死者の城
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ここは大きな城らしい。石造りの廊下、部屋。ガラス張りの窓。掲げられた剣に盾、家紋を刻んだバナー。調度品は高級感よりも実用性が意識されている。
自分が生まれた石棺は、その城、奥深くの地下にあったようだ。
窓からは日差しが差し込んでおり、城の中は意外にも明るかった。採光のための天窓さえある。
吸血鬼と言えば、日光に当たれば灰になって消えると思っていたので、父が日を避けず、自分も日に当たったときは、思わず体を震わせた。が、とくになにか変化はなく、肌が焼け爛れるようなこともなかった。
どこからともなく現れた男の従徒が、少女を抱えてどこかに消えた。
それを心配そうに見つめていると、父は「心配せずとも良い」とだけ言った。
父はもう一人の女の従徒に、奴隷から血を集めてくるように命じた。従徒は何も言わず、恭しく頭を下げると下がっていく。
広々とした部屋に連れてこられ、そこのソファに座らせられる。豪華な調度品。大きな紗が掛けられたベッド。開放的な窓に、眺めの良いバルコニーがある。
おそらくは、この城の主の部屋だろう。つまりは父の部屋だ。
吸血鬼の部屋と言えば、薄暗く、日光は遮られた人の寄り付かない部屋をイメージしていたが、全くそんなことはなかった。
窓には曇りはなく、部屋の角にも塵一つない。これだけの広さで掃除が行き届いているのは、多くの人が出入りして掃除をしているに違いない。
父は執務台で備えられた大きな椅子に音もなく座る。
その身のこなし一つ一つが優雅である。そのまま父は書類仕事を始めてしまったため、少年は手持ち無沙汰になってしまった。考える時間があるのはありがたいが、考えてもわからぬ事の方が多い。
声を出すのも億劫であったが、質問せずにはいられない。まずは自分の置かれた状況を確認する必要がある。
「父上は、この城の主なのですか?」
「そうだ。そう言えば、名を教えていなかったな。私はデラウ・オルアリウス伯爵。お前はこれから、シアリスと名乗りなさい」
「家名がオルアリウス?」
「そうだ」
シアリス・オルアリウス。それがこの少年の名のようだ。もう一度、自分の手を見つめる。か弱い少年の手にしか見えない。先程の不気味な手とは違う。
「気になるかね。鏡ならばそこにあるぞ」
布の掛けられた姿見が、デラウの指した先にあった。ふらつきながらもその前に立ち、少し覚悟を決めてから布をめくってみる。
そこにはいたのは顔色の悪い少年だった。歳の頃は十が十一くらいだろうか。髪は漆黒、大理石のような白い肌に、小さな頭。大きく不気味な赤い瞳。唇は紅を挿したかのように艶やかで、口を開けても牙は見えず、小さく愛らしい歯が白く輝くのみ。黒く肩口まである頭髪は、角度によっては金色に輝いて見える。
月並みな例え方をするならば、人形のような美しさだ。
「自分の姿に見とれたかね? その姿は獲物を狩るときに役に立つだろう。大人の姿にも変化することはできるであろうが、しばらくはその姿でいなさい。しかし、服装がいかんな。私の服装を真似してみなさい」
そう言われてもどうすれば良いのかわからない。今、自分が着ている服は、ただ体に布を巻き付けたようなものだが、脱げるようなことはない。それはそうだ。この服は自分の翼である。わずかに残った羞恥心が、本能のまま、翼を変化させ服にした。
そのときのことを思い出してみた。すると服はゆっくりと形を変え、シアリスはネクタイのない着崩れたスーツ姿となった。子どもには似合わないが、それがまた可愛らしい。
「それは……、変わった作りの服だな」
デラウの服装はタキシードのような礼服だ。どうやらこの絹のような華やかな布生地も、翼を変化させて再現しているらしい。
「それと、殺さぬ者と接触するときは、髪色を明るい色にしておけ。そうだな……。銅のような赤毛にしておけ。母の髪色と同じだ」
偽装のためだ。どうやら吸血鬼は皆、黒髪らしい。最も簡単にできる偽装ではある。赤銅色の髪色を意識すると、黒髪が毛先から明るくなってくる。瞳の色を父と同じ、澄んだ青色に変えた。
そうこうしていると、廊下に人の気配を感じた。どうやら視覚だけでなく、嗅覚、聴覚などの感覚も研ぎ澄まされているようだ。
扉がノックされ、デラウが入れと呼び込む。
先程の女従徒が持ってきたものは、大きな蓋付きの瓶に赤い液体を並々と注いだものである。
蓋はしてあるもののそれが血であることは匂いで判る。
「どうやらこの子は噛み付くことに抵抗があるらしい。しばらくは多くの血が必要となる。新しい奴隷を確保しておけ」
また女従徒は声も上げず、恭しくしく頭を下げた。その肩は小さく震えているようだった。父はどうやら読心術にも優れているらしい。魔法によって心が読まれたのだろうか。ただの観察眼だろうか。シアリスが牙を突き立てることに躊躇したことを見逃さなかった。
「奴隷を殺したのでしょうか」
シアリスが問うた。女従徒は答えず、デラウが言う。
「いいや。殺してしまえば血はもう取れない。奴隷どもから少しずつ血を集めたのだ」
少年は少し安心した。殺していたら、もう後には戻れないような気がする。しかし、空腹には勝てない。殺してしまっても良いという思考、殺したいという欲求が、頭を離れない。
デラウが蓋を取る。むせ返るような鉄の香りが、食欲を刺激し、涎が口の中を満たすと同時に、犬歯が肉食獣のように伸びるのを感じた。
もう我慢はできなかった。
瓶を手に取るとそれを一気に飲み干す。四、五リットルほどはあるだろうが、一息で飲み干した。
色々な人の香りの混ざり合ったそれは、少し固まり始めており、粘りがあって喉越しは最悪で、味もなにもあったものではないが、シアリスにとってはまるで甘露であった。
全身に力がみなぎるのを感じる。体が暖まっていき、文字通り五臓六腑に染み渡った。しかし、先程の少女に噛み付いたときのような、満足感は得られなかった。
「ひと心地ついたかね」
デラウがかなり待ってから訊いてくる。シアリスは半ば呆然としていたが、その問いで目を覚ました。自分の口の周りについた血を舐めとる。舌はまるで蛇のように伸び、顔全体でも舐め取れそうだ。
「ふっ……。行儀作法を教えねばならんな」
デラウはポケットから取り出した手拭いで、シアリスの顔を拭き取った。このハンカチも翼なのかという疑問は置いておくことにする。
「さて、多くの課題ができたわけだが、まずは口裏合わせをしなければならんな。シアリス、母が恋しいかね」
シアリスは問われ、少し考えた。デラウの居室には、デラウ自身の肖像画とともに、まだ少女のような顔つきの女性の肖像画が飾ってある。それをチラリと見てから、「いいえ」と答えた。
「うむ。素晴らしい。それで良い。お前の母はお前を産んでから、しばらくして死んだ。お前が物心ついたときには、亡き者であった。だから、お前は母を知らん。もし、母が恋しいかと誰かに訊ねられたら、恋しくないと答えなさい。そうすれば母の愛を知らぬお前を憐れに思う者もいよう」
「そう言う設定ですね」
「そうだ」
デラウは事も無げに言う。
「そして、私は愛妻家であった。私の妻を奪ったお前を憎んでいた。お前のことを養ってはいたが、ことごとく無視していた」
シアリスは言葉を継いだ。
「それでシアリスは、この歳になるまで社交界には出ず、城に……、いえ、別の城に閉じ込められて暮らしていた、と。多少の世間知らずはそれで説明がつきますね。なぜこの度、子息と和解なされたのでしょうか?」
デラウは少し驚く。
シアリスの生まれたばかりとは思えぬ程の頭の回転に舌を巻いた。まるで他人事のように語る声、幼いが動じないその立ち姿。楽しくなってきて、口元が歪む。子育てとはこうも好ましいものなのか。
「心の変化があったのだ。先日、長年勤めていた家令の息子が死んだ。家令は嘆き悲しみ、主人である私に激怒した。子を大切にしなさい、と。あなたの愛した妻が残した、最後の希望を無碍にするな、とな。家令は礼を失したとして、自ら職を辞した」
平民である部下が、貴族である伯爵にこのようなこと言うことは、命を懸ける結果となるが、デラウはそれを許した。しかし、家令は自分自身を許さなかった。そして、亡き妻の愛した子を、同じように愛すると誓った。と、言う設定だ。
人間の古参の家来たちは、情報統制により、シアリスの存在は知ってはいたが、居らぬものとして扱っていた。その結果、今ではほとんどの家来がシアリスの存在を知らず、会ったことも見たこともないという状況である。
「設定は以上でしょうか」
「そうだ」
その後、シアリスはいくつかの質問をした。
魔法にしか見えない力をデラウは使った。この世界では普通のことなのか、気になったので訊ねてみる。
「魔法? いや、お前は魔術師ではない。そういった教育は受けていない。不滅者としての力を言っているのならば、お前にも使うことはできる。既に使っておる」
「我々、不滅者は、影を使う。これをそのまま『影の力』と呼んでいる」
どうやら魔法とは少し違うようだ。知識のないシアリスにとっては、似たようなものである。つまり、理解できなかった。
シアリスは吸血鬼という単語を、デラウの口から聞いていないことに気が付いた。吸血鬼というのは、人が付けた名前である。吸血鬼自身が、吸血鬼を名乗ることはない、ということなのだろう。
「私の正確な年齢は、いくつなのでしょうか。誕生日は?」
「お前は今、丁度、今日、十二歳となった。十二年前の太綱1412年の十月一日が誕生日となる」
つまりは、今日は誕生日というわけだ。太綱というのは年号だろうか。
十二歳……、鏡に映った姿よりも年上の設定だ。食うに困っていたわけではないだろうが、親に無視され続けた結果、発育は遅くなった、ということにしておこう。
「父上の年齢と、母の素性は」
「太綱1377年一月二十七日生まれ、三十五歳。妻との結婚は二十一のとき、当時の妻は十五歳。結婚から一年後に出産。二年後に他界。妻の実家は地方の領主の家系であったが、何者かに惨殺される事件があり、ただ一人取り残された。そこに婿入りする形で私が来た。オルアリウスというのは妻の家系だ」
惨殺。殺して、乗っ取った。姿を変え、時間を掛ければ、簡単なことだ。
「他にはなにかあるかね」
デラウが質問を促した。だが、考えが纏まらない。
もし、デラウがシアリスに生前の……、吸血鬼になる前の記憶があると知ったら、どうするだろうか。そして、吸血鬼としての本能が薄く、無用な殺しを喜ばないとしたら……。この残酷非道な吸血鬼はどうするのだろう。
「父上の本当の年齢はおいくつなのでしょうか」
「気になるかね」
「気になります。不滅者というものが、どれだけ生きられるのか。興味を持たずにはいられません」
デラウはふと息を吐く。
「私は大綱歴が始まる以前の生まれだ。二千七百歳ほどになる。正確な年はわからんがね」
それほどまでに長く生きながらえたものが考えることはなんだろうか、そして、彼は私を作った。彼は私が初めての子だと言う。私は従徒たちと何が違うのだろうか。
色々と吸血鬼としての質問が絶えないが、もし、《《知っていなければいけない》》質問をしたらどうなるか、恐ろしい結果になるかもしれない。慎重になるべきだ。
「取り敢えずは以上です。ですが差し支えなければ、図書室での読書をお許しください」
貴族の立派な城だ。図書室の一つや二つあるだろうと当たりを付けた。
「図書室?」
ビクリと体を震わせた。不味いことになったか?
「いや、そうか。言葉が喋れるのだ。ある程度、生前の記憶が死体に残されているものかもしれんな。私は生まれたときの記憶も、生まれる前の記憶もほとんどないが……。個体差があるのかも知れんな」
何か一人で納得してくれた。胸を撫で下ろす。しかし、気になることを言わなかったか。死体に記憶が残っている? 死体とはなんのことだ?
「図書室も良いが、まずは自分の部屋の位置を覚えなさい。その後、図書室に案内をしよう」
デラウが目配せすると、ずっと部屋の隅に控えていた従徒が扉を開けた。どうやら案内してくれるらしい。横目で見たデラウは既に机の上の書類に目を通し始めていた。貴族としての仕事があるのだろう。
部屋を出た。廊下の窓から日が差し込んでいる。
シアリスは手の肌を(服は翼皮なので裸も同然なのだが)、日光に晒してみた。なにも変化はない。
思い切って全身に太陽の光を浴びてみる。暖かい。太陽を少しだけ見てみる。眩しくはない。網膜が焼けることもない。どうやら光にも強いようだ。
その様子を黙ってみていた従徒は、決して日光には当たろうとしなかった。案内の途中でも、日の当たらない所を選んで通っている気がする。どうしても日に当たらないといけない場所は、素早く通り過ぎるようだ。不滅者と違い、従徒は日光が苦手のようだ。
「部屋に行く前に、私の従徒に会いたいのですが。どこにいますか」
従徒は首を横に振るだけだった。あの少女が無事なのか気になるが、女従徒は案内する気はないらしい。少女がいる場所を知らないのかもしれないし、命令以外のことはしないのかもしれない。彼女は父の従徒であって、シアリスの従徒ではないのだ。
城は広いが、人は見かけない。この辺りにはあまり人は入ってこないようになっているのかもしれない。迷路のような廊下で迷えば、一苦労することになりそうだ。
とりあえずは彼女の案内に従い、自分の部屋の位置とデラウの部屋の位置、図書室の位置を覚えなければいけないだろう。
真意を隠し、己の手を進めるのだ。




