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静寂の翼

 ◆


(魔術学校だって? そんなものもあるのか。いつか行ってみたいが、勉強する気は起きないな。吸血鬼が入学できるとも思えないし、子どもと戯れるのは、ゴメンだ)


  ファスミラが自分の過去を喋ってくれたのも意外だった。従徒になると生前の記憶は無くなるのではないか、と思い始めていたところだが、どうやらそうでもないようだ。

 父の従徒に訊ねても、誰一人として答えなかった。あれは喋りたくないからか。デラウの命令には逆らわないが、シアリスの問いは拒否できるらしい。もちろん強く命令したわけではないので、その場合はわからないが。

  今はそんなことよりも、目の前の神秘に集中したい。

  美しい滑らかな肌は、白、と言うよりも、日に焼けて健康的なオレンジ色に見える。豊かな長髪は金というより夕焼けのようで、毛先に向けて赤みがかっている。特徴的なのはその目である。少し吊り上がりハッキリとした目尻。大きな瞳は翠色に輝いていて、こちらを恐れと少しの期待を持った目で、こちらを見ている。

  まるで少女のような作りの顔だが、これでもかなりの歳上らしい。

 傭兵たちの言葉を信じるならば、数百歳。匂いからもそれが判った。吸血鬼の鼻は要らないことも良くわかる。

 だが、残念ながらあまり耳は長くない。少し尖っているようにも見えるが、その程度だ。エルフと言えばそれが特徴だと思っていたが、彼女の耳の形は人間に近かった。何かの映画で見た印象とは少し違った。

  少なくとも彼女は恒人メネルではない。かと言って、吸血鬼や魔物の類でもない。傭兵たちの言葉を借りれば、性欲があったなら、むしゃぶりつきたくなるような容姿。エルフ族は、みなのこうなかもしれない。

  影の力でナイフを傭兵の死体から取り上げる。それを握って、刃を牢の中に向けた。


「手の拘束を解きます。後ろを向いて、手をこちらに」


 エルフに言葉が通じるかわからなかったが、考えていても仕方がないので、とにかく喋ってみる。言葉の意味を理解したらしく、彼女は狭い牢屋で身を捩った。

  頑丈な牢の中に閉じ込めているのに、太いロープで後ろ手に縛り、足まで縛ってある。そこまで厳重にする必要があるとは思えないが、この拘束状態で馬車に揺られても体力がある様子を見ると、傭兵たちの警戒も判る。エルフは容姿だけでなく、肉体的にも優れているらしい。


「気をつけてください。エルフは魔術は使いませんが、精霊術を使います」


  ファスミラが警告するが、シアリスは魔術も精霊術にも知識がないので、なにをどう警戒するべきかわからない。

 それでも臆せずに、牢の中の彼女を見て、手を差し出すように促した。彼女は逡巡シュンジュンするが、どの道このままでは埒が明かないと悟ったのか、大人しく後ろ手をこちらに近づけた。

 ロープが切れ、手が自由になる。その手にナイフを渡す。彼女はナイフで足のロープと猿ぐつわを外した。やっとキツイ縛りから解放された彼女は、しばらくの間、咳き込んでから、こちらを向いて喋り始めた。


「ええと……、礼を言うべき、なのかな」


  シアリスは肩を竦めた。


「気になさらないでください。それよりも、この牢はどうしましょうか。壊すことはできますが……」


「自分でなんとかするから、もう行ってもらって構わない」


  助けたのに無礼な態度ではあるが、この牢の扉が開けば猛獣に襲われるような状況では仕方がないのかもしれないと、シアリスは考えた。


「わかりました。お目に掛かれて良かった」


  エルフは少し驚いた。拍子抜けするほどあっさりと引き下がるので逆に怪しいが、精霊たちは物事に敏感だ。この吸血鬼が本当にここから消えようとしている気配を感じ取ったようだ。

  少年は振り返って馬車から音もなく降りると、少女に話しかけた。


「狩りには満足できたか? ……そうか。少し早いが、帰ろうか」


  シアリスはファスミラの口回りの血を、自分の袖で拭ってやる。彼女は一瞬下がろうとするが、それを受け入れた。

 シアリスのマントが翼となり、影が渦を巻いて風を起こし始める。ファスミラは姿をシアリスの影の中に隠した。今日はなかなか興味深い一日だった。早めに帰ってエルフや魔術に関する本を漁ろうかと考えていたが、牢の中のエルフの声が聞こえ、飛び立つのを止めた。

  彼女の宝石のような瞳がシアリスを捉えている。何か一縷の望みを託すような、切実な瞳だった。


「待って。もし、あなたと取り引きしたいと言ったら、応じる可能性はある?」


  エルフの女がそう言った。


「取り引きですか。内容によりますが、もちろん可能です。ですが、理解しておられるとは思いますが、僕は……」


「回りくどい話はいらないわ。あなたが何者かは理解している。けど、私には時間がないの」


「……」


  強気な女だ。シアリスは閉口するが、気を取り直して言い直す。


「僕は人間らしい取り引きには興味がないです。それでも何か要求するというのならば、話を続けてください」


  シアリスも面倒になってきたので、ぶっきらぼうに言い放つ。


「……私の友達を助けてほしい。そのあと、私の血をあげる。好きなだけ飲んでいい。ただし、その友達には手を出さないで」


  まるで悪魔との取り引きだなと、シアリスは思った。けれど、そんなものが取り引きになるとは思えない。別にシアリスが欲しいと思えば、無理矢理にでも飲んでしまえば良いのだ。


「確かにエルフの血には興味がないわけではないですが……。その内容で良いのですか? あなたは死ぬことになりますよ」


  少しイジワルしてみる。シアリスとして彼女と話をするだけでも充分に興味深い。それに友人を助けるために、魔物に取り引きを持ち掛けるというのも、シアリスの琴線に触れた。

  ただ、彼女の反応から、吸血鬼を初めて見たわけではなさそうだと予想できる。その友人とともに、シアリスを倒せると思っているのかもしれない。


「そうね、そう……。ならばこういうのはどう? 友人を生かしてくれるなら、私はあなたに定期的に血を提供する。エルフは人間よりも長生きするし、回復も早いから血を沢山とれるはず。面倒な狩りをする必要はなくなるんじゃない?」


「つまりあなたは、僕の奴隷になると言うことですか」


  シアリスの嗜虐心シギャクシンがムクムクと頭をもげてくる。この麗しいエルフを奴隷とできたなら、どんな財宝よりも価値があるだろう。


「……奴隷、ね。もし助けてくれるならなんだってする。奴隷にでもなる!」


  エルフが宣言する。それだけ覚悟は堅いということだ。

  少年はかぶりを振って、心に浮かんだ残虐を追い払う。人を人足らしめるのが理性であるなら、今が使い時だろう。


「わかりました。それだけ切羽詰まった状況だということですね。では、取り引きはなしにしましょう」


「な……⁉」


  エルフが声を上げようとするのを遮った。


「あなたと友人のことは助ける。これはひとつ貸しにしておくことにします」


  嫌な予感しかしない言葉だ。エルフはイブカしげにシアリスを見た。


「わかった。貸しね。こうして話している時間も惜しい」


  エルフは長い髪を数本切り落とし、ナイフの柄に巻き付けた後、鍵穴にその切先を当てた。どう考えても入らないが、エルフが何事かを小声で唱えると、徐々に鍵穴に刃が入りんでいく。

  カチリと音がして、扉は開いた。シアリスは感心した声を上げる。


「魔法って便利なんですね」


  エルフはいいえ、と言った。何がいいえなのかわからないまま、エルフはようやく狭い牢から抜け出した。

  傭兵たちが乗っていた馬車には箱があり、その中にエルフの持ち物が入っていたらしい。簡単な左肩から左胸を覆う鎧と、頑丈そうなブーツ。そして体格に合せた短弓と矢筒。装飾の施された短剣を最後に腰のベルトに挿し、準備は整ったようだ。


「馬まで殺してしまったのね……。走っていくしかないか」


  言い終わらない内にエルフは走り出した。シアリスは呆然とそれを見送ったが、気を取り直して追い始める。かなりの速度だが、追いつけない程ではない。木々の間を風のように駆けていく。真っ暗な森の中であるにも関わらず、彼女の足取りは軽快だ。


(さすがに撒けはしないか……)


  エルフはすぐに追いついてきたシアリスの気配を感じた。さらには次の足が空振りしてしまうのを感じ、驚きの声を上げる。少年吸血鬼は後ろからエルフの体を掴み、枝の隙間を鷹の如く抜け、空へと舞い上がった。


「ちょ、ちょっと⁉」


「空を飛んだ方が早いでしょう。大人しくしていてください」


 彼女からすれば体を良いようにされるのは避けたいところだが、背に腹は変えられない。一刻も早く友の元へ向かわなくてはならない。それに足は宙ぶらりんだが、何故か下から吹く風のおかげか、不安定さは感じなかった。


「そういえば名前を聞いてませんでした。僕はシアリスです。あなたは?」


  少年が囁くように言った。これだけ近くで耳元から聞こえる声は、背筋を凍らせる。


「オノン」


  エルフは短く答えた。


「よろしくおねがいします、オノンさま」


 背後にある少年の顔は見えないが、笑っているような気がした。


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