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俎上の肉

 ◆


 迎えに来た馬車は、屋根と扉がなければ辻馬車かと思えるほど質素なものだった。

 馭者ギョシャはルシトール・ミラノル・エヴリファイの三人に、すぐに乗るように促した。彼はどこかうつろな表情をしており、ルシトールの軽口も無視した。

 城への道は整備されてはいるものの、岩山に造られたジグザグの山道である。多少の揺れは覚悟しなければならない。その分、時間も掛かるので、到着するときには日は落ちているだろう。

 黄昏色タソガレイロに染まる道を登るうちに、ミラノルは昔のことを思い出した。


(昔、この道を通ったな……。ああ、そうか、わたしの家があったんだ)


 何度も行き来した道である。三千年以上経った今でも、同じような道であることに懐かしさよりも驚きのほうが上回った。


(なんだ……。因縁ない相手だと思っていたけど、割とあったみたい)


 城はアトリエの上に建てられているとシアリスは言っていた。そのアトリエこそ、過去にミラノルが暮らした場所であり、死んだ場所でもある。その思い出の場所を、吸血鬼が汚すことを許すことはできなかった。

 城壁にある大きく頑丈そうな門を潜ったとき、ミラノルが異変に気が付く。


「ルシトール、すぐに霊薬を飲んで!」


 いきなり叫ばれても動揺せず、ルシトールは首にかけた鎖瓶薬を飲み干す。それとほぼ同時に、空気が変わるのを感じた。

 馬車はまだ走っているが、ミラノルは扉を開け、外に出ようとする。エヴリファイはその小さな体を変形した手で掴むと、外へと飛び出した。ルシトールもそれに続き、飛び降りる。

 速度が出ており、着地に足を取られて回転するも、無傷で立ち上がる。下草シタクサの生えた柔らかい地面と、頑健の霊薬の効果で助かった。

 走っていた馬車はその数瞬後に横転し、バラバラと砕けて屑鉄と木片に化す。馬も馭者もいなくなっている。

 馬車の外は先ほどまでの光景とは全く違っていた。

 後ろにあるはずの城壁はなく、前にあるはずの城はない。先ほどまで暗くなっていたはずの空は、澄み切った青色である。そして、日が昇っていそうな空なのに、太陽の光はないのが、違和感を助長する。自然の空ではない。


「ルシトール、気を付けて! ここはアトリエの中だよ!」


 ルシトールの少し離れた後ろの方で、エヴリファイの手からミラノルが地面に降ろされながら言う。

 アトリエ。

 シアリスから話は聞いていた。しかし、それは城の地下にあるということだった。いつ、自分たちは地下に潜ったのか。その疑問が一瞬、ルシトールを支配しようとするが、すぐにそれを払拭フッショクすると剣を鞘から引き抜き、構える。

 それは無意識の行動だった。前方に構えた刃に、斬撃が叩き込まれる。金属音が響き、ルシトールの体は背後に吹き飛んだ。


「ほう」


 感心したような声が聞こえた。

 ルシトールは一回転して着地する。攻撃を防げたのは、構えを怠らなかった鍛錬タンレン賜物タマモノである。とはいえ、攻撃が見えていたわけではない。

 本当に偶然に防ぐことができた奇襲である。もし、武器が上等な魔剣でなければ、そのままなます斬りにされていた。

 アドレナリンが一気に噴き出し、ルシトールの瞳孔が開く。そのうしろに、ミラノルとエヴリファイが攻撃に備えて配置についた。


(シアリスは? 裏切られたのか? 話が違うぜ、くそっ)


 ルシトールたちの前には、大剣を構えたデラウが立っていた。

 段取り通りであれば、ここで心を失くした奴隷たちが襲いかかってくるはずである。シアリスも合流し、なるべく無傷で奴隷たちを無力化する予定だった。


「デラウ・オルアリウス……。なんだ、茶番はしないのか? 馳走チソウを楽しみにしてたんだがな」


 ルシトールが軽口を叩くが、その額からは汗が噴き出している。デラウが鼻で笑う。


晩餐バンサンは君たちだ、とでも言ってほしいのかね?」


「……はっはっは! あんた、道化にでもなったほうがいいじゃないか?」


 ルシトールは話を繋ぎながら、戦闘に特化した頭脳を全力で回転させる。


(戦えるのか? 撤退するべきか? 出口は? シアリスは?)


 少なくともここからの撤退方法がわからない以上、背中を見せる選択肢はない。その考えを感じ取ったのか、エヴリファイが一歩前に出て、ルシトールの横に並ぶ。

 デラウは吸血鬼の力を使っていない。ここはシアリスの話通り、ミラノルを警戒しているのだ。これならまだ勝ち目はある。ルシトールはそう思い込むことにした。


「我が根城にようこそ。どうも私は、君たちのことを侮っていたようだ」


 デラウが一礼する。


「今更、人間らしく振舞う必要はねぇよ、吸血鬼。てめぇも息子も、まとめて棺桶に入れてやるよ」


 とにかく話を引き延ばして、状況が好転することを祈るしかない。だが、それを許すデラウではなかった。

 ルシトールには、彼の体が低く沈み込んだように見えた。霊薬により鋭敏になった感覚が、その動きを捉える。

 デラウの振り上げられた剣閃が、ルシトールの刃と交錯し、耳をツンザく高音を立てる。弾かれた魔剣を、筋力をもってして御すると、上段からデラウの頭部に一閃。しかし、それは彼の大剣に防がれる。

 一瞬、デラウの動きが止まり、その隙をエヴリファイの伸びた指が襲う。ルシトールの巨躯が押し戻され、エヴリファイの指は空を切る。そのまま五本の指は伸び続けデラウを追うが、軽々と振るわれた大剣がそれを払い除ける。

 エヴリファイの伸縮し硬化する右腕は、様々な用途に使えるが、戦闘においても有用である。金属の強度がある上に、鞭のようにしなることで、切断することも難しい。


「面白い術だ。固くしなやかで、ワズラわしい。だが、軽いな。それでどうやって私を倒す気だ」


 デラウが不思議そうにエヴリファイを見やる。挑発で相手の動揺を誘うのは、戦いの基本である。普通の人間であれば、戦うことで息が上がる。話しながら激しく動き回ることは、体力を余分に消耗するだけだが、デラウはそんなことは気にしない。


「そうか。貴様も魔物か。シアリスはホムンクルスのことを訊いてきたのは、貴様がいたからか。変わった臭いのメネルだとは思っていたが……」


 ひとりで納得するデラウに対し、二人は気にせず畳みかける。

 カワし、受け、跳ね、回り込む。必殺の応酬が、長く続いたように感じた。

 それは一分ほど戦いだったが、ルシトールには何時間にも感じた。霊薬の効果はまだ充分に残っているが、こんな戦いをしていては、ルシトールの体力は長くは持たない。

 それはエヴリファイも同様である。変形には相応のエネルギーを使う。効率的な変形で消耗を抑えてはいるが、いままで体験したことがないほどの速度でそれをしたことで、自身の体力がどこまで持つのか判らなくなっていた。


(わたしが何とかしなくちゃ!)


 この状況を打開できるのは、自分しかいないとミラノルは考えていた。

 二人は善戦しているが、デラウの無限の体力には敵わない。ミラノルの魔術は切り札にするとルシトールは言っていたが、そんなことを言っていては先に力尽きることになる。

 今は予定外の事態であった。全力を出せずに負けることほど、悔しいことはない。

 今ならデラウがこちらを警戒していない。アトリエ内の魔力を集め始める。

 口ずさむのは古代魔術で使われる言語である。その言葉は失われて久しいが、ミラノルにとっては馴染み深い言葉だ。歌のような呪文が空間に満ちていく。


(デラウはまだ気が付いていない……。やるなら今しかない!)


 呪文を唱え終えると、ミラノルは両手を頭の上に交差して掲げた。それは傍から見れば背伸びをしたように見えただろう。目の前で命のやり取りが行われているところで、随分と暢気ノンキに写るだろうが、本人はいたって真面目である。

 掲げた手の先、ミラノルの頭上、数十メートルの場所に、彼女よりも数倍大きな薄く光る巨大な球が作られていた。目立つことこの上ないが、デラウが戦いに夢中になっていることを願う。掲げていた両手を前に突き出し、狙いを定めた。

 デラウの一撃が、ルシトールの首を掠めた。これだけでも致命傷になりえる威力だが、霊薬が皮膚を守り、傷は小さかった。それでも痛みは感じる。

 少しひるんだルシトールにデラウは容赦なく剣を振り下ろそうとした。その攻撃の隙を、エヴリファイが硬質化した右手で突く。ルシトールをカバうのではなく、攻撃に転じた。これは非情なわけではない。お互いに信頼しているからこそできる芸当である。

 結果として、デラウの攻撃はルシトールに届かず、三者は距離を取って一瞬の時間が生まれる。

 その瞬間を待っていたミラノルは、魔術を解放した。上空に浮かんだ球が無数の光線へと変化し、その光線は曲線を描きながら加速し、デラウへと襲い掛かる。視界外からのこの魔術に反応するのは不可能なはずである。

 それはルシトールも同じで、攻撃しようと前進しようとするところを、エヴリファイの指が絡めとり動きを止める。


「なんだ⁉」


 腰に絡みついた何かに、悲鳴に近い声を上げながら後ろに引っ張られ転がる。その瞬間、デラウの居た位置に無数の光線が雨のように降り注ぐ。光線は衝突すると破裂し、地面がエグれ、土埃が舞う。

 さっきまでいた場所が消えてなくなるのを見て、ルシトールは背筋が寒くなった。


(魔術……? ミラノルがやったのか?)


 その動揺のせいで反応が遅れた。土煙の中から飛び出してきた影は、ルシトールもエヴリファイも飛び越えて、ミラノルの方へと駆け出した。

 デラウも無傷では済まなかった。

 額から血を流し、上半身の服は破れている。だが、まだ吸血鬼の力は使っていない。人の身のまま、あの魔術の雨を生き延びたのだ。

 そして、この戦いの要となるミラノルの隙を、決して見逃すことはしなかった。駆け出したデラウを止める方法は、ルシトールもエヴリファイにもない。二人が追おうとしたときには、デラウの凶刃がミラノルの目前まで迫っていた。

 ミラノルは気が付いていなかったが、デラウは二人との死闘を演じる間も、決してミラノルから目を離さなかったのだ。常人には不可能な認識能力で、この少女を殺すことを意識していた。

 ミラノルはまだこの体での魔術に慣れておらず、さらには実戦経験の少なさがアダとなった。

 ミラノルの首に大剣が届こうとしたとき、その間に割って入る小さな影が現れる。

 デラウの突撃を止めることができる者など、どれだけ体格があろうとも、常人には不可能である。だが、止めに入った者の体は小さく華奢である。

 それが、ドラゴンの首でも斬り落としそうな大剣を受け流し、ミラノルを抱えてデラウと体を入れ替えるという離れ業までやってのけた。

 シアリスである。


「遅くなりまして、申し訳ありません。間に合って良かった」


 シアリスはミラノルを降ろす間も、デラウからひと時も目を離さず、剣を構えたままである。ルシトールとエヴリファイも同様に脇を固め、デラウを見据えた。

 シアリスの剣は子どもの体格からすれば大剣のようなものであるが、彼はそれを軽々と持っている。彼の体重では剣に振り回されそうなのに、デラウの剣を弾いたことにルシトールは舌を巻く。が、それは表に出さずに口を開く。


「遅いんだよ! あやうく勝っちまうところだったじゃねぇか」


 息も絶え絶えながらも、悪態と強がりを言えるのはさすがだ。


「どういたしまして。けれど、お礼は後にしてください」


 シアリスはその軽口を相手にせず、状況の把握に努める。何らかの魔術が使われ、地面にクレーターができている。ルシトールの汗の量からして、それなりに善戦したことが認められる。そして、額から血を流すデラウの姿を見て、少し口角を上げた。


「随分、男前になりましたね、父上。メネル風情に追いつめられるとは、息子として情けないですよ」


 デラウはシアリスを見て、何を考えているのかは表情からは読み取れない。


「シアリス、この悪戯者め。お前が何かを企んでいるのは知っておったが、その者らと手を組むとはな。一体、どういう風の吹き回しだ」


「いえ、なに。彼らに弱みを握られまして。あなたを殺すのを手伝う代わりに、助命をお願いしたのです。わかりやすい話でしょう」


 シアリスは適当なことを言って煙に巻く。デラウはそれを鼻で笑った。


「オーキアスを殺したな。明確な敵対行為だ。もはや、言い訳は聞かんぞ」


 デラウの最後の従徒であるオーキアスを、今さっき殺してきた。少し手間取り、アトリエへの侵入が遅れてしまったが、どうにか間に合わせることはできた。デラウが直接ミラノルたちを襲ったことで、色々と予定は変わったが、これで立て直すことはできた。

 デラウが一歩進み出る。

 四人となったルシトールたちは構え直した。吸血鬼の力を使えない今、有利になったのはルシトールたちである。シアリスは小声でミラノルに話しかける。


「ミラノル、あなたの力は守りにのみ使ってください」


 ミラノルはその言葉に何度か頷く。まだ、危うく自分の首がねられそうだったことからの衝撃から立ち直れていない。

 これ以上、慣れない魔術を使って、危険を増すことは望むところではない。さっき使った魔術の威力は思った以上の破壊力で、ルシトールまで巻き込みそうになったことに、寒気を感じていた。

 シアリスも一歩踏み出し、デラウと対峙する。

 刹那セツナの緊張の後、少しの弛緩シカンがあり、空を切り裂くような一撃がシアリスに振り下ろされた。十歩ほどあった間合いは、デラウには一歩でしかなく、その一歩も視認することは叶わない。

 デラウの本気だ。

 その一撃をシアリスは体の捻りのみで躱すと、小さく踏み込んで剣を突き込む。それをデラウは足の動きで躱した。そこにルシトールの重い一撃が降る。それは大剣で防ぎ、押し戻そうと体に力を入れる。エヴリファイの鞭と化した腕が襲いかかる。これは防げず、跳び下がって避ける。

 合間を切らさずシアリスは距離を詰め、剣を振るった。

 シアリスの剣技は、ルシトールたちには独特に見える。貴族の優美さだけを追い求めた現代貴族の非実戦の剣技ではなく、傭兵のような荒々しさと力強さで戦う剣技でもない。

 まず、こちらの世界に剣技と呼ばれるような武術の体系は存在しなかった。それは対人戦闘の機会が少ない、この世界特有の弊害だろう。それに霊薬による身体能力向上も相まって、肉体を効率よく扱うという技術は衰退していた。

 もしかしたら別の国に行けば事情も変わるかも知れないが、少なくともこの国ではそうであった。

 それはデラウも同様である。貴族然とした立ち振る舞いから放たれる大剣の一撃は、相手を鎧ごと両断する。優雅でありながら力強い、貴族の剣。だが、シアリスから見れば非効率的だ。人体を破壊することに、それだけの力を使う必要はない。

 剣戟の音が響く。

 シアリスの剣と手の長さでは、デラウとの戦いは不利である。だが、それを退けるほどの技量をシアリスは持っていた。この戦いのために、自身の体を完全に把握ハアクし、改造し、磨き上げていた。吸血鬼の力をお互い使えない状況であるならば、シアリスは例え一対一でも負けるつもりはない。

 既にルシトールもエヴリファイも、シアリスの加勢することを諦めていた。デラウを圧倒しているのである。ここで割って入れば、足手纏いになりかねない。

 本来であればシアリスの体ではデラウの攻撃を受けきれるはずがない。ルシトールには目の前の戦いに舌を巻く。

 リーチの差は速度でなんとか埋められるかもしれないが、体重差は覆すことはできない。その基本原則を無視して、シアリスはデラウの剣をまともに受け止めても、吹き飛ぶようなことはない。そして、一撃はルシトールのそれよりも重い。

 誰も気が付いていなかったことだが、シアリスの体は常人のそれとは違っていた。

 吸血鬼なのだから当たり前だが、その吸血鬼からしても異常な身体だ。

 身長は百五十にも満たないが、体重は百を超えていた。シアリスはデラウと戦うために、筋肉と骨の密度を上げ、身体能力の底上げを図っていた。

 身長が伸びる変化に合わせ、デラウにも気が付かれるように肉体の密度を上げていたのだ。

 通常、吸血鬼の変身というものは、ある程度の形を何種類か決めておき、それと今の体を入れ替えるというものである。

 大規模な変形は大量の生命力を使い、複雑な変形は不合理な肉体を形成し、予期せぬ不具合をもたらす可能性がある。

 例えば、人型から巨大な竜に変身するとき、竜の構造を完全に再現しなければ、血管が詰まり、手足が壊死し、心臓が破裂する結果になる。そうなると巨大化と変形に使った生命力はすべて無駄となる。

 だが、それを可能にした吸血鬼、正確には言えば従徒がいた。収集家コレクタルだ。

 彼は肉体の根幹部分は変形させず、手足のみの形で他の魔物の形を再現していた。そこから着想を得たシアリスは、肉体の構造は変えずに、その密度を人間の形が保てるギリギリのところまで引き上げたのである。

 これは人体を熟知したシアリスにしかできない芸当だ。シアリスは前世に置いて、肉体の構造を理解し、破壊することに一生を捧げてきたのだ。そのことについては誰にも負けるつもりはない。彼の唯一の特技である。

 デラウの大剣をシアリスは剣で受けた。

 その一瞬の硬直の内に、相手の剣の刃の上を滑るように、自分の刃を走らせた。防御不能の一撃。シアリスの剣の切っ先が、デラウの右の手首を切り裂く。

 決して深い傷ではないものの、メネルであれば致命傷だ。デラウが大剣を取り落とさなかったのはさすがである。しかし、素早く止血しなければ失血死する。

 人間形態のまま不滅者が死んだときどうなるのか、シアリスは知っていた。自分で試したのだ。

 結果として、死体はただの人として朽ちはじめ、シアリスは影の力そのものとなって、自身の存在を保護することとなる。肉体を再生するのに、何十人分という生命力を消費する結果となった上、影の力のみの状態を維持するのにも莫大な力を消費した。

 死ねば影の力を使わざるを得ない。

 そうなったときデラウは正気を失い、ミラノルに襲いかかることになる。

 デラウの強大な影の力は活かされることなく、思考能力は低下し、シアリスに俎上之肉ソジョウノニクとされるだろう。後は力尽きるまで殺し続けるだけだ。


「終わりですね。おとなしく死んでくれたりはしませんよね?」


 シアリスが天使のような笑顔で言うが、デラウが左手に剣を持ち替え、右手を少し持ち上げて力を込めると、傷口から溢れていた血が止まった。だが、影の力を使った様子はない。純粋に肉体の操作だけで止血をしたのだ。シアリスは閉口する。そんな技は前世には存在しなかった。


「長くなりそう……」


 利き手を潰したことは大いに結構だが、左手に大剣を持ち替えたところで、デラウが弱体化するとは思えない。もう一度、左手を潰せれば良いが、同じ技は二度と通じないはずだ。

 デラウが背を向けて走り出した。

 突然の出来事に誰も反応できなかった。シアリスもそうである。デラウは突然振り向くと、シアリスたちとは反対方向に走り出したのだ。


「おい、追うぞ‼」


 ポカンとした顔でそれを見送ってしまったシアリスだったが、ルシトールの一言で我に返る。先に駆け出したルシトールに続き、シアリスとミラノルを抱えたエヴリファイが走り出す。

 シアリスはデラウの唐突な行動に驚いていた。シアリスの先入観である。

 デラウは誇りを重んじる、頭の固い吸血鬼だと思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。これはシアリスの誤算というよりは、デラウが演じきっただけだ。

 そして、その演劇をかなぐり捨てて行動することで、逃走の隙を作る準備をしていたと言える。


「あいつ、アトリエから出るつもりか⁉」


 走りながらルシトールがシアリスに訊く。

 このアトリエの特性のひとつだ。外から入る一方通行の扉は、オールアリア城のどこかの境界(門や扉など)のどこにでも設置できる。だが、出口は決まった場所か、管理者しか使用できない。

 常時の出入り口として使われるオールアリアの地下牢にある扉と繋がる場所は、この位置からはかなり遠い。決して逃げられないようにするために、ルシトールたちはデラウの意図によって、出口から遠い位置に放り込まれた。

 もうひとつの管理者しか使用できない扉は、奴隷の村にある。

 デラウは管理者ではない。このアトリエの管理者は、デラウの従徒であるミグシスである。ミグシスが思えば、いつでもアトリエの出入り口を使うことができる。


「村に向かっていますね。このまま、追い続けます」


 これ以上距離を離されるわけにはいかない。ミラノルの力の効果の範囲が、どれだけあるかは正確には判っていないが、十から二十メートルほどしかないとシアリスは予測している。そのことをデラウに気が付いかれたら、確実に逃げられる。

 全力疾走でしばらく走り続けると、ルシトールが遅れ始めた。もともとの体躯の大きさから持久力がある方ではないし、霊薬の効果も切れてきたようだ。


「先に行け……。鎖瓶薬を……。息を……整えて……」


 そう言い終える前には、すでにルシトールははるか後方である。シアリスは振り返りもせずに走り続ける。

 村までは真っ直ぐ進むだけだ。予備の鎖瓶薬も持っているようであったし、すぐに追いついてくるだろう。エヴリファイとミラノルが付いてきているのを気配で感じる。

 とにかく急がねばならない。ミラノルの力の効果範囲にデラウを収め続けねば、敗北することになる。


読んでいただきありがとうございます!

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