第27話 延期命令の無効
明朝の王城は、石が冷たかった。
門をくぐるだけで、胸の奥が固くなる。
けれど今日は、恐れる場所じゃない。
――“口を紙に落とす”場所だ。
私は喉の空白を抱えたまま歩いた。
名前が言えない。その穴は消えない。
でも、穴があるなら、周囲を固めればいい。
右にはカイル。半歩前。盾。
左にはエリオット。紙束。釘。
後ろにはリュカ。封印の匂いを嗅ぐ役。
そして、記録官。
「本日は議事録(=会話の記録)を作成します」
エリオットが先に言った。
王城の執務室の扉が開く前に、形式を先に置く。
衛兵が渋い顔をしたが、止められない。
前回の議事録がある。拒めば「拒否」が記録になる。
扉が開いた。
王太子レオンハルトは、机の前に立っていた。
昨夜から眠っていない目だ。
「セレナ」
呼ばれて、喉がきゅっと縮む。
返事をしようとして――音が引っかかる。
「……」
王太子の眉が寄った。
「声が……?」
エリオットが淡々と差し込む。
「北塔保護室での無記録処置により、特定語彙の発話阻害が確認されています。魔術省の予備所見は公告板に掲示済みです」
王太子の目が一瞬だけ揺れた。
(聞いてない顔)
だがもう遅い。掲示は“国の目”に触れている。
王太子は机に置かれた紙を指で叩いた。
「その件も含めてだ。公開鑑定は延期する。混乱が大きすぎる」
延期。
言葉は柔らかいのに、刃がある。
混乱を理由に止めるのは、いちばん楽だ。
私は言えない声の代わりに、金属片――受領番号を握りしめた。角が刺さる。
エリオットが、予定通り“確認の刃”を出す。
「確認します、殿下。延期命令の根拠は何ですか」
王太子の目が細くなる。
「根拠? 王太子の判断だ」
「確認します。王太子の判断で、魔術省の公開鑑定(=国の鑑定)を停止できますか」
空気が一瞬止まった。
王太子の顔に、わずかな苛立ちが走る。
“台本”の外だ。
「……できる」
「根拠条文を」
エリオットが即座に追い込む。
「条文番号。あるいは勅命の形で」
王太子の指が止まった。
(ない)
ないから、苛立つ。
カイルが、低く言う。
「殿下の命令が“国の形式”として有効なら、紙で出せるはずだ」
王太子は舌打ちを飲み込み、少しだけ声を落とした。
「セレナ。君のためだ。……このままでは君が潰れる」
その声には、ほんの少しだけ本音が混じる。
でも本音は、形式の外では無力だ。
私は返事をしたかった。
言いたかった。
(私のためじゃない)
でも喉が空白だ。
だから、私は紙を出した。
エリオットが用意していた一枚。
大きく太い字で、短い文章。
《申立》
公開鑑定の延期命令は、根拠条文の提示がない限り無効。
延期が必要なら、命令権限と理由を文書で示すこと。
私はその紙を机の上に置き、指で“ここ”を示した。
王太子の視線が、紙に落ちる。
「……」
沈黙が伸びるほど、議事録は強くなる。
記録官のペンが、さらさらと走っている。
王太子は息を吐いた。
「……君は、どこまで国を盾にするつもりだ」
エリオットが淡々と返す。
「盾ではありません。殿下のためでもあります。根拠のない命令は、殿下の権威を傷つける」
王太子の眉が僅かに動く。
それは“効いた”合図だ。
王太子は紙を手に取り、ゆっくり言った。
「延期は撤回しない」
「では、文書で」
エリオットが即座に言う。
「命令書を。条文を。理由を。署名を。受領番号を」
王太子の目が冷える。
「……そこまで言うなら、君は私に楯突くのだな」
言葉の矛先が、私に向く。
私は喉の空白を抱えたまま、王太子を見返した。
そして、ゆっくり首を振った。
違う、と。
その動きに、王太子の目が僅かに揺れた。
私は以前なら、ここで泣いていた。
でも今は泣かない。
泣く代わりに、受領番号を握る。
(数字は泣かない)
(数字は残る)
王太子は、最後の手段に出た。
机の横の鐘を鳴らす。
「法務官を」
扉が開き、王城法務官が入ってくる。
王太子は言った。
「公開鑑定を延期する“勧告”を作れ。国の秩序維持のためだ」
勧告。
命令ではない。
“勧告”なら、権限の薄さを隠せる。
でも、勧告には勧告の弱点がある。
エリオットが微笑まずに言う。
「勧告なら、従う義務はありません」
法務官が固まる。
王太子が苛立ちを滲ませる。
「……従わなければ、どうなるか分かっているのか」
ここだ。
“結果”を言わせる。
エリオットが、静かに切り込む。
「確認します。勧告に従わない場合、殿下はどのような結果を命じますか」
王太子の喉が動く。
言えば、権限逸脱。
言わなければ、脅しの空文。
王太子は沈黙した。
沈黙が、議事録に落ちる。
“言えなかった”が記録になる。
私はその瞬間、机の上の議事録用紙に指を伸ばし、指先で一文字だけ書いた。
×
無効。
誰のためでもない。
私のための印だ。
王太子の目が、その×を見て細くなる。
「……セレナ」
呼び方が、少しだけ苦い。
「君は、もう私の知っている君ではない」
胸の奥が痛む。
でも痛むのは、まだ私が私だからだ。
私は返事の代わりに、もう一度首を振った。
(私は、私だ)
(ただ、燃えないだけ)
そのとき、扉の外で騒ぎが起きた。
「魔術省より、緊急の通達です!」
使者が飛び込んでくる。
王太子が受け取り、目を走らせ――顔色が変わった。
「……公開鑑定の会場を、王城前広場に変更する」
「は?」
法務官が声を漏らす。
使者が読み上げる。
「『妨害の恐れがあるため、王都騎士団の護衛下で、より公開性の高い場所に移す。告示は既に公告板へ掲示済み』」
王城前広場。
王城の目の前。国の目の前。
(逃げ場がない場所)
エリオットが小さく息を吐いた。
「……先を打たれましたね。こちらの勝ち筋が太くなった」
王太子は唇を噛み、私を見る。
「君は……どこまで」
私は喉の空白を抱えたまま、机の上の申立文を指で押さえた。
延期は無効。
根拠がない。
そして、公開の場は――王城前。
王太子が何か言いかけた瞬間、カイルが一歩前に出た。
「殿下。今ここで“延期命令”を文書化するなら、公告板に貼られます」
静かな脅し。形式の脅し。
「貼られれば、殿下の名で“国の鑑定を止めた”事実が残る。――それでも?」
王太子は、言葉を失った。
沈黙は、負けだ。
沈黙は、議事録に落ちる。
記録官のペンが止まらない。
やがて王太子は、絞るように言った。
「……分かった。延期は“勧告”に留める。強制はしない」
エリオットが即座に言う。
「今の発言を議事録に」
王太子が目を閉じる。
「好きにしろ」
記録官が書き、封印が押される。
受領番号が付く。
(また一つ、鎖)
私はその番号を見て、胸の奥を少しだけ落ち着かせた。
執務室を出る廊下で、カイルが私に小さく言った。
「守れた」
私は首を振った。
(守れたのは、私じゃない)
(“形式”だ)
でも、形式が守れれば、私は立てる。
リュカが短く言う。
「当日、香炉が来る。匂いで削りに来る。対策しろ」
エリオットが頷いた。
「令嬢が喋れないこと自体を、武器にしましょう。『本人が言えないので、鑑定官が読み上げる』を徹底する」
私は金属片を握り、胸の中で繰り返した。
(次に潰す罠は――“当日の妨害”)
公開鑑定は明日。
王城前広場。
“人の目”が最大になる場所で――
聖女の“奇跡”を、国の記録で折る。




