第35話 保護婚約
正午まで、残り三時間。
王城の廊下を歩く靴音が、やけに大きく響いた。
礼拝堂――香が焚かれ、祈りが満ち、言葉が奪われる場所。
喉の奥の空白が、冷たく疼く。
名前だけが言えない穴。そこから次は“拒否”が抜けると、台帳に書かれていた。
(拒否が言えなくなったら、終わる)
私は袖の内側の小さな紙――ノアがくれた名前のカードを指で押さえた。
そして、金属片の角を握る。痛みで自分を固定する。
「……時間がない」
エリオットが、淡々と歩調を上げた。紙束の端が揺れる。
「礼拝堂の“中”は聖女の庭だ。なら、礼拝堂に入る前に“外”で縛ります。――先に受理」
カイルが私の半歩前、盾の背中で頷く。
「俺は入口を押さえる。令嬢の横には誰も入れない」
リュカは短く吐いた。
「香は必ず来る。あそこは匂いの溜まり場だ。遮断布だけじゃ足りねえ」
ノアが静かに言う。
「礼拝堂の換気口、香炉の位置、裏の小扉。全部、把握しています。……逃げ道も」
逃げ道。
その単語が、妙に胸を刺した。
逃げるんじゃない。
今日は“逃げられない形”を先に作る。
王城法務官室の前で、エリオットが扉番に言った。
「緊急申立。礼拝堂の予備聴取について」
扉が開く。法務官は、昨夜寝ていない目をしていた。
「また君か」
「またです」
エリオットは笑わない。笑わないから怖い。
机に申立書が置かれる。項目は短い。
《予備聴取 手続申立》
1. 記録官の同席(議事録作成、受領番号付与)
2. 聴取は原則「質問を文書で提示」し、回答は口頭/筆記/合図(握り回数)を認める
3. 香炉・薫香の焚き上げ禁止(必要なら事前申請+鑑定官立会い)
4. 扉の開放(第三者の出入り記録を取れる状態)
5. 代理人(法務担当)・護衛・魔術省立会いの同席を認める
法務官は読み、眉を寄せた。
「……礼拝堂で扉の開放?」
「密室で“記憶干渉の疑い”が出ています」
エリオットは淡々と言う。
「国王名代の名で呼ぶなら、国の形式で守るべきです。守れないなら、会場を変更してください」
法務官が息を吐く。
「聖女が納得しないだろう」
「納得するかどうかは、権限の話ではありません」
エリオットは一歩も引かない。
「拒否するなら、拒否理由を文書で。――後で『やっていない』が通りますから」
法務官の手が止まった。
“後で通る”を止められるのは、紙しかない。
「……受理する」
受理。
数字が動く音。
受領証が出る。受領番号がつく。
(鎖を掛けた)
胸が少し軽くなる。
廊下へ出た瞬間、エリオットが足を止めた。
「最後に、もう一つ」
彼は私を見た。
いつもより静かな目。計算の目じゃない。
「礼拝堂で“本人の拒否”が必要になる場面がある。拒否が言えなくなったら、代弁できる者が要る」
カイルが即答する。
「俺が言う」
「あなたは護衛だ」
エリオットは淡々と首を振る。
「護衛の代弁は“安全確保”の範囲に限られる。契約や同意の拒否は、利害関係者か法定代理人が強い」
ノアが静かに言った。
「後見(=法的な保護者)契約……?」
リュカが嫌そうに眉をひそめる。
「契約はやめとけ。あいつらの土俵だ」
「違う」
エリオットが短く否定し、私に向き直る。
「これは、あなたを縛る契約じゃない。あなたを守る“権利”を作る。解除条項も、期限も、あなたの自由も全部入れる」
そして、息を吸うみたいに言った。
「――仮の保護婚約(=守るための婚約)にしませんか」
空気が止まった。
カイルの肩が、目に見えて硬くなる。
ノアの視線が一瞬だけ揺れ、すぐ戻る。
リュカが「は?」と小さく呟く。
私の喉の奥の空白が、熱く痛んだ。
(婚約)
私は婚約を“解消された側”だ。
だから、その言葉が刺さる。
でも――これは、敵の誓文と違う。
エリオットは机の上に、一枚の紙を置いた。短い。
《保護婚約覚書(案)》
* 目的:対象者の権利保護(聴取・拘束・契約行為への異議申立)
* 期限:30日(更新は対象者の書面同意が必要)
* 解除:対象者が×印一つで即時解除
* 禁止:誓文・魂契約・宗教誓約の締結を伴わない
* 代理権:拒否の代弁、手続きの申立、証拠保全の申請のみ
“×印一つで即時解除”。
その一行が、私の胸の奥をほどいた。
縛るのではなく、いつでも切れる。
エリオットの声が、少しだけ低くなる。
「君が怖いのは分かっています。だから、君が“いや”と言えなくなる前に、君の“いや”を守れる形を作る」
その言い方が、ずるいほど優しかった。
私は言葉じゃなく、合図で返す。
カイルの手を一度握って“止めて”と言う代わりに、今は――エリオットに向けて、二度、握りたい。
でもエリオットは私の手を勝手に取らない。
取らないで、ただ待つ。
(押さない人)
(それが、恋みたいに刺さる)
私は、ゆっくりペンを取り、覚書の下に――署名ではなく、○を描いた。
“同意”の印。
そして、最後に小さく×で解除できることを、もう一度指でなぞった。
エリオットが、ほんの少し息を吐いた。
「……受理に回します」
その瞬間、カイルが低い声で言った。
「必要なのは分かる。……分かるが」
言葉が続かない。
その沈黙が、嫉妬みたいに重い。
私はカイルを見上げ、二度、指で彼の手を握った。
拒否じゃない。
“待って”の二度。
カイルの眉が微かに動いて、視線が少しだけ柔らかくなった。
「……分かった」
それが、胸を焼くほど甘かった。
文書所で覚書は即時に受理された。
受領番号が付く。封蝋が押される。
(これで、エリオットが“私の拒否”を代弁できる)
その事実が、恐怖を少しだけ遠ざけた。
正午が近づく。礼拝堂の扉は、重く口を閉ざしている。
入口の前に、白い外套が揃っていた。
聖女エレノアが、香炉を従えて立っている。
「遅かったですね」
微笑み。慈悲の顔。
でも目は冷たい。
「国は、異端を守るのですか」
エリオットが一礼し、受領証を提示した。
「国は、手続きを守ります。予備聴取の条件は受理済みです。香炉は禁止。扉は開放。記録官は同席」
聖女の微笑みが、僅かに固まる。
「礼拝堂の作法に、口を出すのですか」
「作法ではなく、侵害の予防です」
法務官が一歩前に出た。
「本件は国王名代の指示だ。条件は国のものだ」
聖女が、私を見る。
喉の空白を見透かすように。
「かわいそうに。名も言えない」
私は反射で、名前のカードを指で押さえた。
そして金属片を握り、痛みで戻る。
カイルが、私の前に立つ。
「見るな」
聖女へではない。私へ向けた命令みたいな、守りの言葉。
「前だけ見ろ」
胸が、きゅっと鳴る。
ノアが小さく、私の掌に紙片を重ねた。
そこには短い字で、こうある。
「怖くても、あなたはあなた」
……泣きそうになるのを、歯で止めた。
礼拝堂の中は、思ったより明るかった。
扉は開放。入口に騎士団。
壁際に記録官。机の上に議事録用紙。封蝋。
そして、香炉は――外に置かれたまま。
(勝った)
小さな勝利。でも、生きる勝利。
議事が始まる。法務官が淡々と宣言した。
「これより予備聴取を行う。質問は文書で提示し、回答は――」
聖女が遮る。
「必要ありません。神の前では――」
「必要です」
法務官が切った。国の声。
「国の手続きです」
聖女の目が、鋭く細くなる。
(苛ついた)
だから次の手に出る。
聖女が、白い紙を一枚差し出した。
上部に大きく書かれている。
《告発状》
署名欄に、聖女エレノアの名。
……紙にした。責任を取る形で。
そして、その隣に置かれた、もう一枚。
《誓文(写)》
原本は保全された。だから写し。
でも写しでも、言葉は刺さる。
聖女が微笑んだ。
「これは写しです。安心でしょう? ここで、ただ一つだけ誓ってください」
――誓って。
契約語。
喉の奥が、ひやりと鳴る。
聖女が続ける。
「『私は異端の奇跡を用いていない』と」
罠だ。
言えば、嘘でも真実でも、誓いの形になる。
言えなくても、“うなずいた”にされる。
私は息を吸い、カイルの手を――二度、握った。
拒否。
カイルが言う前に、エリオットが一歩前へ出た。
「拒否します」
静かな声。けれど、切断する声。
「対象者は本日、保護婚約覚書が受理されました。私は代理権を持ちます。――誓文行為への参加は拒否」
聖女の微笑みが、はっきりと割れた。
「……婚約?」
その単語に、礼拝堂の空気が揺れる。
カイルの視線が、一瞬だけエリオットを刺す。
ノアは目を伏せる。
リュカが「面倒くせえ」と小さく吐く。
エリオットは、微動だにしない。
「あなたが欲しいのは“誓い”ではなく“停止”でしょう」
聖女の目が、氷になる。
(当てた)
エリオットが畳みかける。
「写しで誓わせようとするのは、原本保全を迂回する手口です。――手続き違反。議事録に」
記録官のペンが、さらさらと走る。
“聖女が誓文を求めた”
“代理人が拒否した”
“写しでの誓文は迂回である”
紙が、聖女の足元を削っていく。
そのとき――礼拝堂の奥で、甘い匂いが一瞬だけ立った。
(来た)
どこかに香を仕込んでる。
リュカが即座に術式具を掲げる。
「遮断、展開」
空気がきらりと揺れ、匂いの流れが鈍る。
カイルが私の口元に、外套の端を寄せた。
近い。息が触れる距離。
「吸うな」
低い声が、耳の奥を震わせる。
私は頷いて、名前のカードを握りしめた。
その瞬間、ノアが聖女を見て静かに言った。
「……礼拝堂で香を焚いた記録が残れば、あなたの告発状は“圧力下で作られた”と疑われますよ」
聖女が、ほんの僅かに動きを止めた。
(効いた)
予備聴取は、まだ始まったばかりなのに、もう勝敗が見え始めていた。
誓文は拒否した。
香は止めた。
告発状は紙になった。
だから次は――紙を折る。
聖女が最後に言った。
「では、あなたの“回帰”の証拠を出しなさい」
回帰。
私の始まり。
私は喉の奥の空白を抱えたまま、封緘された封筒――奇跡台帳の謄写を見た。
出せば、統合派は奪いに来る。
出さなければ、“証拠がない”とされる。
エリオットが、私を一度だけ見た。
その視線が、優しくも強い。
「……出します」
そして、小さく付け足す。
「君が怖いなら、俺が持つ。――君の前で、君の代わりに」
その言葉が、制度の言葉なのに、告白みたいに刺さった。
カイルが、私の手を強くない力で握る。
二度ではなく、一度。
“ここにいる”の一度。
私は息を吸い、頷いた。
――次に潰す罠は、もちろん。
「謄写を奪って“存在しない”にすること」




