第18話 検査票
大聖堂の前は、朝なのに熱を持っていた。
祈りの声、露店の呼び声、白い外套の列。
“祝福の儀”は信仰の行事であると同時に、見世物だ。だから人が集まる。人が集まる場所は――私の味方にも、敵にもなる。
馬車を降りた私は、まず自分の手袋の内側を指で押した。
縫い目の下に、爪で刻んだ痛み。
――署名するな。
紙は持ち込めない。だから今日は、紙の代わりに“触れるもの”で自分を繋ぐ。
「……荷物は、それだけか」
隣に立つカイルの声が低い。今日は“付き添い”ではない。騎士団の黒外套ではなく、王都の治安任務用の濃紺。立ち位置が、堂々と公のものだった。
「ええ。財布と、ハンカチと……笛」
私は小さな金属の笛を指先で示した。
カイルが頷く。
「笛は絶対に離すな。息が詰まったら鳴らせ。――俺が割って入る」
命令形。硬い盾みたいな言葉。
胸の奥が、少し落ち着く。
(恋愛なんて、今は要らないのに)
(こういう一言が、いちばん効く)
私たちは人波を割って、検査口へ向かった。入口には白衣の司祭が並び、背後に武装した護教兵。目が笑っていない。
「アルヴィス伯爵令嬢セレナ様」
先頭の司祭が、丁寧すぎる笑みで言う。
「通達の通り、持ち物検査を。書類・封筒・記録媒体の持ち込みは禁止です。立会いの同伴も認められません」
「承知しました」
私は即答した。逆らうところではない。逆らうのは“形”だ。
「では、検査の前に確認します。検査票は発行されますか」
司祭の眉がわずかに動く。
「……検査票?」
「預かり証です」
私は淡々と続けた。
「あなた方が私の所持品を預かるなら、何を、誰が、いつ預かったか。記録が必要です。――返却の証明にもなります」
司祭の口元が引き攣る。
「信仰の場に、そこまでの形式は――」
「形式が嫌なら、“検査”をしなければよろしい」
私は微笑まないまま言った。
「検査は形式です。形式なら、記録が必要です」
背後の人々が、ひそひそと動き始めた。
「預かり証って普通じゃない?」
「盗まれたら困るしな」
「なんで出せないんだ……?」
空気が、じわりと司祭の足元に溜まる。
司祭は視線を逸らし、次の札を出してきた。
「では……検査は“目視”で。令嬢が鞄を開け、こちらが確認します」
(持って行けない形に変えた)
私は頷いた。
「それで結構です。触れないでください。触れるなら検査票を」
司祭が口を開きかけた瞬間、横から低い声が落ちた。
「この場の秩序維持は、王都騎士団が担当する」
カイルが一歩前に出る。声は淡々としているのに、場が静まる。
「検査はやるならやれ。だが揉め事が起きるなら、騎士団が介入する。――令嬢の所持品に手を出すなら、尚更だ」
司祭の目が僅かに細くなる。
「副隊長殿。立会いの同伴は認められません」
「俺は同伴ではない。治安任務だ」
カイルは一字一句、噛んで言った。
「拒むなら、“王都治安任務を拒否した”と記録する。大聖堂は、その責任を負えるのか」
背後で、護教兵の空気が揺れる。
彼らは“信仰”の武装だが、“国”の武装ではない。国と揉めるのは得策じゃない。
司祭は笑みを貼り直した。
「……分かりました。秩序維持の範囲で」
(小勝ち)
私は心の中で息を吐いた。
“同伴不可”は崩せない。でも“孤立化”は崩せる。
「では、どうぞ」
私は鞄を開き、財布とハンカチを見せた。笛も。手袋も。
司祭の視線が、手袋に落ちる。――薄い欲。
「手袋も外しなさい」
来た。
私は即答しない。即答すると“流れ”に乗る。
「外します」
そう言って、私は自分で外して掌を見せた。
でも手袋は、渡さない。指先で握り込んだまま。
「……手袋はこちらで預かります」
司祭が手を伸ばす。
私は静かに一言だけ置いた。
「検査票を」
司祭の手が止まる。
「令嬢、あなたは――」
「預かるなら、証明を」
私は繰り返した。
「預かれないなら、触れないでください」
背後の人波がざわめく。
「なんで紙一枚出せないんだ?」
「預かるなら書けばいいだけだろ」
司祭の頬が僅かに引き攣る。
――そして、嫌な香りがした。
甘くて、喉の奥がぼやける匂い。香でもない、薬でもない。
“祈りっぽい”匂い。
(来た……削り)
視界の端が滲む。
自分が何を握っているのか、言葉がほどける。
(……手袋? なんで?)
理由が霧に沈む。
その瞬間、私の手の甲に指が触れた。
冷たい指先。けれど優しくない。正確な触れ方。
「息を吸え」
低い声。リュカだ。
人混みに紛れていた彼が、ほんの一瞬だけ私の指先に小さな金属片を押し込んだ。コインみたいな薄い板。表面に刻みがある。
――受領番号。
王城の受領証に付いた番号だ。
(そうだ)
(私は“紙”じゃなく、番号で戻れる)
私は金属片を握り、痛みの代わりに冷たさで焦点を戻した。
リュカは私を見ずに、低く言った。
「それ、握ってろ。ぼやけたら見ろ。数字は消えない」
恋愛っぽい言葉じゃない。
でも、“私を戻す手”だった。
胸の奥が、きゅっとなる。
私は呼吸を整え、司祭へ言った。
「手袋は預けません。検査は私が外して見せました。――以上で終わりですか」
司祭は一瞬、言い返せない顔をした。
周囲の目がある。カイルの圧がある。今、強引に奪えば“盗み”になる。
「……通りなさい」
吐き捨てるような声だった。
(小勝ち、もう一つ)
私は手袋をはめ直し、笛と金属片を確かめ、前へ進んだ。
大聖堂の中は、外より冷たかった。
天井の高い空間に祈りの声が反響し、白い光が床に落ちる。人々の熱気だけが浮いている。
その中心に、壇がある。
そして――壇の手前に、机が一つ。
紙束。ペン。台帳。
(……受理簿)
ノアの手紙が頭の奥で鳴った。
> 偽造の鍵は“受理簿”。
机の横には、白衣の司祭が二人。手元の台帳に視線を落とし、誰かを待っている。
待っているのは、私だ。
「セレナ様」
遠くから、聖女エレノアの声がした。
振り向くと、白い外套がゆっくりこちらへ来る。微笑みは慈悲の形。目は、昨日より冷たい。
「持ち物検査、ご苦労さまでした。――では、こちらへ」
彼女が指し示したのは、台帳の机。
私は一歩踏み出し――止まった。
(触れた瞬間に“受理”になる)
(署名しなくても、指先で成立する)
頭の中で言葉が霧になりそうになる。
けれど私は、握った金属片の冷たさを確かめた。
受領番号。国の形式。
紙は外にある。証拠束も外だ。私は中で倒れない。
カイルが、半歩前に出る。
「令嬢、俺はここにいる」
短い言葉。命令形じゃない。
それが逆に、心を支える。
私は聖女を見て、微笑まないまま言った。
「その台帳は何ですか。――触れる前に、名称と目的を確認します」
聖女の睫毛が、僅かに揺れた。
「……ただの受理簿です。形式だけ」
形式だけ。
その言葉が落ちた瞬間、私は確信した。
(ここが罠だ)
私は息を吸い、次の一言を選んだ。
「形式なら、国の受領証と同じです。――検査票と同じく、説明と証明をください」
聖女の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
周囲の目が集まる。
壇の近くの貴族席。見物の民。護教兵。司祭。
“国の目”は外にある。
でも、“人の目”は、ここにもある。
私は台帳から視線を逸らさず、指先を拳に握り込んだ。
笛が、胸元で冷たく光る。
次は、紙じゃない。
――指先で成立する“受理”を、ここで折る。




