第16話 召喚状の議事録
翌朝。
王城へ向かう馬車の中で、私は手袋の内側の爪跡をなぞった。小さな痛みが、私をここに留める。
――署名するな。
誓文の署名ではない。
“署名させる流れ”に乗るな、という自分への命令だ。
「令嬢」
向かいに座るカイルが、短く言う。
「何があっても、君は“はい”とだけ言うな」
「……分かってる」
「違う。分かってる顔をしても、言わされる」
カイルの声は硬い。優しさじゃなくて、守るための命令形。
それが今はありがたい。
「俺が止める。議事録(=会話の記録)も、こちらの手で取らせる」
議事録。
言葉を紙に落とす。それだけで、相手の“後出しの嘘”は折れる。
私は頷いた。
「記録官は?」
「もう手配した。王城文書所の記録官だ。教会の息がかかってない方」
そこに、エリオットが差し込むように言った。
「そして、質問の順番も決めておきましょう。王太子の“口”を縛るなら、先に縛りたい箇所があります」
エリオットは馬車の揺れの中でも一枚の紙を崩さず、指で三つ線を引いた。
「
①召喚の理由(=何を求めるか)
②王太子の権限(=何を命令できるか)
③結果(=従わない場合に何が起きるか)
」
「……詰問みたいね」
「詰問ではありません」
エリオットは淡々と言う。
「手続きの確認です。確認を拒む者は、たいてい“内容が言えない”」
リュカが鼻で笑った。
「王太子が“言えない”なら、それは誰かの台本だ」
ノアがいない。教会内部の動きは見えない。だからこそ、ここで王太子の台本を破る必要がある。
王城門が近づく。馬車が止まり、衛兵の鎧が鳴った。
私は深呼吸し、封筒の凸凹の感触を思い出す。
(外に残す。外に残す)
議事録に、残す。
謁見の間の一角。小さな執務室。
豪奢ではないが、息が詰まるほど整っている。机の上には、すでに紙束とインク、そして署名台が置かれていた。
(署名台)
あからさまな誘導。
私は視線を逸らし、先に法務官へ礼をした。文書所の者だ。記録官もいる。机の端でペンを構え、何も言わずに待っている。
王太子レオンハルト殿下は、窓際に立っていた。
振り返った目は冷たい。けれど、その冷たさの奥に――苛立ちがある。
「セレナ」
名を呼ばれるだけで胸がきゅっと縮む。
でも、縮んでも、下がらない。
私は礼をして、顔を上げた。
「召喚に応じ、参りました。――本日は議事録の作成をお願いしております」
王太子の眉が僅かに動く。
「議事録?」
「はい。王城の形式として」
私は淡々と言った。
「後日の誤解を避けるためです。召喚状は正式文書です。ならば、会話も記録されるべきです」
王太子が記録官へ視線を投げる。記録官は無表情のまま頷いた。既に手続きは通っている。
王太子は口元を引き結び、椅子に座った。
「……いい。だが、話は簡単だ。君は教会と争っている。それをやめろ」
来た。
命令形の“簡単だ”。
簡単な話にすれば、詳細を言わずに済む。
私はエリオットの三つの線を思い出し、一つ目を切る。
「確認します。本日の召喚理由は、『教会との争いをやめろ』というご命令ですか。それとも、別の具体的な行為を求めますか」
王太子の目が僅かに細くなる。
「……君は言葉遊びが好きだな」
「いいえ」
私は一度だけ瞬きし、言い切る。
「私は“命令の内容”を確定したいだけです。命令なら、内容が必要です」
記録官のペンが、さらさらと動く音がする。
王太子は息を吐き、机の上の紙束を指で弾いた。
「これに署名しろ。教会への不敬を撤回し、祝福の儀に従うと誓う書面だ」
(誓う)
署名。
やっぱり、ここでも同じ楔。
私は紙束を見ないまま、二つ目を切る。
「確認します。殿下は、それを命令できる権限をお持ちですか」
空気が一瞬止まった。
王太子の目が鋭くなる。
「……王太子だぞ」
「王太子であることは存じています」
私は静かに続ける。
「ですが、王城法務官の立会いの下で確認したい。殿下の命令が“王城の権限”として有効かどうか。――教会の誓いに関する書面への署名命令が、王太子の権限に含まれるのか」
法務官が咳払いをし、言葉を選ぶように口を開いた。
「殿下。宗教誓約への強制署名は、原則として王権の直接命令事項ではありません。特に、王城外の法体系――正教会の教義に属する誓約は……」
王太子の顔が、僅かに歪んだ。
(台本が破れた)
私は畳みかけない。畳みかけると“感情の喧嘩”になる。私は形式で殺す。
三つ目。
「確認します。もし私が署名しない場合、殿下はどのような結果を命じますか。拘束ですか。罰金ですか。婚約解消ですか」
“婚約”の二文字で、王太子の目が揺れた。
ほんの一瞬。
揺れたのは、私の中じゃない。彼の中だ。
「……婚約の話を持ち出すな」
「持ち出したのではありません」
私は淡々と返す。
「命令に従わない場合の結果を確認しただけです。結果が不明な命令は、恣意的に運用されます。――私は、それを拒みます」
記録官のペンが、止まらない。
王太子は口を開き、閉じた。
“結果”を言えない。言えば、拘束や処罰が“王城の形”として露出する。言わなければ、命令は空文になる。
そこで王太子は、別の刃を出した。
「セレナ。君は……いったい何と戦っている」
声が、少しだけ低くなる。
(感情で揺らす気だ)
私は答えを短く固定した。
「私は、私の署名権を守っています」
王太子の眉が寄る。
「署名権?」
エリオットが静かに補足する。
「誓文が通れば、令嬢は公文書を出せなくなる可能性があります。つまり政治的に“沈黙”させられる」
王太子が、初めて紙束を見下ろす。自分の机の上の紙が、急に重くなったように。
「……誰がそんなことを言った」
「王城の形式が、そう言っています」
私は言った。
「受領証も控えも出せない誓いを、署名させる。――それは形式ではなく拘束です」
王太子は椅子にもたれ、しばらく黙った。
沈黙が続くほど、記録は強くなる。
やがて彼は、苦い声で言う。
「君は……昔は、こんな言い方をしなかった」
胸の奥がきゅっと痛む。
昔。
断罪の日。
焼ける匂い。声。
一瞬、頭が白くなりかけた。
(削られる)
私は手袋の内側の爪痕を押した。痛みで戻る。
「昔は、死ななかったからです」
王太子の目が、初めて揺れた。
揺れの中に、理解じゃないものが混じる。怖れか、罪か。
その瞬間。
扉がノックされた。
「殿下。大聖堂より使者が」
王太子の顔が固まる。
使者が差し出したのは、白い封蝋の書状。
王太子が封を切り、目を走らせ――舌打ちした。
「……聖女が言っている。『セレナは誓文を提出した。撤回しないなら、祝福の儀で公にする』と」
来た。提出偽装。
私は息を吸い、淡々と言った。
「殿下。今その言葉を、議事録に残してください」
王太子が顔を上げる。
「……何?」
「『聖女は“提出した”と言った』。それを殿下が今ここで確認した、という事実を残す。――そうすれば三日後、聖女が逃げても、殿下の口が逃がしません」
エリオットが短く言う。
「殿下が“提出済みと聞いた”と認めれば、後で『聞いていない』と言えなくなる。教会の嘘は、殿下の記録で縛れます」
王太子の目が、険しくなる。
――だが、逃げ道はない。
彼はゆっくり口を開いた。
「……聖女エレノアは、『セレナ・アルヴィスは誓文を提出した』と主張している。私はそれを、今ここで確認した」
記録官のペンが、強く走った。
その瞬間、私は確かに感じた。
(縛れた)
王太子の口が、紙に落ちた。
カイルが、私の横でほんの僅かに息を吐く。
「……よし」
声は小さい。でも、勝利の息だった。
王太子は疲れたように額を押さえ、低く言った。
「セレナ。三日後、祝福の儀で決着をつける。――逃げるな」
「逃げません」
私は即答した。
「逃げずに、受領証を出させます」
王太子の目が細くなる。
「……君は、本当に――」
言葉が続かない。
続けられないのは、彼の中で“国”と“教会”がぶつかっているからだ。
私は礼をした。
「本日の議事録の控えをいただきます。封印をお願いいたします」
法務官が頷き、封蝋が押される。控えが二通。ひとつは王城保管、ひとつは私へ。
リュカが最後に、封蝋の上へ術式印を押した。剥がせば割れる。
「改ざんしたら終わりだ」
私は控えを受け取り、胸の奥にしまった。
紙の重みが、私の外側に“私”を残す。
廊下へ出ると、カイルが私の前に立ったまま言う。
「令嬢。よくやった」
褒め言葉が、不器用すぎて笑いそうになる。
でも笑ったら、涙が出そうだった。
「……ありがとう。止めてくれて」
「当然だ」
カイルは短く言い切り、少しだけ声を落とした。
「君が薄くなるなら、俺が“近くで”止める」
胸の奥が熱くなる。
恋なんて余裕がないはずなのに、たった一行が、武器みたいに効く。
私は頷き、歩き出した。
三日後。
大聖堂。
――今度は、王太子の口も、国の記録も、私の味方だ。
次に折るのは、聖女の“奇跡”。




