第12話 消える文字、増える写し
伯爵家の門をくぐった瞬間、私はようやく息を吐いた。
王城の石畳で凍っていた胸の奥が、少しだけ緩む。――緩んだぶん、怖さがはっきり形になって戻ってきた。
(今夜中に作る)
“提出していない宣言書”。
教会が「提出した」と言い張る前に、こちらが「提出していない」を“形”にする。言葉じゃない。紙と封印と署名で残す。
「執事長」
「はい、セレナ様」
「書斎を使う。灯りを増やして。書記は……呼ばないで」
執事長が一瞬だけ眉を動かした。
「……かしこまりました」
廊下を歩きながら、私は胸元の封筒を指で押さえた。誓文の写し。触れているだけで気持ちが冷える。だから、余計に急ぐ。
書斎に入ると、父が待っていた。机の上には、白紙の紙束と封蝋、そして受領帳が並べられている。
「セレナ」
父の声は低い。
「王城での件は聞いた。……お前は、よく踏ん張った」
私は笑おうとして、やめた。
笑うと、なぜ踏ん張ったのかまで薄くなりそうだった。
「父上。今夜、宣言書を作ります」
「“提出していない”の宣言か」
「ええ。教会が“提出したことにする”なら、先に封じます」
父は頷き、ペンを私に差し出した。
「お前の手で書け。筆跡が一番の証拠になる」
その言葉が胸に刺さる。
ノアが言っていた。――筆跡を確認しろ、と。
私は机に向かい、深く息を吸った。
紙に書く言葉は短くする。読みやすく、言い逃れできない形に。
私は、書き始めた。
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《宣言書》
本書は、アルヴィス伯爵令嬢セレナ・アルヴィスが、正教会より求められる「悔い改めの誓文」について、本日時点で提出していないことを宣言するものである。
また、今後提出を求められた場合も、王城の文書手続き(受領証・控え作成・立会い署名)および魔術省の封印確認が整わない限り、提出しない。
本書は、改ざん・捏造防止のため、控えを複数作成し、第三者に保管を委ねる。
日付、署名。
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……最後の署名のところで、ペン先が止まった。
(署名――)
頭の中が、ふっと白くなる。
(署名するな、って……何に?)
胸の奥が冷たくなる。理由が霧に沈む。今、私が署名しようとしているのは“宣言書”だ。署名が必要なはずなのに、体が拒む。
私は震えそうな手で封筒を押さえた。
表の走り書きが指に当たる。
――署名するな。
(違う)
(これは誓文じゃない。私を縛る署名じゃない。私を守る署名だ)
私は自分に言い聞かせ、ゆっくり署名した。
セレナ・アルヴィス。
書いた瞬間、呼吸が戻る。
「……よし」
父が短く息を吐いた。
「今の一枚が“原本”だな」
「はい。控えを二枚作ります。――同じ筆跡で」
そこへ、執事長が扉をノックした。
「セレナ様。財務大臣府より、エリオット・ヴァイス様が。魔術省より、リュカ・セルウィン様もご同行です」
早い。
(動ける男たちは、動きが速い)
私は頷いた。
「通して」
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エリオットは書斎に入るなり、机の上の宣言書を一瞥して、すぐに状況を理解した顔になった。
「“提出していない”を先に固定する。いい判断です」
リュカは無言で近づき、紙の繊維とインクの匂いを嗅ぐみたいに目を細めた。
「……改ざんされる前提で動いてるのが気に入らないが、正しい」
褒めているのか、呆れているのか分からない言い方。
でも、今はその“正しさ”が必要だ。
私は宣言書を指で押さえたまま言った。
「控えを二枚。合計三通。騎士団、魔術省、財務へ預けたい」
エリオットが頷く。
「財務は“保管庫”がある。金庫と同じ扱いで保管できます。――ただし、その前に」
彼は机の端に小さな帳面を置いた。
「受領帳を作りましょう。誰に渡し、誰が受け取ったか。日付と署名。受け取った証明(=受領証)が、こちらにも必要です」
「そうね」
私は頷き、胸の奥で熱が灯るのを感じた。
(私の言葉が、仕組みに変わっていく)
リュカが言った。
「魔術省は封印を掛ける。紙を“改ざんしたら痕跡が出る”ようにする」
「できますか」
「できる」
リュカは短く答え、持ってきた小さな金属板――術式印を机に置いた。
「封蝋だけだと、綺麗に剥がして付け直せる。魔術封印は、剥がすと“割れる”。割れれば分かる」
私は頷いた。
「お願いします」
エリオットが、ふと私の胸元を見た。
「……その封筒は?」
私は一瞬迷った。誓文の写し。
でも迷っている時間が危険だ。迷いは削られる。
「誓文の写しです。ノアが渡してくれた。――読んではいけない、声に出してはいけない」
リュカの目が鋭くなる。
「術式だな」
「ええ。だから封印して預けたい」
「なら、うちで預かる。封印も二重にする」
リュカの答えに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
私は控えの作成に戻った。
同じ文言を、同じ筆跡で。手が痛くなる。けれど、痛みは現実だ。削られる恐怖より、今は痛みの方が信じられる。
三通、完成。
エリオットが受領帳を広げる。
「控えA:騎士団預かり。控えB:魔術省預かり。控えC:財務大臣府預かり」
私は一つずつ封筒に入れ、封蝋を押す。父が立会い署名をする。執事長が時刻を書く。
リュカが最後に、封蝋の上へ術式印を押した。
……押した瞬間、空気が少しだけ鳴った。静電気みたいに。封印が“生きた”気配。
「これで、剥がせば割れる」
「ありがとう」
私は息を吐いた。
そして、ここで終わらせたかった。
――終わらなかった。
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「セレナ様!」
廊下の護衛が駆け込んできた。息が荒い。
「裏手の回廊で、不審者を発見しました!」
背筋が凍る。
(早い。狙いは宣言書か、誓文の写しか)
カイルがいない。今夜は騎士団の巡察が外にいるはずだが、家の中に入っているとは限らない。
私は即座に言った。
「書斎の扉を閉めて。封筒は――」
リュカが短く言う。
「俺が持つ」
彼は誓文の写しの封筒を掴み、懐にしまった。動きが速い。
エリオットも、宣言書の控え三通を迷いなくまとめた。
「これも持ちます。奪われたら意味がない」
父が机を叩く。
「護衛を増やせ!」
執事長が走る足音。扉が閉まる。
そして、外。
廊下の奥から、かすかな金属音がした。
――鍵の音。
(入ってくる)
私は手帳に手を伸ばしかけて、やめた。
今開けば、字が薄くなる。今は、言葉より行動だ。
「私が出る」
そう言いかけた私の腕を、父が掴んだ。
「セレナ、前に出るな」
「でも――」
「命が先だ」
父の言葉が重い。私は頷き、代わりに命じた。
「護衛、回廊の端を塞いで。逃げ道を作らせない」
エリオットが低い声で言った。
「相手が狙っているのは“紙”です。逃げるなら、紙を探すために書斎へ向かう。……ここに来ます」
来る。
なら、来させて、取る。
リュカが指を一本立て、術式を短く唱えた。
「……ここに“触った者”の痕跡が残る結界を張る」
「そんなことが?」
「できる。紙を触った指紋みたいなものが、魔術では残せる」
私は息を飲んだ。
(魔術は、武器だ。教会だけのものじゃない)
廊下の足音が近づく。
扉の向こうで、誰かが囁き合う声。
そして――扉が、静かに開いた。
入ってきたのは黒衣の男が二人。司祭ではない。顔を隠している。夜の侵入者。
彼らは部屋の中を一瞥し、机の上を探そうと踏み出した。
その瞬間。
護衛が左右から飛び出し、男の腕を捻り上げた。
「ぐっ……!」
男が呻き、もう一人が逃げようと振り返る。だが回廊の端には護衛がいる。逃げ道はない。
エリオットが、淡々と言った。
「――やはり、紙狙いですね」
男が唾を吐くように叫ぶ。
「離せ! これは……浄めだ!」
浄め。
その言葉で、私は完全に理解した。
彼らは“神の名”を借りて盗む。盗んだあとに「令嬢が出した」と言い張る。いつもそれだ。
私は一歩前へ出た。
「誰に雇われた」
男は答えない。答えられないのか、答えないのか。
リュカが男の手を掴み、冷たく言った。
「今夜ここに来た時点で、雇い主は“教会の事情を知る者”だ。……でなければ、これほど的確に“紙だけ”を狙えない」
男が目を逸らす。
その瞬間、私は確信した。
(内部の人間が、私の動きを読んでいる)
ノアの警告。筆跡の偽装。文字の改ざん。
私は背筋を正し、執事長へ命じた。
「騎士団へ。今すぐ」
「はっ!」
執事長が走る。
――少しして、外から靴音が響いた。
カイルが到着したのだ。
「令嬢」
短く呼び、状況を一目で把握する。
カイルは男たちを見下ろし、言った。
「またか」
“また”。彼も、もう分かっている。
「拘束。王城へ正式に。今夜の侵入は治安案件だ」
護衛が頷き、男たちを引きずっていく。
扉が閉まり、ようやく静寂が戻った。
私は立っているのに、膝が少し笑っていた。
怖かった。怖かったのに、もっと怖いのは――
「……私、今夜、何を作ったんだっけ」
声が漏れた。
自分でも驚くほど小さい声。
エリオットが、こちらを見て、静かに言う。
「宣言書です。提出していないと証明する紙」
リュカが付け足す。
「封印して、分散する。奪われても終わらない形にする」
父が私の肩に手を置いた。
「セレナ、戻ってこい」
戻ってこい。
私は深呼吸し、胸元の封筒の凸凹に触れた。
――署名するな。誓文を潰す。
(そうだ)
(私は、燃えないために、紙を増やす)
私は頷き、言った。
「ごめんなさい。……大丈夫。続ける」
カイルが低く言う。
「令嬢。次からは、家の中にも巡察を入れる。……そして、書記の筆跡確認だ」
ノアの言葉が蘇る。
私は頷いた。
「明日、全記録を私の筆跡で作り直す。書記は立会いだけにする」
エリオットが小さく息を吐く。
「その代わり、あなたは寝てください。睡眠不足は判断を鈍らせる。……敵はそこも突いてくる」
正しい。あまりに正しい。
だから腹が立つくらい、ありがたい。
私は封印した三通の宣言書を見つめた。
一つは騎士団へ。
一つは魔術省へ。
一つは財務へ。
そして誓文の写しは、魔術省預かり。
(増えた)
消されるなら、増やす。
奪われるなら、分ける。
私は机の端にペンを置き、最後に一言だけ、紙の隅へ書いた。
「私は提出していない」
短い言葉。
でも、今夜の私を支えるには、それで十分だった。
窓の外で、夜の鐘が鳴る。
祈りの音じゃない。
三日後へ向けて――“逃がさない”と告げる音だった。




