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異端の奇跡でやり直し。~正教会が世界を染める前に、私が潰します~  作者: 綾瀬蒼


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第10話 王城文書所前


夕刻の王城は、昼とは別の顔をしていた。


西日が石壁を赤く染め、衛兵の鎧が鈍く光る。文書所の前には列ができていたが、私たちが近づくと人々は自然に道を空けた。――騎士団の外套があるだけで、空気は変わる。


「ここでいいな、令嬢」


隣を歩くカイル・グラントが低く言う。


「ええ。ここなら“記録”が残る」


私は胸の内側で封筒を押さえた。表に刻んだ私の走り書きが、指に当たる。


――署名するな。


手帳を開くのは、怖かった。


書いたはずの文字が薄くなる。消える。だったら今は、紙より身体の感触を信じる。


文書所の入口で、王城の法務官が待っていた。整った礼服、無表情の顔。彼の後ろには記録官が二名、机とインク壺を用意している。


「アルヴィス伯爵令嬢セレナ。通達に基づく“誓文提出”の件だな」


「はい。提出します。ただし、受領証の発行と控えの保管、立会いの署名が条件です」


法務官は淡々と頷いた。


「当然だ。王城の文書所は“受け取った事実”を残す場所だ。受領証が出ないなら、受理はできん」


その言葉だけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。


(味方は増えている。盤面は作れている)


――そのはずなのに。


背後の空気が、すっと冷えた。


白い外套が見える。


聖女エレノア。


彼女は大聖堂の香りをまとったまま、王城の前に立っていた。祈りのような微笑みを浮かべ、私を見つけると両手を胸の前で重ねる。


「セレナ様。来てくださって嬉しいです。これで、あなたは救われます」


その背後には白衣の司祭たち。さらに、赤い法衣の影――枢機卿派の者が二名。人の数で圧を作る。いつものやり方。


そして、最後に。


石畳を踏む音が、もう一つ近づいてきた。


王太子レオンハルト殿下。


その姿を見た瞬間、胃の底が冷たくなる。断罪の日、私を見なかった顔。その顔が、今は“王城の正しさ”の隣に立っている。


「セレナ」


殿下は私の名を呼んだ。


それだけで、喉がきゅっと締まる。


(……落ち着け。今日は私が裁かれる日じゃない)


私は頭を下げ、顔を上げ、声を整えた。


「本日は、提出のため参りました」


聖女が一歩前へ出る。白い封筒ではなく、分厚い羊皮紙の束を差し出した。封は白。けれど、その白さがやけに“重い”。


「悔い改めの誓文です。形式だけです。署名して、提出しましょう。あなたの心が正教会と共にあると、皆に示せます」


形式だけ。


耳の奥がちり、と鳴る。


私は羊皮紙を受け取らない。


「全文を提示してください。王城の保管所に登録し、控えを作成します」


司祭の一人が反射で言った。


「外には出せません!」


私は即座に返す。


「出せないなら、提出もできません」


場が、一瞬止まる。


法務官が眉を動かした。


「提出とは、文書を受理し、保管し、受領証を出すことだ。控えもなしに“署名だけ”を求めるのは、王城の手続きに反する」


聖女は微笑みを崩さない。


「法務官様。これは信仰の誓い。王城の形式とは違います」


「違うなら、王城で提出を求めるべきではない」


法務官の声は硬い。


「大聖堂で行うべきだ。だが通達は“提出命令”として出ている。命令なら、王城の形式に従え」


司祭たちがざわつく。


聖女は小さく息を吐いたように見えたが、すぐに優しい声を重ねた。


「では、こうしましょう。全文は読まなくていい。私がここで読み上げ、セレナ様は最後に署名するだけで――」


だめだ。


読んではいけない。


声に出してはいけない。


ノアの言葉が、胸の底で鳴った。


私は一歩、前へ出る。


「読み上げは不要です」


聖女が瞬きする。


「……なぜ?」


私は迷わず言った。


「誓文が“形式”なら、読み上げは不要です。形式なら、署名欄と提出手続きだけで足ります。読み上げが必要なら、それは形式ではない」


――沈黙。


たった一拍の沈黙が、相手の思考を露わにした。


(やっぱり、読み上げさせる気だった)


カイルが私の半歩前へ出る。


「王城の敷地で、強制的な読み上げと署名を迫るのは、脅迫に準ずる。騎士団は見過ごさない」


司祭の一人が声を荒げる。


「脅迫ではない! 救いだ!」


「救いの名で人を縛るなら、それは脅迫だ」


カイルの声は淡々としていて、だからこそ強い。


聖女は微笑みのまま、私を見た。――“試す目”。


「セレナ様。あなたは……ずいぶん変わりましたね」


その一言が、針のように刺さる。


変わったのは、私が焼かれたからだ。


私は笑顔を作らない。作れなかった。


「変わらなければ、死にますから」


場の空気が揺れる。


王太子殿下が、初めて言葉を挟んだ。


「セレナ。ここで争う必要はない。署名して終わらせればいい」


その声に、胸の奥がきゅっと痛む。


(……この人は、また私を切り捨てる)


私は一瞬、言葉が出なくなる。


“署名するな”という感触は確かにあるのに、なぜ署名してはいけないのか、理由の輪郭が霧に溶けかけた。


(……だめ。削られてる)


私は封筒を指で押した。表の走り書きに触れる。


――署名するな。


呼吸が戻る。


「殿下。提出命令に従うつもりです。ですが、“正当な形で”です」


私は法務官へ向き直った。


「王城の形式に従うなら、誓文は文書所に登録し、控えを作成し、受領証を発行する。できますね?」


法務官は頷く。


「できる。誓文の全文を提出せよ。提出されれば、こちらが控えを作り、受領証を出す」


司祭たちが硬直する。


出せない。出したくない。出したら矛盾が増える。


聖女が、柔らかな声で言った。


「……全文は、神聖なもの。写しを取られるのは――」


「なら、提出命令を撤回してください」


私は切った。


「撤回の書面を出すなら、本日は解散します」


聖女の微笑みが、ほんの僅かに薄くなる。


その瞬間だった。


文書所の脇に控えていた一人の青年が、静かに前へ出た。


銀髪、薄い青の瞳。魔術大臣の息子――リュカ・セルウィン。


彼は法務官に一礼してから、聖女へ向けて言った。


「儀式文書には、術式が仕込まれている可能性があります。王城の敷地で読み上げや署名を要求するなら、魔術省の封印と鑑定を通すべきです」


司祭たちが、目に見えて動揺する。


聖女の視線がリュカへ向く。


「魔術省が、信仰に口を挟むのですか」


「信仰ではなく、術式だ」


リュカは淡々と言った。


「術式は危険だ。危険なら、管理が必要だ。……それだけです」


法務官が即座に頷く。


「魔術省の鑑定は合理的だ。提出される文書が“形式だけ”なら、鑑定を恐れる理由もない」


聖女が一瞬だけ黙る。


その沈黙が、答えだった。


私は、ゆっくり言葉を置いた。


「誓文は形式ではない。だから出せない。だから読み上げたい。だから署名させたい。――そうですね?」


司祭の一人が唇を噛む。


王太子殿下の眉が、僅かに寄る。


聖女は微笑みを戻し、最後の逃げ道を選んだ。


「……分かりました。では本日は、提出を延期しましょう。あなたのために」


延期。慈悲の形をした撤退。


けれど“撤回の書面”がなければ、命令は生きたままだ。いつでも「提出しなかった」と言える。


私は首を振る。


「延期なら延期の書面を。撤回なら撤回の書面を。どちらも出せないなら――命令は無効です。王城の形式に従えない命令は、命令たり得ません」


法務官が冷たく告げる。


「その通り。大聖堂は王城に提出を求めた。提出できないなら、命令書の不備として記録する。――ここに」


記録官のペンが走る音が、やけに大きく響いた。


聖女の目が、初めて“優しさ”ではない色を帯びた。


「セレナ様。あなたは、繰り返す者ですね」


声は小さい。けれど、確かに私の耳に届くように言った。


胸の奥が、すっと冷える。


次の瞬間、頭の中が白くなる。


(……私は、今、どこにいる?)


王城。文書所。夕刻。


分かっているのに、言葉が一瞬でほどける。自分の名前すら、遠い。


私は歯を食いしばり、封筒を指で叩くように押した。


――署名するな。


戻れ。戻れ。


呼吸が戻り、視界が焦点を結ぶ。


私は聖女を見返した。


「繰り返してでも、私は燃えません」


言った瞬間、喉の奥が痛い。


聖女は微笑んだまま、ゆっくり一礼した。


「では。三日後の祝福の儀で、お待ちしています」


その言葉を残して、白い行列は去っていった。


王太子殿下だけが、その場に残り、私を見た。


冷たい目。


「セレナ。君は、いつからそんなに……」


言葉が途中で切れる。


私の胸が、きゅっと縮む。


でも、逃げない。


私は頭を下げ、顔を上げた。


「いつからでも構いません。私は、今ここで生きています」


殿下の唇が、僅かに歪む。怒りか、苛立ちか、それとも――。


「……次は、逃げられないぞ」


そう言い捨てて、彼も踵を返した。


夕日が、石畳に長い影を落とす。


法務官が私に向き直る。


「提出命令は“形式不備”として記録した。大聖堂が再提出するなら、今度は正当な書式で来るだろう。……令嬢、敵は手強いぞ」


「分かっています」


私は頷き、手帳に手を伸ばしかけて――やめた。


今、開けば、また文字が薄くなる気がした。


代わりに私は、封筒の裏に爪で小さく刻む。


『第10:王城で提出命令を無効化。読み上げ阻止。署名なし。聖女、記憶に触れる』


削るような文字。


残ればいい。残ってくれ。


私は顔を上げ、遠くの大聖堂の尖塔を見た。


三日後。


祝福の儀。


――次は、もっと強い手で来る。


そして私は、もっと削られる。


それでも。


「……今度は、誓文じゃない」


私は小さく呟いた。


「聖女の“奇跡”そのものを、折る」


背後で、誰かが近づく足音がした。聞き慣れた、静かな歩幅。


振り向く前に、声が落ちる。


「セレナ様。誓文の“本当の楔”が、別にあります」


ノア・ヴァレンティスの声だった。


私は、ゆっくり振り返った。

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