火を三度くぐらせる
◆
ミラノルの保護がなくなったとき、トピナの守りの魔術も無力にも崩れ去る寸前であった。その少しの時間の間に、オノンは躊躇なく、自らの一部を捧げた。
まずは後ろで結んだ豊かな髪を切り落とし、それを呼び水として、精霊に呼びかける。
今ここにいる精霊は、闇。二匹の吸血鬼が生み出した黒い竜巻の中、呼びかけに応じる精霊は、そのひとつしかいない。
『う~む、奇妙なところで呼び起こされたな。我らの子よ、何が望みだ』
精霊たちはエルフを我らの子と呼ぶ。その由来ははっきりとしないが、エルフは精霊の血を引くと言われている。
そして、精霊は言葉を介さない。今、話しているのはオノンの体を通して形となった言葉である。正確には精霊がしゃべっているのではないが、精霊の意志であることに変わりはない。
その姿もオノンの想像でしかない。黒い渦の中に、二つの目が輝いている。猫のように長い尻尾を不機嫌そうに左右に振っている。
「私に力を下さい。私にみなを守り、影を払う力を」
暗闇の中、知覚することのできない存在が、オノンの頬を撫でた。
『おお、影を払うのに、闇ほど心強い友もおるまい。それで何を代償にする』
闇の精霊との取り引きは、禁忌とされている。特にこれほどの強力な精霊とのやり取りは、闇の精霊でなくとも禁止されている。
オノンは退くつもりはなかった。このままでは自分だけでなく、トピナ、ミラノル、ルシトール、エヴリファイ、そしてシアリス。城下街の人々や、城の外に避難させた奴隷だった人たちも、この力の濁流に飲み込まれるかもしれない。
「私の血を」
『それだけでは足らぬ。利き手ももらう』
「わかりました」
たったそれだけのやり取りが、すべてを変える。
体中の穴と言う穴から血が噴き出し、右腕がねじ切れるのを感じる。死よりも恐ろしい苦痛が、オノンを満たす。だが、苦痛とともに体に満たされるのは、闇。
血の代わりに闇が流れ込み、右腕を形作る。金色の髪は、黒煙の如く揺らぎながら切り落とす前の形に戻り、美しい翠色の瞳は、黒に濁っていく。
オノンが右腕を振るうと、トピナの守りを破ろうとしていた黒い竜巻は、その力を緩め、押し戻されていく。トピナが力尽き、魔術の詠唱を止めると、守りの力は崩れ、辺りは月夜に照らされた。
既にアトリエの外に出ていたことは、すぐに分かった。だが、辺りは一変していた。
城の半分は吹き飛び、外壁はほぼなくなっている。その周囲にはまるで穴が開いたかのように、空間のゆがみが見て取れる。アトリエの内部がその穴から覗くことができるが、夜の岩山に、昼の草原や森が浮かぶ様子は、非現実感を漂わせている。
オノンがもう一度腕を振るうと、竜巻は完全に消え去る。
利き腕を失ったオノンは、もはや得意の弓を射ることは叶わないと思っていたが、闇の精霊は代わりの腕を用意してくれた。疲れ切ったオノンの体は膝から崩れ落ちる。左手を地面につき、なんとか体を支えたものの、倦怠感が全身を包んでいた。
(ありがとう、闇の精霊さん……)
命まで持っていくことができたはずだが、闇の精霊はすぐには命を奪わないでいてくれた。多くの血を持っていかれたが、エルフの生命力であれば問題はない。
まだ、体内に流れる闇の力を感じ取り、それを自身の力へと変えていく。徐々に倦怠感が薄れていき、オノンは顔を上げた。
倒れているミラノルを守るように、ルシトールが彼女を膝上に抱いているのが見えた。エヴリファイがその側で、心配そうに二人を見ている。
オノンの体の下に腕が差し入れられ、力強く持ち上げられた。トピナはオノンの体を支え、立ち上がらせる。
彼女もまた片目から血を流し、両手が火傷のような変色と擦過傷を負っている。魔力傷が全身を蝕んでいるが、それでも彼女は元気であった。この頑丈さをオノンも見習いたいと思ってはいるのだが、なかなか叶うものではない。種族で言えば、オノンの方がずっと丈夫なはずなのだが。
「助けてくれたんだよな。ありがとう、オノン」
オノンの変質した姿を見て、トピナが掠れた声で言った。オノンも声を出そうとするが、代わりに出たのは喘鳴である。オノンは咳き込みながら、残った左腕でトピナの肩をなで、応えとした。
竜巻の中央付近であった場所で、何かが立ち上がる。
突風が巻き起こった。
影がその風に乗り、まだ目覚めないミラノルに迫る。それに反応したのは、エヴリファイひとりである。
彼は変形する右腕を盾としてミラノルを庇った。だが、影でつくられた爪の一撃は盾をすり抜け、エヴリファイの肩から胸にかけて、大きな亀裂を穿つ。
少し反応の遅れたルシトールが、不死斬りを振るって、影を斬り裂こうとする。小さな影はふわりと宙に舞うと、離れた位置に着地した。
黒く澱んだような影を、小さく白い肢体に身に纏わせたそれは、シアリスであった。吸血鬼としての本性を示しながらも、まだ人型を保っている。
オノンはトピナの腕を離れ、腰の短剣を左手に持つ。利き手ではないものの、左手で使う訓練は行っている。
全員が疲弊した体に鞭を打ち、ミラノルを守るための態勢へと移った。
二度目だ。シアリスの吸血鬼の力が暴走し、ミラノルを襲うことは二度目である。その先入観が一瞬対処を遅らせた。
シアリスはミラノルに真っすぐ突っ込むのではなく、影となって姿を隠した。破壊されたアトリエからの明かりはあるがで、陰影はまだ濃い。影と化したシアリスを捉えきる者はいない。
シアリスが姿を現したとき、すでにその牙はオノンの首筋に深々と突き刺さっていた。
吸血鬼の牙は、致命の一撃である。
爪も、その膂力も、致命的な攻撃力を持ってはいるが、性質が違う。噛みついた瞬間、相手の魂を破壊し、捕らえ、取り込むのだ。
トピナはできる限りの速度で対応した。
彼女の掌には、霆の力が集約されている。触れた物を分解するそれは、吸血鬼の肉体でも関係はない。シアリスの頭部を掴むと、彼の頭蓋を顎だけ残して粉砕した。
オノンの顔に彼の脳漿が飛び散る。力の抜けたシアリスの腕から抜け出したオノンは、彼の腹に短剣を突き刺し、それを背中越しに蹴り、身を離した。その後ろから飛び込んだルシトールの一撃が、シアリスの胸を刺し貫き、地面へと縫い付ける。
地面に縫い付けられた体は、すでにそれは抜け殻だった。新たな体を作り出し、数歩離れた位置に、新たなシアリスが誕生していた。
彼の体は小さいので、再生は比較的容易いだが、それでも丸々作り変えることは、大量の生命力を必要とする。だが、今はそれも問題ではなくなっている。
シアリスはその場でクルクルと回り、天を仰いで舞う。彼は目の前にいる、不死斬りを持ったルシトールさえも気にかけていない。
「素晴らしい。速度も、力も、今までよりも飛躍的に向上している」
彼は眼球だけを動かして、流し目で満身創痍の四人を見る。
「もはや、戦いは終わりました。あなたたちは用済みだ。オノンのように苦しまずに殺してあげましょう。おや……」
オノンは残った左手で、噛まれた首筋を押さえながら立ち上がり、弓を構えた。
「さすが、バジリスク並みの生命力ですね。あれ、フィニックスでしたか?」
オノンはよろめきながらも、しっかりとした目線で、シアリスを捉える。シアリスはオノンが死なないことに疑問を持っているようだ。
「シアリス……。正気を失っているわけではないみたいね」
シアリスはまたクルクルと、狂ったように踊って見せた。
「どうです? 正気に見えますか?」
「……」
その様子にルシトールは閉口する。トピナもオノンも、その様子から目が離せなかった。ルシトールはすぐに気を取り直し、舌打ちをして、剣を構え直した。
「だから、吸血鬼は信用ならねぇんだ! オノン、動けるなら、手を貸せよ!」
手負いのオノンに容赦なく声をかける。仕方のないことだ。気を遣う余裕はない。
たった三人で、吸血鬼の上位種と殺り合わなければならないのだ。エヴリファイの怪我も、ミラノルの様子も気になるが、もし、ここでルシトールが少しでも甘さを見せれば、吸血鬼は容赦なく全員の命を奪うことは、深く考える必要もなく明らかだ。
「あはは、僕と戦う気ですか? おとなしくしていれば、苦しませずに殺してあげますよ。いえ、僕の従徒にしてあげましょうか。あれ、そういえばエルフが生き残った場合は、どうなるんでしょうか……」
オノンが闇で象られた矢を放つと、シアリスの立っている場所に、五本の黒い爪が現れ、その周囲を抉る。闇の矢は飛翔するのではなく、空気を伝うようだ。それは吸血鬼の影の力に酷似していた。
シアリスはそれを後ろに跳んで躱すと、さらなる追撃を自らの影の力で相殺する。土埃が舞い、シアリスは影で作ったマントを手で払った。
「あなたたちに勝てる見込みはありません。僕はデラウの力を取り込みました。もう僕に敵はない。ミラノルの力も僕には及ばない。それでも戦うことを選びますか? 話が通じるのですから、和解する道を選んでみてはどうですか?」
どの口で言うのかと突っ込みを入れるべきだろうが、ルシトールもトピナもそんな余裕がなかった。オノンが口を開く。
「それはこちらの台詞でしょう、シアリス。あなたが本当にデラウの力を手に入れたなら、私たちなんか、相手にもならないのじゃない?
それでもあなたは、そうやって言葉で誤魔化そうとするのは、思ったよりも強くなっていないからでしょう。私が死んでいないのが、その証拠よ。あなたこそ、このまま戦うつもりなの?」
オノンがそう言うとシアリスは何も答えず、不敵な笑みを張り付けたまま、またクルクルと楽しそうに踊った。
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