第13話 筆跡の罠
朝、目を開けた瞬間から、頭の奥が鈍く痛んだ。
眠ったはずなのに、体が重い。昨夜の侵入のせいだけではない。――削られている。自分の輪郭が、薄くなる感覚。
私は寝台の横の机に手を伸ばし、紙切れを一枚引き寄せた。昨夜、最後に書いた短い言葉。
「私は提出していない」
指でなぞる。
(……消えてない)
ほっとしたのは、文字が残っていたからだけじゃない。文字が残っている=私がまだ戦える、という合図だった。
「セレナ様」
マリアが控えめに入ってくる。顔が少し青い。きっと昨夜、眠れていない。
「皆さまが書斎に。騎士団副隊長様も……魔術省のお方も」
「……行くわ」
私は立ち上がり、髪をまとめながら深く息を吸った。
(今日は“筆跡”を守る日)
書斎に入った瞬間、空気が張りつめているのが分かった。
父、執事長、カイル・グラント、エリオット・ヴァイス、そしてリュカ・セルウィン。机の上には、昨夜の侵入で荒れかけたままの書類と、封印(=いじったら割れる印)を掛けた封筒が並んでいる。
「令嬢」
カイルが先に口を開いた。
「今日から伯爵邸内にも巡察を入れる。昨夜の侵入は“狙いが紙”だ。つまり――内部の手引きが疑わしい」
父が低く唸る。
「伯爵家の中に、教会の手が?」
「可能性は高いです」
エリオットが淡々と言った。
「侵入のタイミングが正確すぎる。宣言書を作った“その夜”に来た。情報が漏れている」
私は手帳を開きたい衝動を押し殺した。今は、手帳よりも“場の判断”が重要だ。
「まず確認したいことがあります」
私は机の端にあるインク壺を指した。
「このインク、いつから使っていますか」
執事長が答えかける前に、リュカがすっと手を伸ばした。
「触るな」
冷たい声。指先だけでインク壺の縁に触れ、目を細める。
次の瞬間、彼の指が淡く光った。嫌な光ではない。金属みたいに乾いた光。
「……混ざってる」
「何が」
私の声が少し掠れた。
リュカは短く言う。
「昨日鑑定した“聖性を上塗りする触媒”の痕跡。量は薄いが、確実にある」
背筋が凍った。
(だから文字が消えた?)
リュカは続けた。
「この触媒は、物に“神っぽさ”を貼り付ける。紙にもインクにもできる。……そして長く触れていると、記憶が定着しにくくなる」
「……私が、削られる理由」
口に出した瞬間、喉がひりついた。
カイルの目が鋭くなる。
「インクに混ぜたのは誰だ」
父が机を叩く。
「執事長!」
執事長が青ざめて首を振る。
「私は……最近、教会の管理局から『寄進関係の書面はこれを使うと良い』と“寄付”されたインクを……」
寄付。
その言葉に、私は胃の底が冷たくなる。
(ああ。教会は最初から、紙を狙っていた)
エリオットが淡々と確認する。
「寄付された日と、受領記録は?」
執事長が言い淀む。
「……書面では……」
「口で受け取った」
エリオットはため息を吐いた。
「それが一番危険だと、あなたももう分かっているはずです」
執事長が俯いた。
私は怒りを表に出さないように、深く息を吸った。
怒りは正しい。けれど怒りだけでは勝てない。今必要なのは、切り替えだ。
「今からやることは二つです」
私は指を二本立てた。
「一つ。伯爵家の“記録用のインク”を全部回収し、魔術省の封印インクに交換する」
「二つ。家の中の“筆跡”を確認する。――誰が、どの書面に触れたか」
カイルが頷いた。
「家人を集める。だが、騒ぎにすると逃げる」
「だから」
私が言い切る前に、リュカが冷たく続けた。
「囮(=わざと置く偽物の紙)を作る。触ったら痕跡が残るやつ」
エリオットの口元が僅かに上がる。
「いいですね。数字より確実です」
父が目を丸くする。
「囮……?」
私は頷いた。
「“誓文の写しがここにある”と見せかけた封筒を作る。触った人間に、魔術で印が残るように」
リュカは既に術式印を取り出していた。
「印は簡単だ。手に薄い染みが出る。洗っても落ちない。触った証拠になる」
カイルが短く言う。
「今夜、仕留める」
その日の午後、伯爵邸は静かに“入れ替わった”。
寄付されたインク壺は全て封印され、魔術省が持ち込んだ乾いた黒のインクに交換された。封印は二重。剥がせば割れる。割れたら分かる。
書記は呼ばず、私の筆跡で最低限の記録だけを残す。
そして、囮の封筒。
表にはわざと、それらしい字でこう書いた。
《誓文写し:保管》
中身は空。
代わりに、触ると印が残る薄い術式片が入っている。見た目はただの紙。けれど触った瞬間、指に“残る”。
(嫌なやり方だと思う)
(でも、相手が先にやってきた)
夕食の後、私は部屋に戻った――ふりをして、隣の控室に移った。カイルが廊下の陰に立ち、護衛が二人、回廊の端を塞ぐ。
リュカとエリオットは書斎に“気配だけ”を残すように座り、普通に書面を整理しているふりをした。
時間が、伸びる。
一刻が一刻じゃないみたいに、長い。
そのとき。
廊下の奥で、床板が微かに鳴った。
カイルが指を一本立てる。――“来た”。
暗がりに影が滑る。足音が忍び、扉の鍵に何かを差し込む音がする。
(鍵……持ってる)
内部の手引きだ。確信が、胸を冷たく撫でた。
扉が静かに開き、黒い服の男が一人、滑り込んできた。
フードを深く被っている。
だが、月明かりが頬を照らした一瞬、私は見た。
左頬の小さな傷。
――馬車を止めた、枢機卿府の使者の特徴。
(同じだ)
(こいつだ)
男は迷いなく机に向かい、囮の封筒へ手を伸ばした。
触れた瞬間。
リュカが小さく指を鳴らす。
男の指先が、薄く白く光った。――“印”が出た。
「動くな」
カイルの声が落ちる。影から踏み出し、剣の柄に手を置く。
男は固まる――どころか、笑った。
「……遅い」
声が低い。昨夜の侵入者と同じ種類の声。
「遅い?」
私が問うと、男は笑みを深くする。
「聖女様は、もう“受理”した」
胸の奥が、どくんと跳ねた。
(受理――受領、提出偽装)
ノアの警告が脳内で鳴る。私の思考が一瞬だけ薄くなり、言葉が崩れかける。
私は封筒の表の凸凹を思い出した。
――署名するな。誓文を潰す。
(戻れ)
「……何を受理したの」
私が問うと、男は肩をすくめる。
「あなたの“悔い改め”。あなたは既に、提出した」
「嘘だ」
声が低くなる。
カイルが男の腕を捻り上げ、床に押さえつけた。
「騎士団預かりだ。今ここで終わりにする」
男は痛みに顔を歪めながらも、歯を見せて笑う。
「終わり? 始まりだ。三日後、あなたは皆の前で“反故にした女”になる」
リュカが冷たく言った。
「印は出た。つまり触った。つまり侵入した。……言い逃れはできない」
「言い逃れ?」
男は笑ったまま、囁く。
「証拠は、都合よく消える」
その言葉が、私の背筋を凍らせた。
(消える。文字が薄くなる。手帳の行が消えた。インクに混ぜられた触媒)
私は一歩前へ出て、男の左頬の傷を見下ろした。
「誰に命じられた」
男は答えない。けれど、その沈黙が答えだった。
教会の誰か。聖女の近く。統合派。
カイルが男を引きずり起こし、扉へ向かわせる。
「王城へ。今夜中に吐かせる」
男は最後に、私へ向けて囁いた。
「……あなたは、繰り返すほど薄くなる。紙も、あなたも」
私は息を吸い、吐いた。
「薄くなる前に――折る」
自分でも驚くほど、声がまっすぐ出た。
男が連れ出され、扉が閉まる。
静寂が落ちた書斎で、私は机の上の囮の封筒を見た。
印は出た。捕まえた。
――なのに。
男は「もう受理した」と言った。
つまり、三日後の舞台には、“提出済み”という嘘が運び込まれる。
私は胸元の封筒を押さえ、心の中で繰り返した。
(宣言書は、分散した)
(受領偽装を潰すための楔は、もう打ってある)
だから、次の一手は――
私はリュカを見る。
「魔術省の封印で、“受理”の偽造は見抜ける?」
リュカは一拍置いて言った。
「見抜ける。だが――相手は“見抜かれても押し切る”形を作る」
エリオットが静かに続けた。
「つまり、次は“世論”です。『セレナが提出した』と信じる人間を増やす。……そして、祝福の儀で叩き落とす」
私は頷いた。
胸の奥の恐怖が、少しずつ“形”になる。
(次は言葉じゃない)
(人の目と、空気と、舞台)
私は短く言った。
「……大聖堂の前に、証拠を“見せる場所”を作る」
それが何かは、まだ言葉にならない。けれど、方向は定まった。
窓の外で、夜の鐘が鳴った。
三日後まで、あと二日。
そして私は、確信する。
教会はもう、誓文だけじゃない。
私の“信用”を焼きに来る。




