第1話 断罪の鐘
大聖堂の天井は、空より高いと思った。
色硝子から落ちる光が、床の白い石に虹を散らす。香が焚かれ、聖歌隊の声が、まるで私の心臓を外側から押さえつけるように響いていた。
――今日は、私が裁かれる日。
私、セレナ・アルヴィス。伯爵家の娘。王太子殿下の婚約者……だった。
「異端者セレナ・アルヴィス。貴女は神意を欺き、聖なる秩序を乱した」
聖壇の中央に立つ白衣の少女が、澄んだ声で言った。
聖女エレノア。
細い肩、淡い金髪、慈愛の微笑み。――その微笑みが、私には刃に見えた。
彼女の背後には、正教会の高位聖職者たち。紅い法衣の枢機卿、重い金の首飾り。彼らが一斉に頷くだけで、「真実」が決まってしまう。
そして、その右手側。
私の元婚約者――王太子レオンハルト殿下が、冷たい顔で立っていた。
「……セレナ。君は、ここまでだ」
たったそれだけ。愛情の欠片もない声。
胸の奥で、何かがぽきりと折れた音がした気がした。
「待ってください……! 殿下、私が何をしたというのですか。証拠は――」
言いかけた言葉は、聖歌に紛れて消えた。周囲の貴族たちがざわめく。私を見ている目は、好奇心と軽蔑と、安堵。
――自分が次の生贄じゃなくてよかった、という安堵。
「証拠なら、ここに」
聖女エレノアは、白い指先で一枚の布を掲げた。
古い刺繍の施された布。聖遺布――教会が国家と同じくらい大切にしている宝。
その端に、黒い染みがあった。
「聖遺布に穢れを付けたのは貴女。さらに、禁じられた術式で“奇跡”を偽り、信徒を惑わせた。貴女は、神の名を利用し、王政を揺るがそうとしたのです」
息を呑む音が大聖堂に広がる。
私は思わず布を見つめた。
――知らない。私がそんなものに触れた覚えはない。
けれど、ここで「覚えがない」と叫んだところで、意味はない。聖女が「見た」と言えば、それが“見た”になる世界だ。
「セレナ・アルヴィス」
枢機卿の低い声が、石の壁にぶつかって反響した。
「王政と正教会は、ひとつになる。王は神の代理。教会は民の導き手。分かたれていた時代は終わり、世界は正しい信仰のもと、ひとつの色に染まる」
――一色に。
その言葉が、背筋を凍らせた。
「その統合の第一歩として、異端を祓う必要がある。異端は、貴女だ」
私はやっと理解した。
これは私個人の罪ではない。政治でもない。
“統合”のための儀式だ。
教会が世界を「ルシア正教会」一色に染めるための、最初の火。
そして私は――その火種。
「……違う」
声が震えたのは、恐怖だけじゃない。悔しさだ。
「私が死ねば、皆が安心するのですか。そんなものが正義ですか」
聖女エレノアは、悲しそうに眉を寄せた。
「セレナ様。私は、あなたを救いたいのです」
――救いたい、だって?
「けれど、あなたの心は神から離れてしまった。今ここで悔い改めれば、苦しまずに済むかもしれません」
悔い改める。異端を認めろ。自分が悪だったと頭を下げろ。
そうすれば、教会は慈悲深く“浄化”してくれる。
その優しさの仮面が、気持ち悪かった。
「殿下……!」
私は最後の望みを、王太子に投げた。
昔、彼は私の言葉を笑って聞いてくれた。庭園で、季節の花を一緒に見た。――あの時間が嘘だったなんて、認めたくない。
レオンハルト殿下は、私を見ない。
ただ、枢機卿の言葉に頷いた。
「婚約は解消する。セレナ・アルヴィスは王家の縁から外す。教会の裁きに委ねる」
婚約解消。
それは終わりの宣言だった。
私の家は、王家と繋がることで守られてきた。縁が切れれば、父も母も、弟も――
「伯爵家はすでに調査対象だ。異端の温床は根こそぎにする」
枢機卿が追い打ちをかける。
胸が締め付けられ、息が吸えない。
――全部、用意されていた。
私がここで叫ぶことも、泣くことも、計算済み。
「異端者セレナ・アルヴィス。浄化の火により、魂を正しき道へ戻す」
鐘が鳴った。
断罪の鐘。
その音は、世界の終わりみたいに冷たかった。
兵が、私の腕を掴む。
手袋越しでも分かる。容赦のない力。
「やめて……!」
足が勝手に後ずさった。けれど背後は、石の柱と人の壁。逃げ道はない。
列が割れ、通路ができる。まるで私が最初から“そこを通るように”作られた道。
私は歩かされた。
視界の端で、何人かの若い男が目を逸らすのが見えた。騎士の制服、財務官の礼服、魔術省の徽章、教会の黒衣。――彼らは、まだ私を知らない顔だ。
(助けて)
喉の奥で言葉が潰れた。
助けを求める相手なんていない。ここは、正教会の庭だ。王城よりも強い庭。
地下への階段は冷え切っていて、足元の石が濡れていた。火の匂いが近づく。熱の気配。祈りの声。
浄化の火。
私は、ただの伯爵令嬢だ。剣も魔術もない。声を上げても、届かない。
――だったら。
心の底で、何かが蠢いた。
私は、祈った。
正教会の神にではない。あの白い聖壇にいる誰かにでもない。
もっと別のものに。
時間に。世界に。私を見ていない何かに。
(お願い。やり直させて)
(このまま終わりたくない)
(世界を、一色になんか、させない)
足元が揺らいだ。
炎の熱が一瞬、遠のく。
耳の奥で、鐘の音とは違う響きがした。布を裂くような、糸が切れるような音。
そして――
「織り直せ」
誰かの声がした。
男でも女でもない、年齢も分からない声。祈りの返事みたいに、淡々としている。
視界が白く染まり、私は膝から崩れ落ちた。
痛みは来なかった。
代わりに、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚。
――何かが、削り取られるような。
次の瞬間。
私は、自分のベッドの上にいた。
薄いカーテンが揺れ、朝の光が頬を照らす。鳥の声。いつもの部屋。いつもの香水。いつもの、まだ壊れていない日常。
息が喉に引っかかり、咳き込む。
両手を見下ろす。火傷はない。鎖もない。
私は、飛び起きて鏡を見た。
そこに映るのは、処刑台に立つ異端者ではなく――生きている私。
胸が震える。
涙が出る。けれど、泣き崩れる暇はない。
カレンダーを見る。
日付は、断罪の日の――ちょうど三か月前。
「……戻った」
私は呟いた。
戻れた。
やり直せる。
最初に湧いたのは安堵だった。次に、ぞっとするくらい冷たい決意が来た。
あの大聖堂の空気。聖女の微笑み。枢機卿の「一色に染まる」という言葉。王太子の切り捨て。
全部、忘れない。
忘れるわけがない。
――無限に戻れるのだとしたら。
私は何度でも、正しい手を選べる。
何度でも、勝てる盤面を作れる。
そのはずだ。
私は深く息を吸い、机の引き出しを開けた。白紙の手帳を取り出す。ペンを握る。
まずは、未来の出来事を箇条書きにする。断罪までの三か月で起きる“事件”。誰が動くか。誰が消えるか。どこに証拠が出るか。
そして、最初に味方を作る。
騎士団長の息子。財務大臣の息子。魔術大臣の息子。枢機卿の息子。
彼らが父を動かせば、教会は――教会の庭の外で戦わざるを得なくなる。
私の指先が震えた。
怖いからじゃない。
怒りで。
「正教会が世界を染める前に」
私は紙に、ゆっくり書いた。
「私が、潰す」
窓の外で、朝の鐘が鳴った。
今度は、始まりの音に聞こえた。




