餓死
◆
シアリスもまた自分自身に起きたことが理解できないまま、人気のない所を探して街を彷徨い歩いた。
人の気配のないあばら家を見つけ、窓の隙間から入り込む。暗闇の中で自分の形を整え、落ち着こうと息を整える。吸血鬼は呼吸する必要はないが、人間のときの癖が抜け切っていなかった。
だが落ち着けはしない。
飢え。
これほどの血への渇望を感じたのは、生まれてすぐ以来である。確かにこの街に来てからは血を飲んでいないが、それも二・三日程度のことである。それだけで正気を失うほどの飢えを感じることなどありえないことだ。
あの子どもだ。ルシトールが連れていた少女。
彼女に見つめられたとき、シアリスの魂に楔が打ち込まれたような衝撃を受けた。力の抑制ができなくなり、飢えが思考を満たした。
(そうか。あれがルシトールの言っていた、吸血鬼を見分ける方法、か……)
自身の顔を爪で引き裂く。口元に垂れてきた血を飲む。こんな紛い物では満たされるわけもない。
生き物の気配を感じ、反射的にそちらに視線を向ける。大きく肥え太った薄汚いネズミが一匹、部屋の角を走っていた。次の瞬間にはネズミはシアリスの牙に貫かれ、全身の血液を抜き取られていた。
足りない。全く足りない。
まるで空腹を誤魔化すために水をがぶ飲みしたときのような、得も言われぬ不快感が全身に満ちる。だが、僅かに血によって顔を覗かせた理性が、シアリスを正気に戻した。
息継ぎをするように天井を見上げると、シアリスは人間の形へとその身を整える。血に濡れた顔を袖で乱雑に拭き取り、手に持ったネズミのミイラを投げ捨てた。
(殺すか。いや、殺すのはまずい。ヤツらがなんと言おうと、自分は人間だと言えば良いだけだ。だが、デラウにこのことが知られればどうなるか……)
ルシトールたちはシアリスの正体を知った。父は許しはしないだろう。彼はときに臆病なくらいに慎重を貴んでいる。
自分に容疑がかかるくらいなら、息子を吸血鬼として処断するくらい造作もなくやってのける。
(このまま逃げるべきか? それとも……)
頭の中で思考がグルグルと駆け回り、良い考えが思い浮かばない。これもあの少女の影響だろうか。
(いや、待てよ。これは良い機会かも知れない)
堂々としていようとシアリスは覚悟を決めた。今の地位や生活に未練などない。デラウや人間が殺しにくるのであれば抵抗するのみ。
「楽しもうじゃないか。せっかく貰った第二の人生なのだから」
シアリスは今やもう人ではないのだ。
あばら家の隙間から外に出ると、シアリスは一人夜の街を堂々と歩く。
夜遅くに子どもがひとりで出歩くような時間ではないが、街であった騒ぎのせいか、通りには意外と人が多く、誰にも咎められることなく泊まっている屋敷に帰ることができた。
侍従たちには口々に、二度と独りで出歩くなと怒られた。何があったのかと聞かれたが、帰りたくなったので帰ったら道に迷ったと、適当に誤魔化す。
風呂に入れられ(と言うよりかは洗い物にされた)、さっぱりとしたシアリスは、そのまま床に就いた。眠ることはないが、考えておかなければたくさんある。
今夜は大きなリスクを背負ったが、実りある一日だったと言えるだろう。そう思うことにした。充実した日々を送ることこそ、自我を保つための最良の方法だ。
落ち着きを取り戻したシアリスは、自分の中にあるひとつの力に手を伸ばす。
収集家の力だ。
それは体に馴染まず、シアリスの中で分離し、たゆたっている。不思議な感覚だ。今まで食した他の生命力にはこんな特性はなかった。
デラウは吸血鬼の血は飲めないと言っていた。だが、シアリスには飲むことができた。いや、不味いと言っていただけだったか?
これはどういうことなのか、理解するには例外が多すぎる。収集家は主人を失くしたはぐれ従徒であるし、シアリスは人間の記憶を持つ、特別な不滅者である。
ほかの不滅者の従徒だから血を飲むことができるのか、それとも、シアリスは吸血鬼を食せる吸血鬼なのか、収集家がはぐれ従徒だから飲むことができたのか。
これについては考えがまとまらず、堂々巡りするだけとなる。このことはデラウには話すべきではない。また秘密がひとつ増えてしまった。
だが、これは利用できるかもしれない。やるべきことをやるだけだ。
◆
夜遅く、デラウが帰ってきた音が聞こえた。
どうやら怖がりな貴族たちを宥めるのに、時間を取られたらしい。デラウは何かと世話を焼こうとする侍従たちにされるがままになる。彼らも帰ってくるまで起きていたのだ。それを無駄にさせないよう、ある程度はこういうことも必要なのだ。
デラウは世話焼きたちを下がらせると、寝室に入っていった。シアリスは寝巻きのままデラウのもとを訪ねる。もちろんノックで音を立てたりはしない。
突然、寝室に現れたシアリスに驚きもせず、デラウは椅子に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
「お疲れのようですね」
「フン……。忌々しい貴族どもめ、いつか必ずその血を啜ってやる」
デラウは影の力によって、寝室に結界を張っている。音は漏れることはなく、近付いた者を感知する。そのためこの部屋の中では、人間であることをやめていた。
「ルシトールから何か話は」
「ルシトール? ああ、あの狩人のことか。収集家を打ち倒したと聞いた。わざわざ人の少ない場所へ誘導してやったのに、とんだ期待外れだ」
ルシトールが死んでくれれば良かったと思う気持ちを隠そうともしない。自分の手を下さずに対処できれば、それに越したことはないと考えていたようだ。
デラウの反応を見る限り、シアリスがバレたことは伝わっていないようである。ひとまず安心。
「となると、あの者たちが吸血鬼を見破る方法を持っていることは確実ですか。どのようにして見破ったのか、ご覧になられましたか」
シアリスは何食わぬ様子で探りを入れる。
「いいや。突然、会場で収集家が暴れだし、ルシトールたちを襲い始めたのでな。私は貴族どもを守るために下がっていたので、具体的なことはわからなかったが」
「僕も近くまで行ってルシトールたちの戦いを眺めていたのですが、彼らが一体何をしたのかは判りませんでした。しかし、吸血鬼に対して、何らかの影響を与えることは確実です。収集家は逃げようと思えば逃げられたはずなのに、彼らにかなり執着していて、自我があるのかどうかも怪しい状態でした。あれは飢餓状態に近いもののように感じます」
デラウにとっては戦いを眺めていたことなど初耳だろうが、シアリスはパーティ会場には途中から抜け出していたし、それに気付かぬほどデラウは愚鈍ではない。ある程度の真実を混ぜることで、言い訳が立つ。
「つまり、奴らは吸血鬼を飢餓状態へと陥らせることができると? だが、奴が襲いかかって来たとき、私は奴らの近くにいたが特に影響はなかった。それにルシトールたちが何かをした様子もなかったが」
「おそらく何らかの条件が必要なのでしょう。あるいは不滅者には効かないのかも知れません」
不滅者に効かないのであれば、シアリスも無事だったはずだが、そんなことは話すつもりはない。デラウはシアリスに向き直り、話を先に進めるよう顎でしゃくって見せた。
「それで? 随分と熱心に語るが、どうしたいのだ。なにか提案があるから来たのだろう」
「ルシトールのことは僕に一任して貰えませんか」
「殺すつもりはないと言うことか」
「どのようにしてそれを行うのか調べあげ、禍根を絶たなければと考えております。そのうえで殺すべきか判断しようかと」
「そうか、ならば良い。好きにするが良い。どの道、奴には興味が失せた。あの程度の実力では、我が歯牙に懸ける価値もない」
この歯牙とは文字通りの意味だ。吸血鬼ジョークというところか。とにかくこれでルシトールと接触するための言い分と時間を稼ぐことができた。
「では」
話は終わりだ。シアリスは挨拶もろくにせずに早々に辞する。
影となって消え、廊下にも出ずに自分の寝室へと戻った。ベッドに潜り込んで、また眠れぬ長い夜を過ごした。
夜中にルシトールを訪れるのはよした方が良いだろう。いきなり戦いになりかねない。
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