第21話 押収調書
「……私は、受理していません」
その一言で、大聖堂の空気がひっくり返った。
ざわめきが波になり、貴族席の扇が止まり、民の視線が一斉に壇へ刺さる。
聖女エレノアは微笑みを貼り直そうとして――貼り切れなかった。
「誤解が生じました。書記が混乱を避けるために――」
言い訳の言葉は甘く、だから危険だ。
甘い言葉は、すぐ空気を塗り替える。
(塗り替えさせない)
私は台帳――受理簿の机から目を離さず、声を大きくした。
「今の発言を、記録に残してください。『受理していない』――これが事実です」
司祭の一人が息を呑み、護教兵の肩が動く。
次の瞬間、カイルが前へ出た。
「騎士団が預かる」
淡々とした声なのに、槍より重い。
「受理簿は証拠物だ。動かすな」
護教兵が一歩踏み出しかけた。
だが、その前にノアが壇の影から出て、静かに言った。
「触れないでください」
声は柔らかいのに、背筋が冷えるくらい正確だった。
「いまここで取り上げれば、あなた方は“証拠隠滅”になります。信仰の名で、そんなことをしますか」
護教兵の足が止まる。
貴族席の空気も止まる。
(よし)
私はここで、もう一段だけ“鎖”を作る。
「押収調書(=何を誰が預かったかの証明)を作ってください」
司祭の眉が跳ねた。
「ここは大聖堂です!」
「だからこそです」
私は言い切る。
「今、ここには国の民も貴族もいます。勝手に持ち去ったら、また“提出したことにする”のと同じになります。――預かるなら、証明を」
カイルが短く頷いた。
「作る。法務官を呼べ」
すぐ脇にいた王城の法務官が前へ出る。今日の儀に“形式の監視”として来ていた男だ。彼は無表情のまま、紙とペンを取り出した。
「物件名」
「受理簿。日付欄のあるページ」
私が答え、すぐ続ける。
「押収の理由は、“虚偽記載の疑い”。押収者は騎士団。立会いは――ここにいる皆」
法務官がペンを走らせる。
カイルが受理簿の机に近づき、触れずにページの端を示した。
「このページを含む台帳一冊、封印して預かる」
リュカがどこからか現れて、短く言った。
「封印は俺が掛ける。剥がしたら割れるやつで」
「触れるな!」と司祭が叫びかけたが、叫びは声にならなかった。
さっき「受理していない」と認めたばかりの台帳だ。
ここで奪い返せば、“嘘”が確定する。
リュカが封蝋の上から術式印を押した。小さな音。空気が乾く。
「これで改ざんは痕跡が残る」
法務官が淡々と読み上げる。
「押収調書:受理簿一冊。押収日時――」
その数字が耳に入った瞬間、頭の奥がふっと白くなった。
(……日時? 今、何日?)
輪郭が溶ける。
自分の足元が、少し浮く。
甘い匂いがまだ残っている。削りが、薄く息をしている。
私は反射で、握っていた金属片の受領番号を指でなぞった。角が刺さる。
(戻れ)
息が戻った。
その瞬間、カイルが私の隣で低く言った。
「ここだ。戻れ」
命令形の一言が、盾みたいに胸に刺さる。
私は頷き、法務官へ言った。
「控えを二通。ひとつは王城保管、ひとつは私へ」
「了解」
ペンが止まらない。
押収調書が完成し、立会い署名の欄が回る。
貴族が、民が、名前を書く。
“人の目”が、紙に落ちて鎖になる。
ノアが最後に署名をした。枢機卿の息子の名は、重い。
「これで、教会は『知らない』と言えません」
ノアは私にだけ聞こえる声で言った。
その一言が、胸の奥を熱くした。
恋の言葉じゃない。けれど、私を“世界に残す言葉”だった。
受理簿が封印され、騎士団の手に移った瞬間、聖女はようやく壇へ戻った。
微笑みは戻した。戻したが、目の奥が硬い。
「……祝福の儀は続けます。混乱は、神が清めましょう」
清め。
その言葉がまた、甘く刺さる。
(空気で塗り替えるつもり)
私は一歩前へ出て、最後にもう一つだけ、釘を打った。
「皆さま。今ここで確認します」
声を張る。
「聖女様は『受理していない』と認めました。よって私は、誓文を提出していません」
ざわめきがもう一度、確信へ変わる。
「提出してないって言ったぞ」
「じゃあ“提出した”って誰が……」
「受理簿に名前があるのは何なんだ」
聖女の微笑みが、ほんの一瞬だけ歪んだ。
その瞬間、私の耳元でリュカが低く言った。
「今のうちに出ろ。空気が塗られる前に」
エリオットも、別角度から囁く。
「勝利はここで十分です。次は“場外”で詰めましょう。鑑定と王城記録で」
私は頷いた。
(勝ち逃げじゃない)
(次の勝ち方のための撤退)
カイルがすっと前に出て、人波を割る。
私はその半歩後ろに入った。
――そのとき。
袖が、軽く引かれた。
振り向くと、ノアがそこにいた。人の目がある距離で、でも指先だけが私の袖を止めていた。
「セレナ様」
呼び方が少しだけ柔らかい。
「……燃えないでください。あなたが燃えたら、信仰が汚れます」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
私は頷く。
「燃えません。――あなたも、無理しないで」
ノアは一瞬だけ目を見開き、すぐ小さく頷いた。
(恋愛の余裕なんてない)
(でも今の一言は、命綱みたいに効いた)
大聖堂の外へ出た瞬間、空気が変わった。
冷たい風。祈りの匂いが薄れる。
その薄れた分だけ、頭の中の霧が少し晴れる。
私はカイルに短く言った。
「押収調書、控えは?」
「ここだ」
彼が差し出す封筒は、封印済み。剥がせば割れる。
私はそれを胸に抱えた。
(これで、“受理簿があった”ことが残る)
(そして、“聖女が受理していないと認めた”ことも残る)
――なのに。
背後から、聖女の声が追ってきた。
「セレナ様」
振り返ると、白い外套が扉の影に立っている。笑顔。慈悲。
その慈悲が、今は刃に見える。
「あなたは紙で勝ったと思っている」
胸の奥が冷える。
「でも、“奇跡”は紙より強いのです」
その瞬間、風が止まった。
音が一瞬だけ遠くなる。
私の指先から、受領番号の金属が――ぬるくなった。
(……来る)
視界がわずかに揺れ、頭の奥の引き出しが勝手に開きかける。
言葉がほどける寸前。
カイルが、私の前に立った。
「令嬢」
低い声。短い命令。
「息を吸え。鳴らせるか」
私は笛を握り、吸って――吐いた。
(まだ鳴らさない)
(鳴らすのは、“奇跡”が形になった瞬間)
私は聖女を見返し、声を落とさず言った。
「奇跡でも、受領証は出せます」
聖女の微笑みが、冷たく薄くなる。
「……では、次はあなたの“記憶”に出します」
ぞくり、と背骨が震えた。
(目的は最初からこれだ)
紙を消す。証拠を消す。
そして最後に――私自身を消す。
聖女はゆっくり扉の奥へ引いていく。
背中で言った。
「次の儀で、あなたは自分の名前を言えなくなる」
扉が閉まり、祈りの音が外気に遮られる。
私は息を吐き、金属片の角をもう一度なぞった。
(次は“奇跡”そのもの)
エリオットが静かに言う。
「受理簿は押さえました。次は鑑定を“公開”にしましょう。密室では、奇跡に塗られます」
リュカが頷く。
「魔術省で開く。公開鑑定。立会いを付ける」
カイルが一歩前へ出る。
「そして、令嬢を一人にしない。……今度こそ、絶対に」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
私は頷く。
「次に潰す罠は――“奇跡で記憶を奪う”」
紙で勝った。
次は、紙を超えてくる相手に――それでも“形式”で勝つ。
私は封印の束を抱え直し、王城へ向けて歩き出した。




