第2話 白紙の手帳
朝の光は、あまりにも優しかった。
カーテン越しの淡い黄金が、昨夜までの悪夢を嘘みたいに塗り潰していく。小鳥の声。遠くで馬車の車輪が石畳を叩く音。いつもの、伯爵家の朝。
――三か月後、私はこの世界で焼かれる。
それを知っているのに、世界は何事もない顔で回っていた。
「……大丈夫。落ち着いて」
自分に言い聞かせながら、私は机に向かう。白紙の手帳を開き、ペン先を紙に落とした。
まず書くべきは感情じゃない。情報だ。
断罪の日までに起きること。誰が動くか。何が消えるか。どこに罠があるか。
……書きながら、ふと手が止まる。
昨夜、地下への階段で聞こえた声――「織り直せ」。
あの声が、思い出そうとしても輪郭を結ばない。男でも女でもない、年齢もない、冷たい声だったはずなのに、今は霧みたいに薄い。
(……忘れていく?)
喉の奥がひやりとした。
違う、今は考えるな。恐怖は後でいい。私は手帳に視線を戻し、息を吸う。
「断罪の舞台は……大聖堂。引き金は、聖遺布」
聖女エレノアが掲げた、あの布。
あれが“突然出てくる”はずがない。準備が必要だ。誰かが運び、誰かが触れ、誰かが穢れを付ける。そして「私がやった」と言い張る筋書きを作る。
つまり、最初の戦場は大聖堂ではない。
その前――「布が私の手に渡る場所」だ。
「……セレナ様?」
扉の向こうから控えめな声。侍女のマリアだ。
「起きているわ。入って」
マリアが顔を覗かせ、私の机の上の白紙手帳を見て、一瞬だけ目を丸くした。
「そんなに早くからお勉強ですか?」
「ええ。……今日から忙しくなるから」
私は笑みの形だけ作って、手を伸ばす。
「マリア、家の寄進の記録。過去一年分を持ってきて。教会宛のものは全部。領地の分も」
「……かしこまりました」
彼女は少し戸惑いながらも、すぐに頭を下げた。良い侍女だ。だからこそ、巻き込みすぎない。
(私の味方を増やす。けれど、無関係な人は守る)
それが二周目の第一条件だ。
身支度を済ませて、私は父の書斎へ向かった。
伯爵家当主――父、ローデリク・アルヴィスは、窓辺で書類に目を通している。私が入ると、顔を上げ、柔らかく笑った。
「珍しいな、セレナ。朝から用事か?」
その声に、胸が少しだけ痛んだ。
断罪のあと、父は取り調べで拘束され、私より先に倒れた。私は地下へ引きずられる途中、父の姿を――一度も見られなかった。
「父上。お願いがあります」
私は礼を尽くして切り出した。
「教会への寄進の件、今後は私に取りまとめを任せてください。書面で、記録を残したいのです」
父の眉がわずかに上がる。
「なぜ急に?」
「……王都の空気が変わってきています。信仰の名目で、家が揺らされることもある。だからこそ、私たちは誠実であると“示せる形”を作りたいのです」
嘘ではない。真実の一部だけを取り出して並べる。私はそういう話し方を、もう一度学んだ。
父はしばらく黙り、ペンを置いた。
「……セレナ、お前は、いつからそんなに現実主義になった」
笑うでも叱るでもなく、ただ少し寂しそうな声だった。
私は目を逸らしそうになるのを堪え、背筋を伸ばす。
「家を守りたいだけです」
父は長く息を吐き、頷いた。
「分かった。寄進の記録はお前に任せる。必要な人員も付けよう。だが、無理はするな」
「ありがとうございます」
まず一つ。
家の中で私が動ける権限を得た。これがないと、外で戦えない。
その時、書斎の扉がノックされた。
「伯爵様。正教会より使いの者が」
胸の奥が、ひやりとする。
来た。
私は表情を変えずに、父の隣に立った。
入ってきたのは、教会の徽章を胸に付けた若い司祭だ。彼は丁寧に頭を下げ、封蝋の押された書状を差し出す。
「アルヴィス家ご令嬢セレナ様へ。大聖堂より」
封蝋は白。正教会の紋章。
指先で触れた瞬間、体温が持っていかれるような感覚がした。
(覚えている……この封筒を、私は一度受け取った)
そして、次の展開も。
私は封を切り、目を走らせる。
――《慈善奉納式の奉仕役として、セレナ・アルヴィスを指名する》
――《聖遺布の管理に関わる者として、清廉なる心を示されたい》
文字は丁寧で、内容は甘い。けれど、これは首輪だ。
奉仕役に就けば、大聖堂へ足繁く通うことになる。管理に関われば、聖遺布に“触れたこと”にされる。
つまり、断罪のための鎖を、今ここで私の首にかけに来た。
私は手紙を折りたたみ、司祭を見た。
「承りました。返答は書面でお返しします。受領の日付と、貴方のお名前をこちらにも記録してよろしいですか」
司祭が瞬きする。
「……え、ええ。もちろん」
私は父の机の上の受領帳を取り、さらりと書き込む。
――こういう細い線が、後で首を絞める縄になる。
相手が一歩踏み込むたび、こちらは一行、記録を増やす。大袈裟な剣よりも、紙は強い。
司祭が去ったあと、父が私を見た。
「奉仕役だと? 教会が、なぜお前を……」
「光栄なことです。……でも、慎重に進めます」
私は言葉を選んだ。
父に全部は言えない。正教会が“統合”を目指していることも、聖女が嘘を吐くことも。証拠がなければ、ただの妄想にしかならない。
だから、私は先に証拠を作る。
そして、味方を作る。
(最初は――騎士だ)
正教会の庭で戦うには、まず“庭の外”に引きずり出さなければならない。軍の目が入れば、教会は好き放題できなくなる。
私の脳裏に、断罪の場で目を逸らした若い騎士の横顔が浮かぶ。
騎士団長の息子。
彼はまだ何もしていない。けれど、見て見ぬふりをしたままでは、いずれ自分も飲み込まれると知れば――動く男だ。
(彼に信じさせるには、正教会が“今まさに”やっている悪事が必要)
未来の記憶が、答えを差し出した。
二日後。大聖堂での奉納式の準備のため、寄進品の保管庫に“事故”が起きる。
事故の名目で保管庫が開き、そこで聖遺布に「穢れ」が付く。
そして――その場にいた私が、犯人にされる。
「……先手を打つ」
私は父に向き直った。
「父上。寄進品の保管庫、今日中に私が確認したいのです。鍵の管理者も立ち会わせてください。それから……騎士を二名」
父は怪訝そうにしながらも、私の真剣さに押されたのか頷く。
「分かった。だが、なぜ騎士まで?」
私は微笑んだ。
「“誠実さを示す”ためです。教会の方々も、記録と立会いがあれば安心でしょう」
父は苦笑し、手を振った。
「お前は本当に現実主義だな」
現実主義じゃない。
生き残るためだ。
書斎を出ると、廊下の窓から訓練場の方角が見えた。朝の空の下、騎士たちの号令が遠くに聞こえる。
――明日、騎士団長の息子が王都の巡察に出る。
その道筋の一つに、アルヴィス家の保管庫がある。
偶然みたいに見える必然を、私は作れる。
私は手帳を抱え直し、胸の内で呟いた。
(無限に戻れると思っているうちに、勝ち筋を積み上げる)
(戻らなくていい未来に、辿り着く)
白紙のページに、私は最初の一行を書き込んだ。
『奉納式まで二日。保管庫の鍵と立会いを確保。――騎士団長の息子を引き込む』
ペン先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
窓の外で、鐘が一度鳴る。
断罪の鐘ではない。
――戦の始まりを告げる、合図みたいに。




