって、こんなふうに“息”が増えることなんだ)
後ろからエリオットの声が追う。
「法務官に“現状保全命令(=勝手に動かすな)”の追補を取った! 封鎖が命令に反していれば、解除を命じられる!」
紙の音が風に鳴る。
彼は走っているのに、書類を崩さない。――それが妙に格好いい。
リュカが短く言う。
「匂いは?」
「今は大丈夫」
ノアの声が静かに返す。
「地下は……香が濃い。入口で遮断布を増やす」
その言い方が、怖いのに優しい。
私は袖の中の名前カードを指で押さえた。
セレナ・アルヴィス。
文字が、私の輪郭を押さえる。
大聖堂は、昼でも薄暗かった。
天井の高い回廊。
祈りの声。蝋の匂い。
――そして、足元に沈む甘い香。
(近い)
喉がひやりと鳴った瞬間、リュカが私の首元へ手を伸ばした。
「動くな」
ぶっきらぼうに言って、遮断布を二重に巻く。
銀糸が肌に触れ、冷たいのに熱い。
「……これで数十息」
数十息。
それだけあれば、紙は喋れる。
その様子を、カイルが横目で見た。
視線が一瞬だけ尖る。嫉妬というより、焦り。
でも、カイルは私の手を離さない。
離さないことで、全部言っている。
ノアが小さく息を吐き、私の耳元にだけ届く声で言った。
「……怖い時は、僕の方を見なくていい。あなたの“前”を守ってくれる人がいる」
それは、優しすぎて痛い。
エリオットが短く告げる。
「地下へ。封鎖の根拠文書(=封鎖命令書)を出させる。出せなければ違法封鎖。――扉は“紙”で開ける」
地下階段の前に、護教兵が列を作っていた。
白い外套。槍。祈りの紋章。
そして、鉄の扉。
そこに貼られた札。
《立入禁止:統合準備のため》
(統合準備)
言い換えれば、何でもできる言葉。
護教兵の隊長が言う。
「ここは管理区画だ。誰であろうと入れない」
カイルが半歩前に出た。盾の背中。
「根拠は?」
「聖女の命だ」
「聖女の命では足りない」
カイルは低く言い切った。
「ここは王都。拘束も封鎖も、国の形式が要る。封鎖命令書を出せ」
隊長が笑う。
「騎士が教会に命令するのか」
「命令じゃない」
今度はエリオットが前に出た。
息が乱れていない。紙のせいで、呼吸が整って見える。
「確認です。封鎖は“現状保全命令”に反します。――こちら」
彼が差し出したのは、王城法務官の署名と封蝋のある文書。
《現状保全命令(追補)》
*大聖堂地下・管理区画の物件は移動・改変を禁ずる。出入り記録を提出せよ。*
隊長の目が、封蝋に吸い寄せられた。
“国の赤”は、教会でも効く。
それでも隊長は強がる。
「……我々は従わぬ」
「従わない、ですね」
エリオットの声が冷える。
「では、拒否理由を文書で。署名で。――拒否も議事録に落ちます」
隊長が一瞬詰まった。
その隙に、ノアが前へ出た。
「隊長。枢機卿府としても命じます。出入り記録を出しなさい。出さないなら、あなたは“隠蔽”の責任を負う」
“枢機卿府”。
その単語で、護教兵の列がほんの僅かに揺れた。
(効いた)
でも――まだ足りない。
隊長が言った。
「枢機卿府の命も、今は統合準備の――」
「言い訳はいい」
リュカが短く吐いて、術式具を扉へかざした。
「中、動いてる」
空気がきらりと揺れ、微かな振動が伝わる。
「箱の金具音。……移送だ」
背中が冷えた。
(間に合わない)
喉の空白が広がりかけた瞬間、カイルが私の手を強く握った。
「見るな。考えるな。――俺の後ろ」
それが命令で、同時に抱擁みたいだった。
私は頷いて、二度ではなく一度――“ここ”を握り返す。
その時、上から足音が降りてきた。
重い足音。
白い衣が揺れ、枢機卿――ノアの父が現れた。
「……何をしている」
隊長が硬直する。
枢機卿は冷たく言った。
「国の現状保全命令が出ている。枢機卿府も命じている。――それでも封鎖を続けるのか」
隊長が喉を鳴らした。
「し、しかし……統合派の――」
「統合派は教会ではない」
枢機卿の声が、石を切る。
「命令書を出せ。出せないなら、封鎖は違法だ。今ここで解除しろ」
隊長の顔色が白くなる。
(これで扉が開く)
枢機卿が視線を移し、エリオットの紙を見た。
「……受領証は取ったな」
「はい」
「なら、開けろ」
カイルが一歩前へ出て、鉄扉の錠へ手を伸ばした。
壊すのではない。解除するために。
隊長が呻くように言う。
「……記録は……」
「記録官」
エリオットが即座に言った。
記録官のペンが走る。
*封鎖解除時刻/立会い名/拒否の経緯/命令書不提示*
紙が、扉より強い。
錠が外れた。
鉄扉が、重く開く。
管理区画の空気は、濃かった。
蝋と香。冷たい石。
何かが“隠されている”匂い。
リュカが先に入って、術式具を振る。
「……聖具は――」
言いかけた瞬間、奥から人影が走った。
箱を二人で担いでいる。布で覆われた長方形。
(聖具の箱)
カイルが即座に追う。
私の手を放さないまま、走る。引きずられるみたいに速い。
「止まれ!」
カイルの声が響いた。
担いでいた男が振り返り、目が合った瞬間、顔を歪めた。
――統合派の司祭。
「邪魔だ!」
男が何かを投げた。小さな香袋。
床に落ちて破れ、甘い匂いが爆ぜる。
(来る!)
視界が白く滲みかけた瞬間、リュカが床へ術式を叩きつけた。
「遮断!」
空気が“ばしっ”と裂け、匂いの波が一瞬止まる。
でも完全じゃない。薄い霧が喉へ触れる。
喉の空白が広がる。
“拒否”が遠のく気がした。
その瞬間、ノアが私の手首を取った。
取ったと言っても、引っ張らない。支えるだけ。
そして、耳元で囁く。
「……あなたは、あなた。今、ここにいる」
その声が、紙より直接、胸へ刺さった。
カイルが振り返り、ほんの一瞬だけノアを見た。
視線が尖る。
でも次の瞬間、私の肩を自分の外套で包むように覆い、前へ向き直る。
「息、合わせろ」
命令形。
でも、私の呼吸のための言葉。
私は頷き、カイルの指を一度だけ握る。
“ここ”。
胸の奥が、戻った。
司祭たちは奥の扉へ逃げ込もうとした。
その扉の上に、赤い札。
《統合派専用:持出し可》
(持ち出し可?)
そんな札、誰が許可した。
エリオットが叫ぶ。
「止めろ! その札の根拠文書を出せ!」
司祭が笑った。
「根拠など、ここにある!」
男が掲げたのは、白い封蝋の文書。
聖女印。
でも――そこに“国の封蝋”はない。
(教会内の勝手な許可)
枢機卿が怒気を含まずに言った。
「無効だ。枢機卿府の文書庫から出た許可ではない。――私の印がない」
男の顔色が変わる。
その一瞬の迷いで、カイルが距離を詰めた。
盾が、壁になる。
「箱を置け」
司祭が香袋をもう一つ投げる。
リュカがそれを空中で焼き切った。
「二度目はない」
低い声が、魔術より怖い。
司祭の手が止まった。
カイルが一歩、さらに近づく。
そして、私の手を一瞬だけ強く握った。
(大丈夫、ここにいる)
その合図で、私は“拒否”を声にしたくなった。
でも言葉は危ない。
だから私は、合図で――二度、握った。
拒否。
カイルがそれを受け取り、司祭に言い放つ。
「令嬢は拒否している。――聖具の移送も、誓文も、全部だ」
エリオットが畳みかける。
「現状保全命令に反する行為。証拠物移送未遂。記録官、記録。――そして、箱を保全する。封緘する」
司祭は抵抗した。
けれど枢機卿が一言落とす。
「逆らえば破門(=教会からの追放)ではない。――国への侵害で裁かれる」
その言葉で、司祭の腕から力が抜けた。
箱が床に置かれた。
リュカが箱に術式具をかざし、眉を寄せた。
「……外箱だ」
嫌な予感が背中を走る。
「中身、軽い。芯がない」
(間に合わなかった?)
喉の空白が、ひやりと広がりかけた。
その瞬間、カイルが私の額へ、ほんの一瞬だけ自分の額を寄せた。
触れるか触れないかの距離。
「まだ終わってない」
低い声。
「お前がいる限り、まだ折れる」
胸が、熱くなった。
(恋だ)
(これは、恋の言葉だ)
ノアが静かに言った。
「……芯だけ先に出した可能性があります。偽装用の外箱を動かして、追跡を誘う」
エリオットが即答する。
「なら、追跡は“記録”でやる。出入り台帳(=誰が出たかの記録)を押収する。受領証を取る」
枢機卿が頷く。
「庫長を呼べ。台帳は枢機卿府の管轄だ。勝手に抜けば罪だ」
記録官のペンが止まらない。
箱は封緘され、術式印が重ねられ、受領番号が付く。
《聖具関連物件(外箱) 保全》
紙が増えるほど、嘘が減る。
最後に、台帳が机に置かれた。
出入りの欄。
今日の時間帯だけ、インクが新しい。
エリオットが指で示す。
「この時間、封鎖中に“出た”記録がある。――名前は?」
ノアが覗き込み、息を吸った。
「……書記官の名が、偽装されている」
リュカが短く言う。
「触媒だ。筆癖を似せてる」
私は台帳を見て、胸が冷えた。
(また“私に似せる”のと同じ)
敵は、記録を偽装する。
だから私たちは、偽装できない形――受領番号と立会いで縛る。
カイルが私の手を離さず、言った。
「令嬢。帰る。――次は“芯”を追う」
その言葉が、戦術なのに、デートの約束みたいに聞こえてしまって苦しい。
私は返事の代わりに、カイルの手の甲に小さく○を描いた。
“ここ”。
カイルの口元が、ほんの少しだけ緩む。
その瞬間、エリオットが淡々と宣言した。
「次に潰す罠は明確です。――芯を持ち出した者の“受理”を、先に取る」
ノアが静かに続ける。
「芯は、聖女の手へ。あるいは――国王名代の場へ」
リュカが吐き捨てるように言った。
「つまり、次は“王城”だ。もっと面倒くせえ」
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
外箱は止めた。
でも芯は逃げた。
そして恋は、逃げなかった。
次に潰す罠は――
「芯の移送を“正当な受理”にしてしまうこと」。




