第20話 受領証で折る
受理簿の上の「セレナ・アルヴィス」は、呼吸していた。
黒い線がゆっくり滲み、紙に馴染み、まるで最初からそこにあったみたいに落ち着いていく。
(……私の字に見える)
でも、違う。
私の筆は、もう少し癖がある。ここまで綺麗じゃない。
それに何より――私は触れていない。
触れていないのに、書かれている。
それは「提出済み」を作るための文字だ。
胸の奥が冷えた瞬間、甘い匂いがさらに濃くなった。
祈りの香。
喉の奥がぼやける、削りの匂い。
(だめ。今、持っていかれる)
視界が白くなる。
自分が何を見ているのかも、薄い。
私は反射で、握っていた金属片を強く掴んだ。受領番号。数字の角が指に刺さる。
――戻れ。
息が戻る。
そのとき、壇の上で聖女の声が大聖堂に響いた。
「迷える者に、神の光を。――セレナ様も、既に悔い改めを捧げられました」
ざわ、と空気が立った。
「え……提出したの?」
「だったらなんで王城で……」
「でも受理簿に名前があるって……」
私は一歩、前へ出た。
カイルが半歩先に立つ。
盾の位置。目が「行け」と言っている。
ノアが壇の影から、私の動きを見ている。
視線は冷静。――でも、確かに“こちら”にある。
私は息を吸って、声を大きくした。
「聖女様。確認します」
祈りの反響で声が跳ね返る。大聖堂全体に届く。
「その受理簿は、いつ、誰が、どこで、私から誓文を受け取った記録ですか」
聖女は微笑みを崩さない。
「神の御前で。あなたが捧げたのです」
「いつですか」
私は畳みかけない。問いを削って、一点に刺す。
「日付と時刻を」
聖女の微笑みが、ほんの僅かに止まった。
日付と時刻。
言えば、その時刻に私はどこにいたかを突かれる。
言わなければ、受理は“空気”になる。
聖女はゆっくり言った。
「……数日前。あなたの心が折れた日」
数日前。
曖昧。
私は頷いて見せた。
「では、受理票(=受け取った証明)は?」
聖女が息を吐く。
「不要です」
「不要なら、受理ではありません」
私はきっぱり言った。
「受理が成立するなら、証明が残ります。証明が残らない受理は、ただの主張です」
ざわざわが増える。
「確かに……」
「受け取ったなら紙があるはずだよな」
「教会ってそういうのないの?」
聖女は、慈悲の声を少し強くした。
「信仰は紙では測れません。あなた方は神を――」
「測っていません」
私は言葉を切った。
「嘘を測っています」
空気が跳ねた。
護教兵が一瞬、動きかける。
その瞬間、ノアが一歩前へ出た。
「聖女エレノア様」
声がよく通る。枢機卿の息子としての“場の力”がある。
「受理簿が教会の記録である以上、管理者・立会い・保管場所の明記が必要です。――なければ教会法違反です」
聖女の目が、冷たく細くなる。
「ノア様。あなたは統合派に逆らうのですね」
「逆らうのは、“信仰を利用する者”です」
ノアの声は淡々としていた。
「私は信仰を守ります」
その言葉で、貴族席が小さくざわついた。
教会内部の人間が異議を唱えた。それ自体が“事実”として刺さる。
私は次の釘を打つ。
「そして私は、王城の公告板に『提出していない』と掲示しました。受領証と控えが出る形以外では提出しないとも」
聖女が微笑む。
「虚偽の流布は――」
「なら、受領証を出してください」
私は同じ刃で切る。
「出せるなら、今ここで。出せないなら、“提出済み”は撤回してください」
聖女の唇が一瞬、固く結ばれた。
撤回はできない。撤回すれば、今までの圧が崩れる。
出すこともできない。出せば全文と手続きが必要になる。
だから彼女は、別の道に逃げる。
「受領証は神の御前で――」
「王城文書所へ提出できますか」
私は重ねた。
「提出された瞬間、文書所の記録が走ります。走らなければ、提出はありません」
聖女の目が一瞬だけ揺れる。
(刺さった)
王城へ受領証を出せない。出した瞬間、矛盾が固定される。
私は、ここで勝負を決める一手を打つ。
胸元の笛を指で押さえ、鳴らさずに言った。
「証拠は、ここには持ち込みませんでした」
ざわ、と空気が動く。
「でも、国の外に置いてあります。王城と魔術省に」
私は一拍置いて、言い切った。
「聖女様。あなたが“受理した”と言うなら、今この場で“受理票”を発行し、管理者名と保管場所を記し、立会い署名をつけてください。――できないなら、あなたの受理は成立しません」
沈黙。
大聖堂の中心に、沈黙が落ちた。
聖女は微笑みを保つ。保ったまま――喉が動く。
そして、彼女は壇の横の司祭に目配せした。
司祭が台帳を抱え、私の前へ出てくる。
筆を持っている。
(書かせる気だ)
司祭が言う。
「ならば、ここで受理票を発行します。――セレナ様、こちらに指を。印を」
指。印。
触れた瞬間に“受理”が完成する。
私は、手を出さない。
代わりに、静かに言った。
「私の指ではありません。あなた方の署名で発行してください」
司祭が固まる。
「……令嬢の指印が必要です」
「必要なら、受理は私の同意で成立する。――つまり今までの『既に受理した』は嘘です」
私は淡々と言った。
「同意が必要なら、今この場で初めて成立する。なら、“数日前に受理した”は成立しません」
空気がざわめきから、確信のざわめきへ変わる。
「今、矛盾したぞ」
「既に受理したって言ったのに、指印が必要?」
「じゃあ受理してないじゃん」
聖女の微笑みが、初めて揺れた。
そこで私は、最後の刃を落とす。
「受理簿に私の名前がありますね」
私は台帳を指した。触れない距離で。
「その筆跡は、私に似せたものです。――でも私は触れていない。なら、誰が書いたのですか」
聖女が言い返そうとする前に、リュカの声が遠くから落ちた。
「そのインク、匂うな」
壇の下。人混みに紛れていたリュカが、視線だけで台帳を刺す。
「“聖性を上塗りする触媒”だ。筆跡の癖を馴染ませる。……そして記憶をぼやかす」
ざわっ、と空気が一段跳ねた。
「記憶を……?」
「そんなものが……?」
「それ、魔術じゃ……」
聖女が声を強くする。
「根拠のない中傷です!」
「根拠ならある」
リュカが冷たく言った。
「鑑定書は魔術省にある。封印済みでな」
私は頷き、聖女を見た。
「私はここで“証拠”を出しません」
言葉を一つずつ置く。
「でも、あなたが今『受理した』と言うなら、王城で受領証が発行されます。発行されなければ、あなたは受理していない」
そして最後に、声を大きくした。
「――聖女エレノア様。あなたは今、ここで『受理した』と宣言しますか。それとも、『受理していない』と認めますか」
二択。
逃げ道なし。
聖女の微笑みが固まる。
貴族席の空気が、息を止める。
民の視線が、針になる。
そして聖女は――
微笑みのまま、言った。
「……私は、受理していません」
その瞬間、空気が反転した。
どっとざわめきが起きる。
今までの“提出済み”が、音を立てて崩れる。
「え、じゃあ嘘だったの?」
「受理簿の名前は何?」
「聖女様が……認めた……?」
聖女は続ける。声は甘い。だから危険だ。
「受理簿は、混乱を避けるために書記が先に……」
言い訳が始まった。
私はそれを遮らず、ただ一言だけ置く。
「受理していないなら、提出していない」
それで十分だ。
ノアが静かに言った。
「……教会法違反です。受理簿の虚偽記載は」
カイルが一歩前へ出る。
「騎士団が預かる。台帳は証拠物だ」
護教兵が動きかける。だが、動けない。
民の目がある。貴族の目がある。ノアの声がある。
聖女は微笑みを貼り直しながら、私にだけ届く声で囁いた。
「勝ったと思いましたか? あなたは薄くなる。次は――」
私は息を吸い、笛に触れた。
「次は、あなたの“奇跡”そのものです」
言い返す前に、私はもう一度、声を張った。
「皆さま。今、聖女様は『受理していない』と認めました。――私は誓文を提出していません。提出していない者を、提出したと言ったのは誰ですか」
問いは刃だ。
刃は、空気を切る。
聖女の微笑みが、初めて――崩れた。
そして私は確信する。
ここからが“本番”だ。
誓文は折れた。
次は、“異端の奇跡”を折る番。




