第32話 奇跡台帳
枢機卿府の夜は、静かすぎた。
石畳に靴音が落ちるたび、音だけが浮く。
灯りは最小。門番の目だけが生きている。
「こっちです」
ノアが先に立つ。黒衣の背中が闇に溶ける。
けれど足取りは迷わない。――“帰る場所”の歩き方だ。
カイルが私の半歩前。盾の位置。
エリオットは紙束を抱えている。
リュカは匂いを嗅ぐように廊下を見回している。
そして私は、喉の空白を抱えたまま歩く。
名前だけが言えない穴。そこへ、夜の冷えが刺さる。
(でも、今夜は紙がある)
ノアが小さな扉の前で立ち止まり、指先で二回だけ叩いた。
内側から返事がある。短い、低い声。
「……入れ」
扉が開き、現れたのは枢機卿――ノアの父だった。
白い衣。疲れた目。けれど、目だけは鋭い。
「ノア。こんな時間に、何を――」
ノアは一礼し、言葉を短く切った。
「父上。奇跡台帳の閲覧許可をください。今夜、必要です」
枢機卿の目が一瞬、私の喉に止まる。
次に、カイルの騎士の外套。エリオットの封筒。リュカの術式具。
(理解した顔)
「……聖女が“異端”を口にしたな」
ノアが頷く。
「口にしました。だから紙にします。――こちらが先に」
枢機卿は、深く息を吐いた。
「台帳は持ち出せぬ。閲覧は、文書庫の規則に従え」
エリオットが即座に言う。
「もちろんです。閲覧許可証(=閲覧の正当性)と、閲覧記録(=誰が見たか)を残します。写しは謄写(=公的な写し)で」
枢機卿は無言で頷き、机の引き出しから鍵束を出した。
「……三つの鍵が要る。枢機卿、書記長、文書庫長。今夜は私が二つ持つ。残り一つは庫長だ」
「庫長は?」
「呼んである」
枢機卿が視線を上げると、廊下の影から老人が現れた。
文書庫長。手には小さな箱。鍵の箱。
(鍵も、形式だ)
ノアが私の横へ半歩寄る。
人目のある距離で、でも確かに支える距離。
「……大丈夫ですか」
私は頷いて、掌の金属片――受領番号の刻みを握った。角が刺さる。戻る。
文書庫は、空気が違った。
紙と蝋と古い革。
祈りの匂いが薄い分、頭が冴える。けれど油断はできない。
リュカが低く言った。
「ここ、結界が多い。触るな。勝手に触ると“閲覧禁忌”が発動する」
閲覧禁忌(=無断閲覧に反応する仕掛け)。
つまり、勝手に見れば記憶を削られる可能性がある。
(敵と同じ手口が、ここにもある)
枢機卿が淡々と命じた。
「閲覧許可証を作れ」
文書庫長が机に紙を置き、書記官が筆を取る。
「閲覧対象:奇跡台帳『回帰』の項。
閲覧者:枢機卿ノア・ヴァレンティス立会い。
随伴:王都騎士団副隊長カイル、財務府法務担当エリオット、魔術省立会いリュカ。
対象者:アルヴィス伯爵令嬢――」
そこで、喉がひやりとする。
“名”が、書かれる。
私は言えない。
でも、書かれるのは大丈夫だ。書かれれば残る。
エリオットが静かに付け足す。
「対象者本人は発話阻害あり。本人陳述は文書で提出済み――も併記を」
書記官のペンが走る。
枢機卿が言った。
「閲覧記録にも残せ。今日この瞬間から、“台帳は存在しない”と言わせない」
(強い)
ノアの父は、敵ではない。少なくとも今夜は、味方だ。
三つの鍵が揃い、文書庫長が金庫の前で箱を開いた。
錠が三つ。
鍵が三つ。
回す順序まで決まっている。
「枢機卿、先に」
枢機卿が一つ回す。
「次、庫長」
庫長が回す。
「最後、書記長」
書記長が回す。
――重い音で金庫が開いた。
中から出てきたのは、黒い革表紙の分厚い帳面。
背に、金文字。
《奇跡台帳 第三類:異端記録》
喉の奥が冷たくなる。
(異端記録)
つまり、教会は“異端の奇跡”を知っている。
知らないふりをしているだけだ。
枢機卿が手袋をはめ、台帳を机に置いた。
「封印状態、良好。閲覧開始時刻――記録」
書記官が記す。
これで、改ざんは難しくなる。
ノアがページをめくる。
指先は丁寧で、慣れている。――育った者の手だ。
そして、目的の頁で止まった。
見出し。
《回帰――時の巻き戻り》
次の行を見た瞬間、胸の奥が痛くなった。
> *回帰は無限ではない。回数を重ねるほど対象者の記憶は摩耗し、最終的に“自己同一性”を喪失する。*
自己同一性――“自分が自分である”感覚。
(だから、名前だけが落ちた……)
ページの端に、赤い印が押されている。
《禁:外部開示》
外に出すな。
つまり、外に出せば教会が困る。
ノアが、静かに読み上げる。
「……発動条件:対象者が“断罪・隔離・死”のいずれかに至った場合。回帰は直近の分岐点へ戻る。だが――」
ノアの声が僅かに硬くなった。
「回帰の“起点”は、対象者ではなく――『聖具』にある」
聖具。
(私じゃない)
(私が異端なんじゃない)
枢機卿が低く言った。
「……聖女派が触れている聖具だ。大聖堂の地下、統合派の管理区画」
背中に冷たい汗が流れた。
(統合の目的は、世界を染めるだけじゃない)
(回帰を“国の上”に置くためだ)
リュカが短く吐く。
「回帰を握れば、反対派を何度でも潰せる。記憶を削ってな」
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
(私は、道具にされていた)
(だから狙われる)
ページの下段に、さらに追記があった。
> *回帰の副作用:特定語彙の発話阻害。最初は“名”。次に“契約語”。最後に“拒否”が言えなくなる。*
喉が締まる。
名の次が“契約語”。
そして“拒否”が言えなくなる。
(それが一番まずい)
拒否が言えなければ、誓文を止められない。
誓文は“署名で縛る契約”だ。
ノアが、私を見た。
視線がまっすぐで、逃げない。
「……あなたは、今ここまで来ている」
私は頷くしかない。
でも、頷くだけで、胸が少しだけ楽になる。
(理解されると、呼吸が戻る)
エリオットが即座に動いた。
「謄写します。台帳そのものは持ち出せない。なら――この頁の写しを、公証(=正式化)して持ち出す」
枢機卿が頷く。
「書記官、謄写。庫長立会い。封蝋と印を重ねろ」
紙が用意され、ページが写される。
文言を一字一句。
数字も印も、欄外注記も。
写しの下に、証明文が入る。
『本謄写は奇跡台帳原本より作成し、原本と相違なきことを証する』
署名:枢機卿/庫長/書記官。
封蝋。
術式印。
受領番号。
(紙になった)
(これで“紙に残らない”は嘘になる)
その瞬間――文書庫の扉が、乱暴に叩かれた。
「開けよ!」
鋭い声。護教兵の声だ。
金具が鳴る。人数が多い。
リュカが低く言った。
「来たな。奪いに来た」
カイルが一歩前へ出る。盾の背中。
「枢機卿府だ。令状(=押収の根拠文書)はあるか」
扉の向こうの声が返る。
「異端物件の押収だ! 聖女の名で――」
「聖女の名では足りない」
枢機卿の声が、空気を切った。
「ここは枢機卿府の文書庫。押収は教会法に従う。令状を示せ。示せぬなら、これは侵入だ」
一拍。
向こうが詰まる。
(令状がない)
だから来た。力で奪うつもりだった。
でもここは、枢機卿府。形式が生きている。
ノアが低く言う。
「……父上、時間がありません」
枢機卿が頷いた。
「謄写を封緘(=開けたら分かる封印)しろ。受領証を二通。ひとつは枢機卿府保管、ひとつは――」
枢機卿の視線が、私に落ちる。
「アルヴィス伯爵令嬢へ。本人に渡せ。本人が持つのが一番強い」
(私が、持つ)
喉の空白が疼く。でも――今はそれが武器になる。
エリオットが封筒を受け取り、封緘を確認した。
リュカが術式印を重ねる。
「割れたら分かる」
カイルが言う。
「護送する」
扉の外で、再び叩きが強くなる。
「開けよ! 異端の――」
枢機卿が、扉に向けて冷たく言った。
「記録官」
書記官が頷き、ペンを走らせる。
「ただいまの発言、記録。令状なしの押収要求。扉への威圧――」
“侵入未遂”が紙に落ちると、相手は弱くなる。
あとで言い逃れできないからだ。
扉の向こうの気配が、焦れたように揺れた。
けれど――開けられない。
枢機卿府に踏み込めば、統合派の“正義”が崩れる。
しばらくして、足音が引いた。
完全に消えるまで、誰も息を吐かなかった。
静寂が戻った頃、枢機卿が台帳を閉じた。
「……これで分かっただろう」
低い声。
「“回帰”は教会が知る奇跡だ。知らぬふりをして、必要な時だけ使う」
ノアが、少しだけ苦く笑った。
「そして、統合派はそれを国の上に置きたい」
枢機卿は頷き、私を見る。
「令嬢。あなたは異端ではない。――あなたは、巻き込まれた」
胸が熱くなる。
でも泣かない。泣いたら、匂いに負ける気がする。
私は喉に手を当て、言える言葉だけを探した。
「……ありがとう」
小さな声でも、出た。
ノアが、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その表情が、怖さを薄くしてくれた。
エリオットが紙束を整えながら言った。
「次の手は決まりました。統合準備勅令案の添付に、この謄写を追加。――『回帰は聖具起点』を議事録に落とす」
リュカが短く言う。
「聖具の場所もな。大聖堂地下。統合派管理区画。押収には令状が要る」
カイルが低く言った。
「令状を取る。王城法務官を動かす」
そして、ノアが最後に一言、落とした。
「……ただし」
その声が、少しだけ硬い。
「台帳の欄外注記に、もう一つありました。回帰の“停止”方法――」
私の背中が冷える。
ノアは、はっきり言った。
「回帰は、対象者が“誓文の原本”に署名した瞬間、停止する」
止まる。
つまり――誓文に署名させれば、私の“やり直し”は封じられる。
そして封じた後、何をしても取り返せない。
(だから、次は誓文を押し付ける)
私は金属片を握り、角の痛みで自分を固定した。
次に潰す罠は――
「回帰停止のための誓文原本」。
そして、扉の外からまた足音がした。今度は静かで、速い。
使者の声。
「枢機卿様! 統合派が“告発状”を提出しました! 明朝、王城で受理されます!」
エリオットが息を吸う。
「来た。紙にした――」
ノアが低く言った。
「そして、誓文の原本も一緒に出すはずです」
カイルが一歩前へ出る。盾の宣言。
「令嬢。帰るぞ。明朝までに、先に“受理”を取る。受理簿を奪う前に、受領証を奪う」
私は頷いた。
言えない名前の穴を抱えたまま――でも、今夜は違う。
紙がある。
封印がある。
受領番号がある。
そして、味方がいる。




