死して屍
◆
肉体が死んだら、魂はどこに行くのだろう。
輪廻する? 天国あるいは地獄に逝く? それとも魂などはなく、ただ無に帰すのみ? それとも別の世界で復活する?
自分が考えたのは、ある意味では輪廻に近い。
魂が肉体に宿るのならば、肉体が死んだとき、魂もまた死に、土に還って、また別の魂となり復活する。しかし、そのときには魂は肉体同様、バラバラに分解され、他者と混ざり合い、自我を保つことはできない。破片となった魂は、蜻蛉になり、猫になり、椎茸になり、あるいはただの砂となり、また別の物になることを待つ。
魂の絶対量は決まっており、それ以上にこの宇宙、あるいは次元に物質は誕生しない。
記憶を保持する?
解脱する?
少なくとも一般人である自分には無理な話だ。それに生前の記憶など持って生まれるなど御免こうむる。また、同じことを繰り返してしまうことになるからだ。
つけっぱなしのテレビが、誰も見ていないニュースを流す。
『与党大敗により、政権交代の機運が高まってまいりましたが、街角の声では、今の野党には期待できないとの声が……』
『行列のできるパン屋さんで食中毒被害のニュースです。現在、食品衛生管理局の調査が……』
『……繰り返し行われた、凄惨な連続殺人事件が途絶えてから、三十年。未だに犯人は見つかっておりません。行方不明の少女は……』
死んだら、無に還るのか。少女はどこに消えた。
ああ、けれど。
けれども、もし叶うならば。
もし生まれ変わるならば。
くだらないことで怒らないようにしたい。仕事を長く続けたい。仲間を作りたい。友達を大切にしたい。恋人といちゃつきたい。
孤独の中で死ぬのは嫌だ。
蝿が口の中に入った。もう、払い除ける力もない。口を閉じることも、舌さえ動かすのが億劫だ。
腐臭がした。
机の上の食べ残したカップ麺が、腐っているのか。それとも自分の臭いか。もしかしたら、黴臭い布団のせいかも知れない。糞尿を垂れ流した。力が抜けていくのを感じる。思考が纏らなくなってきた。走馬灯はない。もう充分に過去は振り返ったということだろうか。
これもまた一興だ。楽しみだ。一体何が起こるのか。
終わらせてくれ、死に神……。
◆
目が覚めた。目を開けたつもりだが、まだ暗い。
自分は死んだはずだ。確かに死に神を見た。
手探りで状況を確かめる。狭い。脚を広がることもできない。胸の前で優しく組まれた腕を何とか伸ばすが、それだけで終わりだ。ほとんど身体の大きさにピッタリとあった箱に入っているらしい。
ならば、やはり死んだのだ。棺だ。どうやら自分は生き埋めにされたか。それとも地中で蘇ったか。いや、待てよ。普通は火葬するはずだ。
思い切って腕を持ち上げてみる。意外と簡単に蓋が開いたため、勢い余って大きな音が響いた。明るい光が差し込むかと目を細めたが、そこには暗闇があるのみであった。
部屋のなかは暗闇であるが、なぜか見渡すことができた。窓はひとつもないため、夜か昼かもわからない。石造りのその部屋の真ん中に、自分の入っていた棺が置かれていた。なにかしらの儀式が行われたであろう、不気味な紋様が壁面、床、天井を埋めつくし、それらは血で描かれているようだ。
血。
見ただけで、それが血液だと認識できた。いったい何人分だろうか。一、二、三……、数えてみると十九人。それが判る。この血文字にはそれだけの数の人間が犠牲になっている。しかし、どうしてそんなことが判るのか、それが解らない。
正面、入口の前に、蝋燭を持った男が一人。いや、その腕の中にはか弱く痩せた少女がいて、二人はこちらを見ていた。
少女は怯えきった目で、こちらを見つめている。目を逸らしてしまいたいが、目を離すことができない。そんな表情だ。
どうしてそんなに怯えているのか疑問に思い、自分の姿を確かめようと手のひらを見た。自分の手ではない。それどころか、人間の手とは思えぬものがそこにある。
節榑だって異様に長い指。
その先にはまるで爬虫類のような鉤爪が黒々と伸びている。
白い肌はまるで大理石だが、浮かび上がった青い血管が生物学的な奇妙さを称えている。その手を自分の顔に当てる。やはり自分の顔ではない。
落窪んだ眼窩。異様に高い鼻。鋭く剥き出しになった歯。長く伸びた犬歯が特徴的だ。髪の毛は斑に生え、獣とも言い難い。
そして、翼。背中から生えた蝙蝠のような薄い翼皮が視界の端を掠めた。
自分の状況が受け入れられず、吠えた。
その声も自分のものではない。やはり人のものでもない。獣の咆哮。いや、化け物か。
唐突に空腹感が襲いかかってくる。
少女から見ればそれは恐ろしい光景だっただろう。今、目の前には腹を空かせ、目を血走らせた怪物が立っている。逃げようにも手は後ろ手に拘束され、掴んでいる男の手はまるで鋼鉄の如く、冷たく固い。
声を上げたいが、声を上げた瞬間、目の前の化け物は襲いかかってくる。そう、本能が告げている。
「息子よ、恐れる必要はない。ただ受け入れて、牙を突き立てるのだ。礼儀作法も気にする必要はない。本能の赴くまま、貪りたまえ」
男がそう言うと、化け物は一歩、また一歩とこちらに近づいてきた。
化け物はなにかを問いたげ、男を見つめた。だが、漏れてくるのは唸り声ばかりである。男が蝋燭を吹き消すと、燭台を投げ捨てた。石室の中に激しい金属音が響く。
暗闇となる。しかし、男と化け物には見えている。例え、完全な暗闇だろうとも、この二人にはハッキリと見ることができる。蝋燭の明かりは、少女に恐怖を与えるためだけの、演出に過ぎない。
小さな悲鳴が上がる。
血の匂いだ。少女の剥き出しの首に、男が鋭い爪をたてたのだ。薄くだが血が滲み、雫となって零れ落ちる。
「遠慮をするな。この獲物は私からのプレゼントだよ」
化け物が少女の血の滴る肩に顔を近づけた。その香りを楽しむように、唸り声を上げる。
「そうだ。噛みつき、殺せ」
男が言う。それは命令だ。嗜虐心を含んだその声。男の表情はどこかうっとりと、それを楽しむような笑みを浮かべている。
まだ純朴な少年の、貞操を奪うような快楽か。それとも生娘の柔肌を切り裂く喜びか。
化け物は動揺していた。少女の流す血から目が離せない。その香りに囚われて、息をするのもつらい。
(自分にこんな趣味趣向があったか? 血にこれほどまでの食欲を覚えたことはない。この化け物の姿になったから、そうなったのか?)
味わいたい。味わいたくない。
噛みつきたい。噛みつきたくない。
理性と本能が相反し、せめぎ合う。だが、勝つのは本能である。とくに生命活動に関するもので、理性が勝つのは自殺志願者のみだ。この血を飲まなければ、死ぬ。そう本能が語っていた。
化け物の長く伸びた犬歯が、少女の白い肌にゆっくりとやさしく突き立てられる。
「ほう……、面白い」
男が楽しげな声を上げる。
少女は悲鳴を小さく上げたが、その後は大人しく牙を受け入れた。その表情は恍惚としており、先程までの恐怖は見受けられない。
化け物が変化していく。
骨格が縮み、髪の毛が生え揃い。翼は体に纏わりつき、黒い服(ほとんど布切れだが)へと変わっていく。浮き出た血管はなりを潜め、ただ美しいまでの白を称える大理石の肌が暗闇に浮かぶ。
それは少年の姿となり、何とか顎を開いて少女から牙を引き抜いた。名残惜しそうにその血の滴る肌を見つめるが、その思いを振り払うと傷口に自らの小さな手を当てて、止血する。少女は気を失ったようだ。
「……父上。なにか止血するものがあれば頂きたいのですが」
先程まで化け物だった少年が、まるで少年らしくない口調で要求する。父上と呼ばれた男は、楽しげにその様子を見つめていたが、声をかけられて更に口元を不気味に引き攣らせた。
男は指を鳴らした。壁面に掛けられ松明に一斉に火が灯る。少年は癖で、一瞬目を細めるが、全く眩しくはない。どうやらこの目は暗闇にも光にも強いらしい。
「手を離したまえ。もう血は止まっているはずだ」
少年はそう言われ、恐る恐る手を離した。確かに血は止まっている。犬歯のあとは残っているが、傷は塞がっている。
「これは……、ありがとうございます。父上」
「ふむ。私がやったのではない。まさか、初咬みで、従徒を作ってしまうとはな。将来が楽しみだ」
「従徒……?」
「我々、不滅者に噛み付かれ、生き残った者は我らが眷属となる。その眷属の命は、噛み付いた者の思うがままだ。生殺自在。お主はこの娘に生きて欲しいと思った。もう、こやつは死ぬことすらお前の許しを必要とする……」
男はそこまで喋って、不思議そうに少年を見つめた。
「言葉は解るが、そういった知識は不足しておるのか。私のときは本能で理解しておったものだが……」
なにか悪いことをした気がして、少年は身を縮こませた。
「申し訳ありません……」
「いや、謝ることはない。私も初めて子を作ったのだ。どういったことが正しいことなのかは、私自身も理解しておらんからな」
子を作ったというのはどういうことなのだろうか、母は何処にいるのだろう。この棺に、壁面の血文字はなんだろう。そして、不滅者とは?
色々と聞きたいことはあるが、体がふらつく。男が少女を拘束していた手を離したせいで、少女ごと倒れ込んでしまった。少女の細い体が哀れに思えたが、それすら支えられない自分が情けなくなった。
父が倒れた子を覗き込む。
「……やはり、まだ食事が足らんようだな。だが、従徒の血はもう飲むことはできん。奴隷から血を集めるか」
やれやれ手のかかることだ、と男が指を上げると、少女と少年は折り重なったまま、空中へと持ち上げられる。少年は浮かび上がったことに驚く。魔法だ。やはりこの男は魔法使いなのだ。いや、違う。この男、自分の父は、自分と同族であると匂いで判る。
吸血鬼。
自分は吸血鬼となったのだ。
生来の殺人者。
生まれ変わりを決める神がいるとするならば、これはどんな罰であろう。
なんとか最初の試練は乗り切ったのだろうか。少女は死なずに済んだ。だが、少女は吸血鬼の眷属となり、もはや自由に死を選ぶこともできぬらしい。これは殺したも同然なのではないだろうか。
頭がスッキリとしない。
少年と少女は運ばれるまま、男に連れられて、この巨大な石室を出た。
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