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異端の奇跡でやり直し。~正教会が世界を染める前に、私が潰します~  作者: 綾瀬蒼


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第36話 提出済み


礼拝堂の空気は、清潔な顔をして――刺さる。


白い石。薄い光。祈りの気配。

そして、ほんの一瞬だけ立つ甘い匂い。


(まだいる)


私が息を浅くした瞬間、カイルが外套の端を口元へ寄せた。

近い。息が触れる距離。


「吸うな」


低い声が、耳の奥を震わせる。


私は頷き、合図の代わりに彼の指を一度だけ握った。

“ここにいる”の一度。


その背後で、聖女エレノアが微笑む。


「回帰の証拠を出しなさい、と言いました」


言葉は柔らかいのに、刃だ。

出せば奪う。出さねば“無い”にする。


エリオットが一歩前へ出て、封緘された封筒を掲げた。

枢機卿府の封蝋。庫長の署名。術式印。受領番号。


「出します。――ただし、提出の形式で」


聖女が眉を上げる。


「形式?」


「はい」


エリオットは淡々と、法務官へ向けて言った。


「本件は予備聴取です。よって証拠提出は、

①議事録への“提出済み”記載、

②添付資料としての受領番号固定、

③提出受領証の発行――この三点を満たしてください」


“提出済み”。


その二文字は、魔法みたいに強い。

奪われても、“出した”が残る。


法務官が頷いた。


「認める。記録官、提出受理」


記録官が封筒を受け取ろうとした、その瞬間――。


白い外套が一歩踏み出した。


「それは異端文書です。礼拝堂に持ち込むなど――」


聖女の声。


(奪う前の、正当化)


カイルが、机と私の間に半歩入った。盾の位置。

視線を上げず、低く言う。


「異端なら、なおさら“押収の令状”が要る。ここで触るな」


聖女の微笑みが、ほんの僅かに薄くなる。


「……あなたは、婚約者のために牙を剥くのですね」


“婚約者”。


その単語が、礼拝堂の空気を揺らした。

私は喉の空白が疼いて、反射で名前のカードを握りしめる。


エリオットが、そこで逃げなかった。


「はい」


淡々と、事実として言う。


「本日付で“保護婚約覚書”が受理されています。私は代理権を持つ。彼女の権利侵害は、私の管轄です」


――管轄。


制度の言葉なのに、告白より胸を刺した。


カイルの指が、一瞬だけ強く硬くなる。

でも声は出さない。出したら、負けるから。


ノアが静かに口を挟む。


「聖女様。枢機卿府証明の謄写を“異端”と断じるなら、あなたの告発状に『証拠の否認理由』を追記してください。文書で」


聖女は笑わずに笑った。


「……よろしい。提出させなさい。どうせ、私の前では無意味です」


“無意味”。


つまり、ここで削って黙らせる気。




記録官が封筒を受領し、封印状態を読み上げた。


「封緘良好。封蝋印、枢機卿府。庫長署名あり。受領番号――」


数字が口にされるだけで、胸が少し落ち着く。

数字は消えない。


エリオットが続けて、もう一通の封筒を出した。まったく同じ封緘。


「同一内容の副本です。文書所へ即時預託します。――受領証を二通」


聖女の目が、鋭く細くなる。


(奪っても意味がない形)


法務官が短く命じた。


「騎士団。文書所へ搬送。受領証を取れ」


カイルが即座に頷く……のではなく、私を見た。


「……離れるか」


その一言が、恋みたいに痛い。


私は首を振った。

離れたら、匂いに負ける気がする。


カイルは一拍だけ黙って、代わりに自分の笛をエリオットへ渡した。


「何かあれば鳴らせ。俺はここを動かない」


――“俺は動かない”。


それが、守りの宣言で、独占みたいに重い。




提出が終わると、法務官が淡々と進行した。


「提出資料の要旨を、第三者が読み上げる。異議は文書で」


聖女が眉を動かす。


「誰が?」


ノアが一歩出た。


「私が読みます。枢機卿府の立会いとして」


礼拝堂の空気が一瞬だけ張り詰めた。

教会の人間が“教会の秘密”を読む――それは、刃だ。


ノアは封筒を開けない。

あくまで“謄写の写し”を、既に用意していた紙から読み上げた。


「――回帰(時の巻き戻り)は対象者の異能ではない。起点は“聖具レリック”にある」


ざわり、と誰かが息を飲む。


「副作用:特定語彙の発話阻害。最初は『名』、次に『契約語』、最後に『拒否』」


喉の奥が冷える。

それを“他人の声”で聞くのは、怖い。


だから私は、カイルの指を一度だけ握った。

彼は何も言わず、指先で同じだけ返した。


「回帰の停止方法:対象者が『誓文原本』に署名した瞬間、回帰は停止する」


その瞬間、聖女の目が、はっきりと動いた。


(当たり)


エリオットが、静かに畳みかける。


「よって、誓文原本を押し付ける行為は、回帰停止――すなわち対象者の“最後の逃げ道”を奪う行為です。

本件は信仰ではなく、人権侵害の手段になり得る」


“人権侵害”。


礼拝堂で一番言われたくない単語が、紙と声で落ちる。


聖女が微笑みを捨てた。


「……あなた方は、神を侮辱している」


「侮辱しているのは、どちらですか」


ノアが静かに返す。


「回帰が聖具起点なら、その聖具は誰が管理している?――統合派です。大聖堂地下、管理区画」


聖女の頬が僅かに強張った。


(管理区画を突いた)




そのとき。


礼拝堂の奥――祭壇の陰から、甘い匂いが“はっきり”流れた。


(来た!)


視界が白く滲みかけた瞬間、リュカが机を蹴る勢いで前へ出た。


「そこだ」


術式具をかざし、空気を“切る”。


「香炉じゃねえ。隠し香(=壁や布に染み込ませた香)だ。祭壇布の裏」


リュカが布をめくると、小さな陶器片が落ちた。

割れた香の器。――仕込み。


法務官が声を荒げる。


「聖女! これは――」


「知りません」


聖女は即答した。早すぎる。


だから、エリオットが笑わずに言う。


「知らないなら、なおさら“誰が仕込んだか”を調べます。証拠保全を」


記録官がペンを走らせる。

リュカが陶器片を封筒に入れ、術式印を重ねる。


そしてリュカは、私の前に来た。


「目、合わせろ。息、止めるな」


ぶっきらぼうなのに、距離が近い。

彼の手が、私の喉元の遮断布を“きゅっ”と締め直す。


「……これで数秒は稼げる」


その指先が冷たくて、心臓が跳ねた。


(近い)


その一瞬を、カイルが見逃さなかった。

視線が鋭くなる――でも動かない。

動けば、聖女の思う壺だから。


代わりに、カイルは私の肩へ手を置いた。上から覆うように。


「俺の側」


短い言葉。


それだけで、胸の痛い熱が甘い方に傾く。

……恋の比率が上がるって、こういうことか、と分かってしまうのが悔しい。




法務官が木槌を打った。


「本件、礼拝堂での妨害行為を記録。提出資料は受理済み。

次、聖女側へ質問――」


聖女が遮る。


「質問など不要。異端の奇跡は禁忌です。回帰の記録自体が――」


「では」


エリオットが、淡々と切った。


「あなたは枢機卿府の台帳を“禁忌”とする。

つまり、枢機卿府を異端と断じますか? 文書で」


聖女の喉が動く。

言えない。


言えない沈黙が、議事録に落ちる。


ノアが静かに言った。


「聖女様。あなたが本当に秩序を望むなら、今すべきは“異端”と叫ぶことではなく、聖具の保全です。回帰が聖具起点なら、まずそれを押さえねば」


法務官が頷いた。


「よって、王城法務官として命ずる。大聖堂地下・管理区画の“現状保全”。出入り記録の提出。――拒否は文書で」


聖女の目が、氷みたいに冷たくなった。


(拒否できない。拒否すれば“隠している”になる)


聖女は、微笑みだけを戻した。


「……承知しました。国が望むなら」


――嘘だ。


でも嘘でも、紙の前では動けない。




聴取の区切りがつき、提出受領証の控えが配られる。


そこに確かに書かれていた。


《奇跡台帳 謄写 提出済み》


提出済み。

その二文字で、私は少しだけ“生き返った”。


カイルが、私の耳元に低く言う。


「よく耐えた」


褒め言葉じゃない。命令でもない。

ただ、認める声。


私は喉の空白を抱えたまま、彼を見上げて――指で、彼の手の甲に小さく○を描いた。


“ここにいる”の印。


カイルの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


その横で、エリオットが私にだけ聞こえる声で言った。


「……怖かった?」


私は、正直に頷く。


エリオットは一拍だけ黙ってから、低く続けた。


「怖いままでいい。君が×を付ける限り、俺は君の味方だ」


制度の言葉なのに、心が揺れる。


ノアは少し離れたところから、私の掌の名前カードを見て、目だけで頷いた。

リュカは「匂い、完全に潰す」と呟いて、陶器片を封緘箱に入れた。


味方が、全員ちがう熱で近い。




――そのとき。


礼拝堂の扉口で騎士が駆け込んできた。


「法務官殿! 文書所への搬送隊より急報!

副本の封緘は無事――しかし、大聖堂地下の“管理区画”が、今しがた封鎖されたと!」


封鎖。


私の背中が冷えた。

“現状保全”の前に、先に閉じた。


(移す気だ)


(聖具を動かす)


聖女が、微笑んだ。ほんの一瞬だけ。


それを見て、カイルが低く言う。


「……走るぞ」


エリオットが即答する。


「封鎖の根拠文書を取る。取れなければ違法封鎖だ」


ノアの声が静かに刺す。


「封鎖は、移送の合図です。聖具を動かすなら、回帰の起点も動く」


リュカが短く吐いた。


「間に合わねえと、次は“誓文原本”じゃなく“聖具”で止めてくる」


私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。


次に潰す罠は、もう決まっている。


「聖具の移送=回帰の支配」

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