死罪
◆
自分がどこにいるのか理解するのに数秒かかった。
この皮膚を圧迫するような感じは、誰かの精神世界だ。ミラノルは誰かの精神世界へと、無意識のうちに入り込んでしまったのだと悟る。
暗闇でどこにいるのかもわからなかったが、手探りで周りを確認すると、自分が小さな筒状の物に押し込められているのだとわかる。天井を手で触ると、力を込める必要もなく蓋は開き、外に出ることができた。
ミラノルが入っていたのは、大きめの青いゴミ箱だった。
ビルとビルの間の路地。陰に置かれたそれは、誰にも気に留められることはなく、ただ日陰に存在している。気にするのは烏くらいだろう。
外に出ようとすると、ゴミ箱は倒れてしまい、ミラノルは一回転して頭を打つ。悶絶して、しばらくのた打ち回るが、ここが精神世界だと思い出す。意識すると、痛みは完全に消えた。
忘れないようにしなければならないのは、自分の体を完全にコントロールできるこの世界でも、肉体は精神に影響を及ぼすということだ。
前にオノンの世界で鯨に体を変化させたとき、自分の意識も鯨に変わってしまい、魔術を忘れて、きっかけがなければ元に戻ることができなくなってしまった。
路地から外に出ると、そこはどこかの街。ビルが立ち並ぶ、商業地区である。
コンクリートで作られた建物に、アスファルトで綺麗に舗装された道路。歩く人はみな着飾っているように見え、四角いカードのような道具を持ち、時折それを眺めて一喜一憂している。
中には虚空に話しかけている人物もおり、どこか異様な光景だ。自分もあんな風にスマートフォンを、四六時中眺めなければ生きていけなかったことを思い出す。
(日本語……。この記憶は……)
忘れていた言語が思い出されていく。
話し声、看板の文字。
理解できるようになると、目が痛くなり、耳鳴りがした。懐かしさも感じるその文字列の複雑さに、一瞬、眩暈がする。
そうだ。ここは故郷の街だ。自分が生まれ育った街の一角。これは自分の記憶なのかと考えたが、何かが違う気がする。
(シアリスの記憶……、なのかな)
ミラノルはこちらの世界で生まれ変わったあと、ずっと探していたのにも関わらず、自分と同じような境遇の他世界の住人に出会ったことはなかった。
前の人生では、元の世界に戻ることを研究し、古代魔術と呼ばれる空間を操る魔術を作り出した。
結局、元の世界に戻るという試みはうまくいかず、不運にも早逝してしまった。それでも日本という国で生きた時間よりは長く生きることになり、恋人となる人物とも出会うことができた。
そして、今のミラノルという人生では、もう戻りたいとも思ってはいない。
体感時間ではミラノルの生きた時間は三十年ほどのことだが、実時間では三千年も経っている。戻ったとしても、もはや人類すら残っているかわからないと思っていた。
諦めかけていたところに、こうして同郷の人間を見つけることができたというのは、嬉しいものだ。それが例え、吸血鬼と化していたとしても。
けれど疑問が残る。
シアリスは、ついこの間こちらに転生してきたばかりのはずだ。それなのにミラノルが知っている日本という国と、記憶の齟齬はない。同じ時代を生きていたようである。
考えもしなかったが、こちらの世界とあちらの世界では、時間の流れが違うのかもしれない。こちらの世界での三千年は、あちらの世界ではもしかしたら、数年に満たないのかも……。そうなると、自分は浦島太郎にはならないで済む。
もうひとつ、重要なことがある。
あちらの世界では、人間以外の知的種族が存在しないことだ。
この世界には、魔物や悪魔と呼ばれるような、話すことはできるのに、残虐過ぎて話し合いにはならない種族が多くいる。
そういった種族が、もしシアリスの中に宿っていたのなら、決して和解することはできないだろう。
しかし、あちらの世界から来た人格が、吸血鬼に宿っているのなら、希望はあるはずだ。同じ日本人であるし、倫理感も価値観も近いはずである。
シアリスは嘘をついたが、それは何かの事情があったのかもしれない。少なくとも元人間であるというシアリスの話したことは本当であった。
ずっと心に引っ掛かっていた、吸血鬼に騙されているのではないかという、最大の疑念は払拭されたように思えた。
この記憶の街で、多くの人物が行きかう道の中、ミラノルは明らかに浮いた格好である。
戦いのための頑丈な革製の服に、小さなナイフまで下げている。それなのに通り過ぎる人々は、全くミラノルを気にしてはいない。ぶつからずに済んでいるところを見ると、認識していないわけではないが、気にはしていないようである。
(これは、ただ再現された記憶でしかない。オノンのときは森だった。シアリスの場合は、都会の喧騒ってわけね)
ミラノルは自分を納得させると歩き始めた。どこかにシアリスがいるはずだ。
それは人間の形をしていないかもしれないが、見れば一目でわかると根拠なく確信している。
少しの間、歩き続け、何かがおかしいと思い始める。道に変化がない。それどころか同じところをグルグルと回り続けている気がする。
試しに見つけた暗い路地に入ると、そこにはミラノルが出てきたゴミ箱が横たわったままだった。ミラノルはなんとなく、ゴミ箱を元の位置に戻した。
また歩き始める。今度も曲がったつもりはないのに、同じところに戻ってきてしまった。路地の奥へ進み、反対側の道に出てみたが、今度は道路を挟んだ反対側の歩道に出ただけであった。精神世界では物理法則は無視される。
どこかに道をこじ開けることもできるが、他人の精神を無理矢理、弄繰り回すのは危険そうだ。とにかく、何か変化を探さなければならない。
ミラノルは呑気に、道の端の花壇の淵に腰掛ける。
精神世界では時間の流れは速い。オノンの世界にいたときは、何時間も居た気がしたのに、外に出てみれば数分しか経っていなかった。今回も同じだとは限らないが、今は出る方法がわからないのだから仕方がない。
(見覚えある場所だな……)
道行く人々を観察していると、おかしなことに気が付く。
皆の顔がどこか曖昧なのだ。目も鼻も口もあるが、ぼやけたようになっていて、しっかりと認識できない。そして、同じ人物が何度も道を通り過ぎている。彼らもまたループしているのだ。
だが、そうした通行人の中に、顔がはっきりと見ることができる人物がいた。彼はどこかおとなしそうで、印象の薄い顔をしているが、ぼやけてはいない。
中肉中背、これと言った特徴はなく、服装も地味だ。だが、どこか目を引く。どこか不気味である。何故か見覚えがあった。
ミラノルは立ち上がった。彼がシアリスだと確信した。今の美少年の姿とは似ても似つかない姿だが、他に選択肢はない。
だが、話しかけようとして、やめた。
彼がこの街でどんな行動をするのか興味があった。
もしかしたら、別のシーンへと移れるかもしれない。ミラノルは彼の後ろに少し離れてつくと、あとをつけた。ほんの好奇心である。この小さな子どもの体は、ミラノルの思いとは裏腹に、たまにこういう行動をしてしまう。
彼は路地、ミラノルが出てきた路地だ。そこに入っていく。ミラノルはその角から様子を覗ってみた。
彼は路地の途中にあるゴミ箱に目を付けると、何かを考えるようにそれを見つめ、蓋を開けて中を確認した。そして、また閉めると、もう一度開けてみる。
その行動は、そこにあるはずのものがないということを、不思議に思っているように見える。
(何してるんだろう)
しばらく観察していると、気を取り直したのかゴミ箱から離れ、彼は道の奥に進んだ。
慌てて追いかけようとするが、その前に目の前が暗転する。
鼻が潰れ、ミラノルは思わず後ろに下がる。壁にぶつかったのだ。意識を集中して、痛みを取ると、ようやく目が開けられた。
別の街。
家々が立ち並ぶ。先ほどとは違って住宅街のようだ。いわゆる閑静な住宅街と言うやつだ。
昼の間は、ほとんどの住人は学業や業務のため、この街からいなくなる。味気ない色合いの、出来合いの家々が立ち並ぶ。ミラノルはこの場所にも見覚えがある。
道の先に、彼を見つけた。
軽快な足取りで歩く姿を見るに、鼻歌でも歌っているのかもしれない。彼は、さっきは持ってなかった少し大きめのバッグを持ち、ひとつの家に入っていく。鍵を開け、玄関の中に消えた。
良く知っている家だった。表札には『野呂』と書いてある。
野呂美玲、前世の自分の名前を思い出す。ここは自分の家だ。
ミラノルは混乱する。いつの間にか自分の記憶の中に迷い込んだのだろうか。だが、彼はいったい誰なのだ。どうして鍵を持っているのか。
(そうだ。思い出してきた)
自分はあの男に会ったことがある。忘れようとしていた記憶。思い出そうともしなかった記憶だ。
胃液が上がってきた気がして、思わず口を押えるが、少しの呼吸でそれは落ち着いた。
奴が鍵を持っている理由は判った。美玲本人から奪ったのだ。嫌な予感がする。
ミラノルは玄関のドアの前に立つと、ひと呼吸ついてから中に入る。
玄関を開けた瞬間、笑い声が聞こえた。知らない笑い声。テレビの音が聞こえる。
それはくだらないバラエティ番組で、お笑い芸人が面白くもない内輪ネタを披露している声だった。
リビングの戸は空いており、暗い廊下に光が漏れている。家の中は記憶よりも雑然としている。家族の靴は、美玲のもの以外は揃っている。
ミラノルは靴も脱がずに上がり込んだ。少し抵抗があったが、ここは本物の家ではない。そう言い聞かせ、リビングを覗いてみる。
肺から絞り出したかのような、短い悲鳴が聴こえた。自分の悲鳴だと気が付くのに、数秒かかった。
暗く、ブラインドの閉められたリビングには、テレビの光だけが辺りを照らしている。リビングの奥、ダイニングの椅子に、三人の家族が、頑丈なテープで巻かれ固定されていた。
幼い男の子と、中年の夫婦。彼らは、自らの血だまりの中に腰掛け、生気なくテーブルを見つめている。彼らの首にある裂傷が、彼らが絶命していること告げていた。
テレビを見て笑っているのは、特徴のない男だった。
彼はソファ座り、バラエティを見て笑っている。その手には、血の滴るナイフを握りしめ、頬や服には返り血がまばらに飛び散っていた。
美玲の上げた悲鳴には気が付かない様子で笑っている。
この異様な空間に、自身を見失いそうになる。過去に戻り、野呂美玲として、この男を殺したくなる。
だが、ミラノルはどこかに冷えた芯を持っていた。以前の自分では考えられないほど、冷静でいられる。
それはこのホムンクルスの体のおかげか、自身が成長したからなのかはわからない。
「シアリス」
静かに男に呼びかけた。男は振り返る。そのときには、その特徴のない顔は、シアリスの幼く美しい顔へと変わっている。
「ミラノル。どうしたんですか、怖い顔で。あれ、どうして、あなたがここにいるんですか?」
シアリスは一瞬で自分がどこにいるのか理解した。ミラノルは背筋に悪寒を感じた。彼の貼り付けた笑顔を、これほど恐ろしいと感じたことはない。
オノンの精神世界とは全く違う。
オノンは自身の意識を、大樹と化していた。それは無意識の現れだ。そして、エルフに相応しい精神の形に思える。
だが、彼は違う。
彼は相手に合わせて姿を変えた。まるで、自分自身の姿など無いとでも言うように。そして、無意識であるのに、意識があるように見える。
この殺人現場にいることが、当たり前かのように振舞っている。どのような精神なら、そんなことが可能なのだろうか。
「ここは……。私の家だからよ」
絞り出すように声を出すと、シアリスは天使のような顔を傾げて、一瞬考えた。そして、ポケットからカードを取り出す。学生証だ。
顔写真付きのそれは、ミラノルの過去の情報が乗っている。
「もしかして、美玲さんですか? へぇ、驚いた。世間は狭いというか。別の世界に生まれ変わったのに、またこうして出会うことになるなんて。とっても不思議ですねえ」
シアリスのその言い方が、まるでなんてことないことを話しているようで、ミラノルは体の奥底から来る震えに耐えなければならなかった。これは恐怖だけではない。
「どうして。どうして、わたしだけじゃなく、家族まで殺したの」
ミラノルは震える喉を押さえつけて、シアリスに訊ねる。
「ああ、これですか。まずは謝罪させてください。あなたが転生しているとは思ってもみなかったのです。これでは彼らを殺したのは、無駄でしたね」
無駄。
「質問に答えてないわ」
震えが治まっていく。ミラノルの怒りが、恐怖を克服し始めた。
「すみません。そうですね。あなたを殺したあとに、死体を回収しにいったのですけど、隠した場所に見当たりませんでして。確実に殺したと思ったのですが、なぜか奇跡的に生きていたんだと思ったのです。
まさか、転生すると死体が消えるなんて、思いもよらないじゃないですか。
それで隠しておいたあなたの荷物から、住所を確認して、帰ってくるのを待っていたのです。が、残念ながら、三日も待ったのに帰ってこない。だから、顔を見られているし、これはもう一貫の終わりかと、諦めていたのですが……」
シアリスはいったん言葉を切った。
「でも、良かった。後悔していたのです。僕に贖罪の機会を頂けませんか。僕の最期はみじめなものでした。
逃亡生活、孤独な人生、もう御免です。僕は新しい体と、新しい世界を手に入れた。
これは神様がやり直しのチャンスをくれたとしか思えません。そして、殺してしまったあなたが、こちらの世界で生きているなんて。奇跡としか言いようがないですよ」
「なぜ、殺したの?」
「……」
ミラノルはもう一度訊ねた。
「ですから……、あなたを待ち伏せするために、家にいる必要あったからです。そうなると、あなたの家族は邪魔ですから。
もちろん、無闇に殺したくはなかったんですよ。捕まるリスクが高くなる。でも、あのときは僕も冷静じゃありませんでした……。
結局、無駄に終わって、無駄に恐れてしまった。ずっと気がかりだったんです。あなたがどこに消えたのか。でも、これでスッキリしました。五十年もあなたを探し続けていたんですから」
無駄。邪魔。
「シアリス。あなたは、わたしの家族の命を、無駄だと言うのね」
シアリスはミラノルのその静かな怒りを感じ取ったのか、表情を引き締める。
「申し訳ありません。謝罪します。失言でした」
その様子は本当に失言だったと思っているように見える。だが。
「じゃあ、わたしを殺したのは? わたしはあなたに何かした?」
静かに言う。
「それについては、言い訳のしようもないです。あなたはただ生きていた。八つ当たりで殺されただけだ。それが理由です。僕の人生は、どうしようもないものでした。そういう人間の屑でした。
でも、今は、今の人生では、そうならないように努めています! それは信じてください」
ミラノルはそう必死に言うシアリスが、少し可笑しくて笑ってしまった。
「シアリス、わたしは二度の転生をした。これもすごい奇跡だと思わない? そして、あなたに会うことになった。どういう確率? 本当に不思議」
「そうですね。不思議です。こうして精神の中で、あなたと対話する機会を得ることができたのも、奇跡と言えるでしょう」
「そうだね。本当に、そう。
そうじゃなければ、あなたやわたしが転生してるなんて、思いもよらないもの。
一度目の転生では、家族のいる元の世界に戻ることを望んだ。二度目の転生では、家族を殺した犯人に出会った。本当に、不思議。
この転生で、学んだことは多いけれど、二度目でようやく確信できたことがあるわ。あなたにも共有したい」
「それは興味深いですね。ぜひ、聞かせてください」
ミラノルはシアリスを真っすぐ見つめる。
「人の精神は、体と不可分なものだということよ。体が変われば、精神も変質する。わたしは、前の人生の自分が、自分であるとは思えない。だから、あなたが、わたしやわたしの家族を殺したからといって、贖罪を求めたりはしない」
「それは結構なことです……、と言って良いのでしょうかね」
ミラノルは首を横に振った。
「もちろん、精神は肉体に影響を及ぼす。もし、転生した先が、とてつもなく善良な一般市民だったとしたら、殺人鬼の魂も一般人に近付くはず。じゃあ、あなたはどうなの?」
シアリスはミラノルの言いたいことを察した。
もし、殺人鬼が、天性の殺人者である新たな最強の体を手に入れたなら。
「逆もそう。肉体は精神に影響を与える」
ミラノルは静かに続けた。
「あなたは平気で嘘をつく。違うか。誤魔化すのが、本当にうまいんだね。
口先で人を操って、自分のために働かせる。その場で思いついたことを並べ立てて、うまく人を納得させる。誠心誠意、謝罪しているように見せて、心の中では全く別のことを考えている。
そうでしょう? その性質って、吸血鬼の性質? それともあなた自身の性質?」
シアリスはしばらく押し黙った。そして、悲し気な表情を見せる。
「ミラノル……。さすがの僕も傷付きます。確かに僕は罪を犯しました。けれども、僕の心中を想像だけで語られる筋合いは……」
シアリスはそれでもまだ諦めはしなかった。
「ここは、あなたの心の中だよ、シアリス。そして、あなたの中には、化け物は巣食っていない。あなた自身が化け物だから。これを見てよ」
いつの間にか、家の床は死体で埋まっている。老人、子ども、女、男。幾数体の死者のどれの死体も喉を掻き切られ、手足はほとんどなく、虚空を見つめている。
血が床を満たし、壁を這い、空間を満たしていく。
それはシアリスが吸血鬼になってから殺した人物ではない。シアリスが生まれ変わる前、生前に殺した人たちだった。さらにそこに、この世界で殺した人間が加わっていく。
「吸血鬼、殺人鬼。いったい、どれだけの人を殺したの」
シアリスは無表情にそれを見つめる。なんてことない石ころでも見つめるかのように、死体の山を踏みつけている。
シアリスは懐かしいものでも見るかのように、少しだけ笑った。
「これがなんだって言うんです? 生き物は、誰かを何かを、殺しながら生きているんです。この程度で何を騒ぐ必要があるんですか」
シアリスはいつもの笑顔に戻り、ただミラノルを見つめた。
「シアリス、あなたは新たな人生を楽しむつもりのようだけど、そうはさせない。
わたしが今ここにいるのは、それが理由だとわかった。
神があなたを許したというのなら、わたしが代わりにあなたに罰を下す。そのためにわたしは蘇った!
美玲として復讐するのではなく、断罪者として、ミラノルとして、あなたを殺す!」
どす黒い血液が、ミラノルとシアリスを包み、世界が暗闇に沈んだ。
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