第3話 鍵と立会い
寄進品の保管庫は、伯爵邸の奥――普段は誰も近寄らない石造りの小棟にあった。
扉は厚い鉄板で補強され、鍵穴には正教会の紋章入りの封蝋が貼られている。あれを見るたびに思う。ここは我が家の敷地のはずなのに、教会の影が先に立っている、と。
「……セレナ様、本当にこちらを本日中に?」
執事長が小声で言った。年季の入った男で、伯爵家の金庫番でもある。
「本日中です。鍵の管理者も、封蝋の管理者も、全員立ち会ってください」
私は言い切ってから、視線を周囲に走らせた。
鍵束を持つ管理人。封蝋台を抱えた下働き。父がつけてくれた邸内の護衛二名。――そして、父が「騎士を二名」と言った通り、騎士団の制服を着た男が二人。
背筋が自然と伸びる。彼らがいるだけで空気が変わる。
「こちらは王都騎士団、巡察隊所属の——」
執事長が紹介しかけたところで、玄関側から足音が近づいた。
規則正しい靴音。重さが違う。
現れたのは、若い男だった。
黒に近い濃紺の外套。肩の飾緒は銀。騎士団の中でも上位の家の者が着る、控えめだが質の良い装い。髪は短く整えられ、目は灰色に冷たい。
二名の騎士が、揃って直立する。
「副隊長殿」
副隊長。――この歳で?
男は軽く頷き、私の方へ視線を移した。
「伯爵令嬢セレナ・アルヴィス様で間違いないですね」
その声を、私は覚えている。
断罪の日、大聖堂の通路で目を逸らした横顔。あのとき、彼の肩章は同じ銀だった。
「はい。あなたは……」
名を呼ぼうとして、舌が止まった。
(……何だっけ)
喉の奥がひやりとする。
昨日まで、確かに“知っているはず”の情報を、私は取り落としたみたいだった。落とした音もしない。気づいたときには、もう手元にない。
男はわずかに眉を動かしたが、すぐに形式的な礼を取る。
「王都騎士団副隊長、カイル・グラントです。父が騎士団長を務めています」
――カイル。
私は心の中で名前を強くなぞり、すぐ手帳を取り出して書き込んだ。
カイル・グラント。騎士団長の息子。副隊長。
ペン先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
「本日は保管庫の立会いに?」
「伯爵様から“寄進品の管理が厳格化される”と伺いました。高位の聖遺物が絡むなら、巡察隊の立会いがあったほうが揉めない」
淡々としているのに、言葉の端々が現実的だ。理想論で動く男じゃない。だからこそ、頼れる。
「助かります。こちらへ」
私は扉の前に立ち、封蝋に指を添えた。
「封蝋の状態を確認します。欠け、剥がれ、押印の歪み、いずれも——」
「令嬢、失礼」
カイルが私の手元を覗き込み、視線を封蝋へ落とした。
「……縁が薄い。押した者が急いだか、封蝋を温めすぎたか。前回の封印はいつです?」
執事長が答えるより早く、私の背中が冷えた。
「……三日前です」
「三日前で、この薄さは妙ですね」
カイルの声色は変わらない。けれど、その“変わらなさ”が、逆に怖い。
私は封蝋係に命じた。
「記録帳を。封印の担当者名と時刻、温度管理まで書かせて」
封蝋係が慌てて帳面を差し出す。私は一行ずつ目で追い、署名欄に指を置いた。
「ここ、代筆です。本人は?」
封蝋係が、顔を青くする。
「……その、担当の者が今朝から熱を出しまして……」
熱を出す。
偶然みたいに整いすぎている。私は笑いそうになるのを堪えた。教会の手は、いつもこうだ。綺麗な偶然で、責任の所在を曖昧にする。
「では、今日は封印を新しくします。騎士団の立会いで。鍵も交換します」
執事長が目を丸くした。
「鍵を……? しかし教会の許可が——」
「許可が必要なら、書面で出していただきます。こちらも書面で返します」
私ははっきりと言った。
「口約束と“善意”が、いちばん危ない」
カイルの視線が、ほんの僅かだけ柔らかくなる。
「……賛成です」
鍵の管理人が震える手で鍵を回す。重い音とともに扉が開き、冷たい空気が流れ出した。
保管庫の中は暗く、棚に布包みが整然と並んでいる。寄進品の銀器、聖油、書簡、そして――奥の特別棚に、白い布が一枚。
聖遺布。
近づくだけで、胸がざわついた。あの黒い染み。あの瞬間の凍りつく空気。断罪の鐘。
私は一度だけ瞬きをし、心臓の鼓動を落とした。
(見ない。怖がらない。仕事をする)
「聖遺布の包み、開封はしません。現状確認のみ。接触者を限定し、記録を残します」
私は声に出して宣言した。自分に言い聞かせるためでもある。
「接触者は——封蝋係、鍵管理人、執事長、騎士団二名、私。以上。追加は許可書が必要」
「了解」
カイルが短く答える。部下の騎士が頷き、入口側に立って視線を巡らせた。
私は棚の下を見た。埃の具合。足跡。布包みの結び目。
(……ここ、違う)
棚の角の埃だけが薄い。人が最近触れた痕跡。けれど記録上、ここに触れた者はいない。
私は何気ないふりをして膝をつき、棚の奥へ指を滑らせた。
硬いものに触れる。
小さな金具。鍵——いや、“鍵の型取り”に使う粘土の残り。
喉がひゅっと鳴りそうになる。
(早い。二日後じゃない。もう仕込みが始まってる)
私はそれを掌の中に隠し、立ち上がった。
「封印を新しいものに替えます。鍵の交換も。新しい鍵は二本。一本は伯爵家、一本は騎士団の保管。複製は禁止」
執事長が唾を飲み込んだ。
「……教会が騒ぎ立てるのでは」
「騒げばいい。騒いだ記録が残る」
私はにこりともせず言った。
「こちらは家を守るだけです。誠実に」
封蝋の道具が運び込まれ、溶かした蝋の匂いが漂う。私は押印の瞬間を見届け、封印の厚みと縁の均一さを確認し、記録帳に自分の署名を入れた。
カイルも署名した。
その筆跡は、迷いがなく真っ直ぐだった。
扉が閉まる。鍵が回る。封蝋が固まる。
その瞬間だけ、胸の奥に薄い安堵が差した。
――けれど。
廊下へ出たところで、今度は別の足音が響いた。
教会の黒衣。若い司祭が二人、早足でこちらへ向かってくる。顔は丁寧に作られているが、目の奥が焦っている。
「アルヴィス家ご令嬢。大聖堂より急ぎの伝達です」
司祭の一人が言い、書状を差し出した。
私は受け取らず、手を止めさせた。
「差出人、署名、封蝋、日付。先に読み上げて」
司祭は一瞬詰まったが、形式を崩せないと悟ったのか、ぎこちなく答える。
「……大聖堂管理局。奉納式準備の都合により、聖遺布の移送を本日中に行う。奉仕役のセレナ・アルヴィスは立会いとして同行せよ」
私は心の中で息を吸った。
(来た。予定より早い)
「本日中、ですか」
視線を横へ。カイルが何も言わず、私の後ろに立っている。存在自体が圧力になる。
私は司祭に微笑んだ。目だけで。
「承ります。ただし、移送命令は“大司祭以上の直筆署名”と“印章”が必要です。これは管理局名義。規定に沿っていません」
司祭の頬が引きつった。
「令嬢、それは……」
「規定です。違うなら規定を改めた書面を出してください。あと」
私はさらりと続けた。
「移送は騎士団の護衛が必要です。教会内部の者だけでは、盗難や破損の責任の所在が曖昧になりますから」
司祭の目がカイルに向く。
カイルは淡々と言った。
「護衛の必要性は妥当です。書面が整えば動きます。整わないなら動きません」
司祭たちは、今すぐにでも噛みつきたい顔をしながら、結局何も言えずに頭を下げて引いた。
その背中が曲がった瞬間、私は確信した。
――今、私は一つ勝った。
小さな勝利。けれど、勝利は積み上げるものだ。
「令嬢」
カイルが低い声で呼んだ。
「……教会は、あなたを急いで大聖堂へ連れて行きたい。理由は?」
私は答えを半分だけ飲み込み、半分だけ出した。
「私に“触れたこと”を作りたいのでしょう。触れたと言い張れる状況を」
カイルの目が細くなる。
「……つまり、あなたは嵌められている」
「ええ。だから、嵌めさせません」
私は手帳を握り直した。
指先が、少し震えている。恐怖じゃない。怒りでもない。
(……さっき、カイルの名前、出なかった)
この勝利の裏で、私は確実に何かを削られている。
それでも、止まれない。
「副隊長殿」
私は彼を見上げた。
「お願いがあります。保管庫の警備を、今夜だけ強化してください。教会が書面を整えられないなら、別の手で来ます。……事故に見せかけて」
カイルは数秒だけ黙り、それから頷いた。
「今夜、巡察隊を回します。……令嬢、あなたがここまで慎重なのは、過去に何かあったからですか」
私は一瞬、言葉を探した。
――焼かれた。断罪された。世界が一色に染まると言われた。
全部、本当なのに、今は証拠がない。
だから私は、事実の代わりに、誓いを出した。
「私は、家と国を守りたいだけです」
カイルの視線が、ほんの少しだけ変わった。軽蔑でも同情でもない。評価の目。
「……分かりました。伯爵様にも報告します。あなたの手続きは、正しい」
その言葉に、胸がわずかに温かくなる。
私は、手帳の新しい頁を開いた。
『聖遺布の“本日移送”要求。規定違反。司祭焦り。——今夜、必ず動く』
書き終えた瞬間、頭の奥がちくりとした。
(……封蝋係の担当者、名前は……)
今朝、聞いたはずの名が出てこない。喉の手前まで来て、すり抜ける。
私はペンを握りしめ、紙にこう追記した。
『人名は必ず書く。出なかったら、危険信号』
窓の外で風が吹き、庭の木々がざわめいた。
夜が来る。
そして今夜、正教会はきっと、“事故”を起こす。
私は顔を上げ、保管庫の方向を見た。
「……来なさい」
小さく呟く。
「今度は、見逃さない」




