第11話 楔は別にある
「セレナ様。誓文の“本当の楔”が、別にあります」
ノア・ヴァレンティスの声は、喧騒の残る王城前で不思議なくらい静かだった。書記のペンの音、衛兵の号令、遠くの馬車の軋み――それらの隙間に、彼の言葉だけがまっすぐ落ちてくる。
私は振り返り、彼の顔を見た。
黒衣。整った所作。けれど大聖堂の司祭のような“優しさの仮面”はない。あるのは、焦りだ。
「別の楔……?」
ノアは頷いた。
「誓文は“署名で縛る契約”だと、あなたは理解している。――だが、署名そのものより先に、縛りが始まる瞬間がある」
「読み上げ?」
「それも一つ」
ノアは淡々と肯定し、続けた。
「だが今日、あなたは読み上げを止めた。それでも聖女は撤退しただけで、怒鳴り散らさなかった。……なぜだと思いますか」
私は唇を噛んだ。
(怒鳴らないのが、いちばん怖い)
「代替案があるから」
私が答えると、ノアは短く頷いた。
「そう。誓文には、“楔”が複数ある。読み上げが楔の一つなら、もう一つは――」
彼は周囲を一度だけ見回した。盗み聞きがいないか確認する仕草。そうして、声をさらに落とす。
「受領(=受け取った証明)が出た瞬間です」
「……受領?」
「王城の受領証ではありません。正教会の受領です」
ノアの目が冷たく光る。
「彼らは、あなたに誓文を提出させるのではなく――“提出したことにする”。受領証を捏造するか、あるいは、あなたの指先に一度だけ誓文を触れさせる。触れた瞬間に『提出が完了した』と主張できる」
胸の奥がぞわりとした。
(触れたことにする――いつもの手だ)
「でも、今日は文書所が見ていました。記録官も」
「王城の記録官が見たのは、“提出されなかった”という事実だけ」
ノアは切り捨てた。
「教会が使うのは、別の舞台です。三日後の祝福の儀――そこでは『セレナは誓文を提出したのに反故にした』という形にする。そうすればあなたは“嘘つき”で、“神を欺いた”になる」
私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
誓文に署名していない。読み上げてもいない。それでも、「提出したことにされる」――その瞬間に、私は異端の土台にされる。
「どう防ぐの?」
問いが、思ったより強い声になった。
ノアはためらいなく答える。
「あなたの側の受領証を先に作る」
「……は?」
「“受け取っていない”受領証です」
ノアが言う言葉は、意味だけ聞けば矛盾している。けれど私はすぐに理解した。正教会が“提出したことにする”なら、こちらも“受け取っていないことを証明する”必要がある。
私は息を吸い、頭を回す。
「……受領拒否の記録」
「そう」
ノアは机上の空論ではなく、具体を提示する。
「三日後の儀式の前に、あなたは書面で宣言する。“私は誓文を提出していない。提出を求められても、王城の形式を満たさない限り提出しない”と。署名し、控えを作り、封印(=勝手に開けられない印)をして、第三者に預ける」
第三者。
私はすぐに、頭の中で名前を並べる。
騎士団。財務。魔術。――そして、教会内部。
「預け先は、騎士団と魔術省。それから……財務大臣府にも」
ノアが頷く。
「三方向に分散させるのがいい。教会は一つは潰せても、三つは潰しにくい」
私は封筒を胸に押さえた。
(手帳が消されるなら、記録は分散させるしかない)
ノアの視線が、私の胸元にある封筒に落ちる。
「それも危険なものですね。誓文の写し」
「読まない。声に出さない。開けない」
「正解」
ノアは小さく息を吐いた。
「だが、彼らはあなたからそれを奪う。奪って“あなたが読んだ”ことにする可能性もある。だから、封筒も封印し直し、預けたほうがいい」
「……封印って、魔術省の?」
「できれば」
ノアの声は淡々としている。感情で煽らない。だからこそ信じられる。
私は頷いた。
「分かった。今夜中に、受領拒否の宣言書を作る」
その瞬間、頭の奥で、何かがひゅっと抜けた。
(……今夜? 今日って、何日?)
一瞬だけ、自分がどこにいるのか曖昧になる。王城。夕刻。……そう、さっきまで分かっていたのに、輪郭が溶ける。
私は呼吸を止め、胸元の封筒を指で押した。
――署名するな。誓文を潰す。
言葉が戻ってくる。
(危ない。意識の“穴”が増えてる)
ノアが私の表情の変化に気づいたのか、声を少し柔らげた。
「……セレナ様。あなたは、何かに削られていますね」
私は答えなかった。答えたら、形にした瞬間に負ける気がした。
代わりに、問う。
「ノア様は、なぜここまで教えてくれるの」
ノアは一拍置いた。
「父は秩序を守りたい。私は……信仰を守りたい」
そして、視線を逸らさず言う。
「信仰を守るには、信仰を利用する者を止めなければならない。あなたが燃えれば、教会は“正しさ”を得てしまう。……それは、正しくない」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
(この人は、教会の中にいながら、私を“道具”として見ていない)
そこへ、足音が近づく。
カイルが戻ってきたのだ。騎士団の外套が風を切り、灰色の目が状況を一瞬で把握する。
「ノア・ヴァレンティス。ここで何を」
声は警戒。教会の人間に対する、騎士として当然の距離。
ノアは礼をした。
「令嬢の安全のために、助言を。……誓文の楔は署名だけではない。提出したことにされる可能性がある」
カイルの眉が動く。
「……提出偽装」
ノアが頷き、私が続けた。
「だから、提出していない宣言書を先に作る。控えを分散して預ける」
カイルは短く息を吐き、頷いた。
「騎士団で預かる。封印もする。……令嬢、あなたの手帳は?」
私は喉の奥が痛くなるのを感じた。
「……消される。薄くなる。奪われそうにもなった」
カイルの目が鋭くなる。
「なら、手帳も“証拠物”として扱うべきだ。あなたが持ち歩くと狙われる」
「でも、私の命綱です」
言った瞬間、胸がきゅっと縮んだ。失えば、私は思い出せなくなる。目的も、敵も、味方も。
ノアが静かに言う。
「だからこそ、複製です」
「複製……?」
「書いたものを、写しにして預ける。あなたの手帳が消されるなら、あなたの手元の文字だけを信じない」
私は息を吸う。
(そうだ。消されるなら、増やす)
財務大臣の息子エリオットの顔が浮かぶ。彼なら、複製と保管の仕組みを作れる。
魔術省のリュカなら、封印で改ざんを検知できる。
カイルなら、物理的に守れる。
ノアなら、教会内部の動きを読める。
四つの権限が、ここに揃い始めている。
私は頷き、決めた。
「今夜、宣言書を三通。騎士団、魔術省、財務大臣府へ」
カイルが短く言う。
「伯爵家に戻るまで、私が護衛する」
ノアも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「私も枢機卿府に戻り、父の耳に入る前に、統合派の動きを探ります」
私は二人に礼をした。
「……ありがとう」
そして歩き出す。
王城の門を抜けると、夕風が冷たい。大聖堂の尖塔が、遠くに黒く刺さって見える。
三日後。
祝福の儀。
誓文。
提出偽装。
そして――削られていく私。
私は胸元の封筒に触れ、心の中で言った。
(戻れるから大丈夫、なんてもう思わない)
(戻れば戻るほど、私は薄くなる)
だから。
「この一周で決める」
小さく呟く。
声は風に消えそうだった。けれど確かに、私自身が言った。
紙の中じゃない、私の言葉として。




