第19話 触れない受理
台帳の机は、やけに小さかった。
小さいのに、近づくだけで息が詰まる。
そこに触れた瞬間、私の人生が「提出済み」になる――そんな圧が、空気になって押し寄せる。
「セレナ様。こちらへ」
聖女エレノアは微笑みながら、指先で台帳を示した。
白い外套。白い指。白い声。
白さの下に、冷たい何かが潜んでいる。
私は一歩踏み出し――止まる。
「その台帳は何ですか。触れる前に、名称と目的を確認します」
聖女の睫毛が僅かに揺れた。
「ただの受理簿です。形式だけ」
形式だけ。
その言葉が落ちた瞬間、私はもう一度、同じ刃を抜く。
「形式なら、説明と証明をください」
私は台帳から目を逸らさずに続けた。
「誰が管理し、どこへ保管し、いつまで残し、誰が閲覧できるのですか。――そして、受理したなら“受理票(=受け取った証明)”は出ますか」
司祭たちが小さくざわついた。
受理票。
検査票と同じだ。預かるなら証明。受け取るなら証明。
聖女の微笑みは崩れない。
「神の御前での受理に、票など不要です」
「では、受理ではありません」
私は即座に返した。
「受理が“形式だけ”なら、形式の証明が必要です。証明がないなら、あなた方の言う『提出した』は、ただの言いがかりです」
どよ、と空気が揺れた。
貴族席の方で扇が止まる。
見物の民が息を飲む。
護教兵の指が、槍の柄を握り直す。
その瞬間、甘い匂いがした。
喉の奥がぼやける、祈りに似た匂い。
(……削られる)
視界が一瞬滲む。
(私は何を……何を拒んでる?)
言葉の輪郭が薄くなる。
手が冷える。
私は反射で、握り込んだ金属片を強く掴んだ。
受領番号の刻み。
数字の角が指に刺さる。
――戻れ。
息が戻った。
その背中に、半歩の熱が当たる。
「令嬢」
カイルの声が、低く落ちた。
「俺はここにいる。触るな」
たったそれだけ。命令形。短い盾。
それで私は立てる。
聖女は私を見つめ、慈悲の声で言った。
「怖いのですね、セレナ様。神が赦すと言っているのに」
赦し。
救い。
その言葉で人を縛るのが、こいつらのやり方だ。
私は笑わなかった。
「怖いのは、赦しではありません」
私は台帳を指先で示すだけにして、触れない。
「証拠の出ない受理が怖いんです」
聖女の目が、ほんの僅かに細くなる。
「あなたは、国の形式に逃げている」
「逃げていません」
私は淡々と言う。
「国の形式は、誰でも確認できます。――だから私はそこに立つ」
そして、わざと少し声を張った。
「私は誓文を提出していません。提出するなら、王城文書所で受領証と控えが出る形で行います」
ざわり、と人の気配が動く。
“外”の公告板を見た者が、ここでも繋げる。
私の言葉が、空気に釘を打つ。
司祭の一人が苛立ちを隠せず、言い放った。
「では、受理簿に触れるだけでいいのです! 署名は不要! 形式だけ!」
――来た。
触れさせる。
触れたら「受理した」と言い張れる。
私は視線をその司祭へ向けた。
「触れるだけで成立する受理なら、なおさら危険です」
静かに言い切る。
「だから、受理票を出してください。触れた瞬間、何が成立したのか。誰が受け取ったのか。――それを紙にしてください」
聖女の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「セレナ様。あなたは、いつも……」
「いつも?」
私は小さく首を傾げた。
「“受領証を出せ”と言うのが、そんなに都合が悪いのですか」
空気が、さらに冷えた。
そのとき。
壇の横――司祭席の影から、一人の青年が前へ出た。
黒衣。背筋のまっすぐな立ち方。灰に近い青の目。
ノア・ヴァレンティス。
枢機卿の息子。
「聖女エレノア様」
ノアは礼をして、声を整えた。
「受理簿は“形式だけ”ではありません。教会の記録です。記録には管理者と立会いが必要です。――それを曖昧にしたまま、誰かに触れさせるのは、教会法にも反します」
場が、息を止めた。
聖女の視線がノアへ刺さる。
「ノア様。あなたは、私の儀に口を挟むのですか」
「教会を守るために」
ノアは淡々と言った。
「信仰の名で、記録が汚されるのを見過ごせません」
その言葉が、胸の奥に小さな火を灯した。
(この人は、教会の中で私の側に立つ)
ノアは、私を見ないまま――でも確かに“こちら”へ向けて言う。
「セレナ様は受理簿に触れる必要はありません。触れるなら、受理票を発行し、管理者名と保管場所を明記し、立会い署名をつけるべきです」
恋の言葉じゃない。
けれど、守ってくれる言葉だった。
聖女は微笑みを戻そうとした。戻しきれない。
「……形式、形式と。あなた方は本当に、神を紙に閉じ込めたいのですね」
「閉じ込めたいのは、神ではありません」
私は静かに返す。
「あなたの嘘です」
その一言で、場の空気が跳ねた。
護教兵が動きかける。
司祭が咳払いをする。
貴族席の誰かが、息を飲む音が聞こえた。
聖女は一瞬だけ黙り――そして、慈悲の顔に戻る。
「分かりました」
声が甘くなる。危険な甘さ。
「では、受理簿に触れなくてもよい。――私が“受理した”と宣言しましょう」
宣言。
口だけで成立させる気だ。
私は即座に言った。
「宣言するなら、なおさら受理票を。――宣言の記録を、誰が残しますか」
聖女の微笑みが固まる。
そこで私は、最後の釘を打った。
「そしてもう一つ。もしあなたが『提出済み』と言うなら――王城文書所へ受領証を提出してください。提出された瞬間、記録が走ります」
ノアが小さく頷く。
カイルが低く言う。
「記録が走らなければ、提出はない」
聖女は、微笑みのまま息を吸った。
そして、ゆっくりと壇へ上がる。
「……では、祝福の儀を始めましょう」
始める。
始めれば、空気で押し切れると思っている。
私は台帳の机から目を逸らさず、最後に確認するために――ほんの少しだけ視線を落とした。
ページの上。
受理簿の、今日の日付の欄。
そこに――
私の名前が、既に書かれていた。
セレナ・アルヴィス。
私の筆跡ではない。
でも、妙に“私らしく”見える字で。
(……筆跡の罠)
背中が、凍りついた。
聖女の声が、大聖堂に響く。
「迷える者に、神の光を」
白い光が差す。
祈りの声が重なる。
――その眩しさの中で、私の視界の端だけが冷たく冴えた。
受理簿の私の名前が、ゆっくりと黒く滲んでいく。
まるで最初から、そこにあったみたいに。




