第15話 対抗の掲示
翌朝の王都は、噂が粉雪みたいに舞っていた。
「伯爵令嬢が聖女様に逆らったって」
「いや、王城の掲示に出たなら国が認めたってことだろ」
「でも教会が“虚偽は魂を穢す”って――」
馬車の窓から公告板が見える。昨日の二行はまだ残っている。端の折れ、封蝋の印、誰かが爪で掻いた跡まで。
……その隣に、白い紙が一枚増えていた。
大聖堂の印。言葉は柔らかいのに、刃がある。
《告知》
祝福の儀は予定通り執り行われる。
聖女エレノアは迷える者にも慈悲を与える。
虚偽の流布は魂を穢す。
名指しはしない。だから逃げられる。
「誰のこととは言っていない」と言いながら、空気だけを私に被せる。
(“嘘つき”の匂いを、街に撒いた)
隣でエリオットが目を細めた。
「いい手です。あなたを殴らない。殴ったように見せる」
リュカが鼻で笑う。
「証拠が出せない側の台詞だな。“穢れ”は便利だ。反論したら、反論した側が悪者になる」
そしてカイルは、何も言わずに周囲を見回している。視線が鋭い。人の流れの“変な揺れ”だけを拾う目だ。
私は息を吸って、吐いた。
「……もう一枚、貼る」
父が低く言う。
「挑発になるぞ」
「挑発じゃないわ」
私は窓越しに公告板を見た。
「受領証を出せるか――それだけを、国の形式で聞く」
文書所の法務官は、昨日と同じ無表情だった。
「また公告か、令嬢」
「公告というより、公開質問です。短く。答えが“はい/いいえ”になる形で」
差し出した紙を、法務官が声に出さず目で追う。
《公開質問》
1:正教会は、セレナ・アルヴィスが誓文を“受け取られた”という受領証を提示できますか。
2:提示できるなら、その受領証を王城文書所へ提出できますか。
3:提示できないなら、“提出済み”の主張を撤回しますか。
法務官の眉がほんの少し動いた。
「……よく出来ている。逃げ道がない」
「逃げ道があると、嘘が住み着きます」
私が言うと、彼は淡々と頷いた。
「控え二通。受領番号を付与。受領証発行。立会い署名」
封蝋が押され、受領証が滑るようにこちらへ渡る。
“紙の上での事実”が、私の外側に固定される感覚。
リュカが控えに魔術封印を重ねた。剥がせば割れるやつだ。
「改ざんしたら痕跡が出る。消える文字とは逆の仕掛けだ」
エリオットが受領証をしまいながら、静かに言う。
「これで、向こうは“口”で勝てなくなる。返事をするなら紙で、しかも王城で」
その瞬間、カイルが私の横に半歩寄った。
「令嬢」
声が低い。
「今日は、俺が近い」
「どうして?」
聞き返した私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
カイルは視線を逸らし、短く言った。
「人の流れが不自然だ。押される。ぶつかられる。――事故に見せるには、ちょうどいい」
事故。
その二文字が背中を冷たく撫でる。
でも同時に、半歩の距離が熱を持つ。
“ここにいる”という事実だけで、心臓が少し落ち着く。
「……分かった」
私は頷いた。
「近くにいて」
カイルは返事をしなかった。
代わりに、私の進む側に自然に立った。盾みたいに。
公告板の前は、昨日より人が増えていた。
見物の目は、腹を満たす匂いがする。噂は飯だ。だから“国の文字”は、飯より強い。
掲示係が紙を貼る。
ざわ、と空気が起きた。
「受領証って何?」
「受け取った証拠だろ?」
「出せないってことは……受け取ってない?」
「じゃあ提出したって、嘘じゃん」
私は説明しない。
説明は、敵の土俵だ。
私はただ“問う”だけ。
答えられない側が、勝手に沈むように。
そのとき、人波が割れた。
白い外套。光の顔。
聖女エレノアが、公告板の前に立つ。
微笑みは変わらない。けれど目が昨日より冷たい。
「セレナ様。あなたは本当に……国の掲示で信仰を測るのですね」
私は公告板を指した。
「測っていません。受け取ったなら証拠をと聞いているだけです」
聖女の睫毛が僅かに揺れる。
「証拠は神の御前で――」
「ここは王城前です」
カイルの声が落ちる。淡々として、刃みたいだった。
「国の掲示に口を出すなら、国の形式に従え」
視線が集まる。民の目。兵の目。役人の目。
“国の空気”が、聖女の足元へじわりと押し寄せる。
聖女は微笑みを保ったまま、私にだけ届く距離で囁いた。
「繰り返す者は、いずれ――自分の名前も忘れます」
視界が一瞬、ぐらりと揺れた。
(来た)
頭の中の引き出しが開き、中身が滑り落ちる感覚。
自分がどこにいるのかさえ薄くなる――
その瞬間、カイルの指が私の背に触れた。ほんの一瞬。
押さない。掴まない。ただ、そこにある。
それだけで焦点が戻る。
(紙じゃない。体の感触でも戻れる)
私は息を整え、言った。
「忘れる前に、終わらせます」
聖女の目が細くなる。
「終わらせる?」
「三日後の祝福の儀で」
私は掲示を指す。
「受領証を出せるなら、その場で出してください。出せないなら――皆が見ます」
聖女は笑っているのに、笑っていない声で答えた。
「……楽しみにしています」
白い波が引いていく。
その背中を見送りながら、エリオットがぽつりと落とした。
「誓文が通ると、令嬢の“署名権”が止まります」
父が息を呑む。
「署名権……?」
「自分の名で公文書を出せなくなる。手続きの主体を奪われる」
リュカが冷たく続けた。
「次は告解の強制出頭だろうな。『出頭しろ』は合法の鎖だ。出なければ異端、出れば監視」
胸の奥が冷える。
(“世界を一色に”の、具体が見えた)
私が守っているのは名誉じゃない。
“手続きできる私”だ。
カイルが短く言った。
「だから次は、令嬢を一人にしない」
その言い方が、命令みたいで、妙に安心した。
伯爵邸に戻ると、執事長が青い顔で走ってきた。
「セレナ様! 王城から……王太子殿下の名で“召喚状”が!」
召喚。
胸の奥が冷たくなる。
(来た。国の形で縛る)
私は受け取らず、先に言った。
「差出人、署名、受領記録」
執事長が読み上げる。王太子の印。日時は明日の午前。
エリオットが息を吐いた。
「国の形で縛るなら、国の形で縛り返せます。記録官同席、議事録、署名付き」
カイルが一歩前に出た。
「明日、俺も同行する」
父が口を挟むより早く、カイルは私を見て言い切る。
「令嬢を“一人”にはしない。……教会が絡むなら尚更だ」
“ひとりで来い”――あの手紙が脳裏をよぎる。
私は小さく頷いた。
「……ありがとう」
カイルは頷くだけだった。
でもその頷きは、硬い盾だった。
私は召喚状を受け取り、封の上に指を置いた。
明日、王太子。
明後日、大聖堂。
相手は階段を二段飛ばしで駆け上がってくる。
なら、私も飛ぶ。
私は短く言った。
「明日、王太子の“口”を――記録で縛る」
そして心の中で付け足す。
(削られても、外に残るように)
(私が私でいるために)




