短編小説『人酔い。心地良き、されど苦しみ。』
最近は大丈夫だったのに。吐き気がする。座り込みたいが、ここは満員電車の中。私が座り込むスペースはない。大学の一限に間に合うように行こうとすると、電車を何本遅らせようが満員電車であることには変わりない。
電車の先頭車両の端っこに窓の外を眺めながら乗っていることが大半の私は、たまに人酔いをする。昔は毎日のように人酔いに悩まされていた。飴をなめてみたり、目をつぶってみたり、耳栓やマスクをしているといくらかマシに感じられ、気づけば毎日は吐き気や目まいは感じなくなっていた。
香水か。私の前に立つ濃い青色の上着を着た女性(と思われる装いの人物)の香水が私にとっては厳しく感じられた。マスク越しにも伝わる薔薇か何かの植物の香り。少量だったら自分でも嗜める。自分が香りになれると、香りが感じられなくなり、物足りなく足し続ける。その類の人間か、と少し残酷な捉え方をしてしまった。
停車駅につき、人々が下りていく。自分を落ち着かせるために私も下車しようと考えたが、思ったよりも人が少なくなり、乗ってくる人も多くなかったので、そのまま向かうことにした。先ほどの香水を身にまとった人物も下車していたようで、大学の最寄り駅に着くころには吐き気が少し引いていた。でも今日は気を付けた方がいいかもしれない。
予想通りだった。今日は少人数講義のあとに、二百人近くの学生が同じ教室で講義を受ける日だった。前後左右に人。空席はほぼなかった。席は指定されていないものの、教室に着いたときには端の席はすべて埋まっていた。マイクを通して聞こえる教授の声はまだ大丈夫だった。しかし、マイクのざわざわっとした音、ヒソヒソと話す声、筆箱か何かのチャックを開け閉めする音さえも苦しく。耳栓をしなければ、とてもその場に留まれる気がしなかった。耳栓越しに教授の声が聞こえる。
「人にはパーソナルスペースというものがあり…」
隣は他の講義でもよくグループを組む子であったが、今だけは少し離れたいと思った。パーソナルスペースは「友達」や「知り合い」と一括りにしても、異なる距離が存在すると教授が解説をしている。これまで人酔いをしていても、近くに居られて平気な人は沢山いた。
この解説の意をその瞬間に体感した。
香水といい、人との距離といい、心地のよさを感じることはあるが、足しすぎる、距離を見誤ると苦しみとなってしまうのか。いや、香水の話はまだしも、人に対してその考えを持ってしまったことは反省だな。そんなことを考えていると講義は終わっていた。




