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第二章 月読会(五)

 三月十五日【陽暦四月二十四日】夜。十三湊でも年によっては、そろそろ桜の季節になるのだが、今年は温かくなるのが遅く、まだ桜が咲いていなかった。


 月明に連れられて、月浄は別堂二階に来やってきた。月光送を先月に行ったので、今月は月光の呼掛けの儀式を行う番だ。

 鎧戸を開けると、涼しい風が、別堂の中に入ってきた。


 月読心経はいつ読んでもよいものではなかった。窓に傷のようについた印と印の間に月が見える内に唱えなければならないと、月明から教えられた。


 もっとも、傷の幅は広いので、唱えていい時間の猶予は一刻ほどあった。

 月浄は修行の成果を示すべく、月の標に向って月読心経を唱えた。月浄が月読心経を読み終えると、月の標に光輝く文字が現れた。


 文字は『檀林寺 僧 月明』と書かれていた。文字を見た瞬間、月浄は頭が一瞬で空白になった。


 檀林寺という寺は十三湊に一つしかなく、月明という僧も一人しかいない。月浄はどうしていいかわからず、月明を見た。

 月明が上半身の衣をはだけ、背中を見せて、静かな声で聞いてきた。


「どうですか? 御印は、ありますか?」


「ありません」と、きっぱり自信を持って言えたら、どんなに楽だっただろう。月明の背中には、手のひら大の三日月の青い痣が、くっきりと浮かんでいた。


 月浄が声に出せないと、月明がハッキリとした声で確認してきた。

「よく見て、覚えなさい、月浄。これが御印です」


 月浄は近くに寄ってハッキリと印を見た。紛れもなく三日月型の青い痣があった。月浄は言葉もなく座り込んだ。

 月明が上半身をはだけた衣服を直しながら、穏やかに聞いた。


「御印は、あったのでしょう」

 月浄は声に出せず、頷くのがやっとだった。


 月明が穏やかな表情で優しく教えた。


「いいですか、月浄。御印を見たら。しっかりと伝えるのです。貴方様は月に赴く人間として月光菩薩様に選ばれました。次の十五日の満月の晩に、月へお迎えに上がります。日が暮れて、一刻ほど経つ頃に塔頭の前までお越しください。と、伝えるのですよ」


 師の言葉を頭では理解できたが、心から別の言葉が出た。

「月光送を他の者に代わっていただく方法は、ないのですか」


 座り込む月浄を月明がぎゅっと抱きしめると「ありません」と短く言葉を掛けた。


 月浄は泣いた。久々に泣いた。これから月明の苦しみ代わりに受け、月明のために働こうとした矢先に、月明が次の満月の日に消えてしまうのだ。


 月明は月浄を抱きしめながら、親が子を慰めるように言葉を紡ぐ。


「月光送は決して悲しい儀式ではありません。月にいる月光菩薩様にお仕えし、心安らかに暮らすのです。それに、直々に菩薩様からお教えを授けて頂ける、またとない機会でもあり、功徳を積む好機なのですよ」


 月明の言葉は、おそらく今まで何人となく、月光送にされた人間に掛けた言葉なのだろう。それを今、月明が月明自身に掛けていると思った。


 月浄は別堂の蝋燭が全て消え、窓から入ってくる月明かりだけになっても、泣き続けた。

 暗闇の中で涙が涸れると、月明が袖から火打ち石を取り出し、提灯の蝋燭に火を点け、鎧戸を閉めた。


 月の標に浮かんだ名前は、もう消えており、見えなかった。けれども、次に月光送になる人間は、月明で間違いない。

 月明が月浄に、足元に気を付けるように声を掛け、別堂を出た。


 泣きながら月浄は、今になって月読の守人になるのがどれほど辛い役目かを知った。

 今ここで味わった苦しみを、今度は月浄が満月が来るたびに、他人に味わせなければならないのだ。


 月明が月光送に選ばれた晩、月浄は遅くまで眠れなかった。

 翌晩、疲れて茶礼【休憩】の時間に、つい寝ていると、月明に起された。


 月明が「今晩、特別な修行を言い渡します」と、初めて月への扉を見た晩と同じ言葉を喋ったので、今晩なにかあると月浄は悟った。


 月浄は今度は黙って僧衣のまま縁側に座って、月を見ていた。月浄は今日ほど月が憎いと思った日はなかった。

 縁側に座って、月を眺めていると、厠に行くために起きてきたのか、幼年小坊主の花月と会った。


 花月は、不思議そうに尋ねた。

「月浄様はどうして、縁側に座って月を眺めているのですか?」


 月浄は花月に事情を正直に話せないので、適当に言い包めることにした。


「そりゃあ、お前、拙僧にだって空腹で月を見上げたくなる晩があるさ。月を見ながら月の味を想像すれば空腹も少しは和らぐ。ただ、栗の実は、まん丸に熟すれば落ちてくるのに、月は落ちてこない。だが、欠けて行くのだから、誰かが食べているのだろう。誰かが食べられるのなら、拙僧にもできるはずだ。だから、どうやれば月を食せるのか、考えているのさ」


 花月は笑って答えた。


「月を食してみたいだなんて、月浄様らしいですね。ただ、安心しました。お腹が空いていただけだったんですね。なにか一人で思い悩むんでいるように見えたものですから。ちょっと心配して、損をしてしまいました」


 どうやら、小坊主たちは月浄が思っている以上に月浄を慕い、見てくれているようだった。なんだか照れくさくもあり、今後は注意せねばと思った。


 月浄は笑顔を心掛け、花月を宥めながら、嘘で誤魔化した。


「ありがとう、心配は無用だよ。どうやったら月が食せるか、答が出ないかもしれないが、答えのない問題を考えるのもまた修行の練習だよ」


 花月は「修行の練習って、なんだかおかしいですね」と笑って寝床に戻っていった。

 月が高く昇り、皆が寝静まったころ、月明がやってきた。月明が月浄を御住職の部屋に連れて行った。


 部屋には御住職、月雲、月念の他に月崔、月玉、月命といった年配の僧がいた。

 月崔は御住職、月雲に続く高齢の僧。月命は月念より五つ上で、月玉は七つ年上の僧だ。


 揃った六人に月明を加えれば、七人。揃った七人が月読会の構成員だと知った。

 まず月明が「失礼」と衣の上着をはだけ、御印を他の六人名の僧に見せた。


「拙僧が月光送に選ばれたゆえ、早急に次の月読の守人を決めなければなりません」

 月明は衣服を直して横に座ると、月浄を指して発言した。


「慣わしにより、月読の守人である愚僧が、次の月読の守人を指名したいと思います。愚僧は次の月読の守人に、月浄を指名いたしまする」


 月浄は畏まって他の六人の僧に意思を伝える。

「まだ、若輩者とは存じますが、よろしくお願い申し上げます」


 檀林寺の住職は年老いた好々爺で、普段は腰が悪いと嘆いている。だが、このときばかりは腰をしっかりと伸ばし、威厳を持って他の僧に確認した。


「古来の慣わしにより、月明が月浄を月読の守人に指名した。月浄も了承した。異論ある者は、おるか」


 他の僧からは異論は出なかった。御住職は真剣な表情で厳かに宣言する。

「では、今より月読の守人を月浄とし、月浄を月読会の構成員に加える」


 月浄は深々と頭を下げた。これでもう、後戻りはできない。だが、月浄は月読会の一員となったからには、どうしても訴えたい言葉があった。


 月浄は頭を板の間に擦りつけ震えながらも大きな声で述べた。


「只今、月読の守人として拝命を受け、月読会の末席に加えていただいた月浄です。おそれながら、月読会の一員として申しあげます。月光送の儀式を中止するわけには、いかないでしょうか」


 反対されるのは覚悟の上だった。それでも言わなければと、勇気を出し、思いきって口にした。

 月浄の心情とは裏腹に、誰からも反対の声が出なかった。ただ、月崔だけが渋い顔をしていた。


 そこで月浄は確信した。やはり、他の僧も疑問に思っているのだ。あの不思議な扉の向こう側が月の世界で、月光菩薩がいるとは確信していないのだ。


 それに、誰もが不可能だと言わないところを見ると、月光送は中止する方法があるのではないだろうか。微かに希望が湧いた。


 月念がいつもの冷静な調子で、口を開いた。


「拙僧は月浄の案に賛成です。月光送なぞ、どう考えても御仏の教えに反します。月明は失うには惜しい人材。これを期に、月光送を中止すべきと思います」


 月念が真っ先に賛成したのは月浄にとっては意外な反応だったが、希望だった。このまま、他からも賛同が出れば、月光送を止められる。月明を失わなくても済むと思った。


 だが、月念の後に続く者がいなかった。さりとて、反対を表明する者もいない。

 月浄は、さらにもう一押した。


「お願いです。御住職、月雲様、月崔様、月玉様、月命様、どうか、師を拙僧から奪わないでください。お願いします」


 月浄が祈るような思いで搾り出すような声で頼むと、月明が声を上げた。

「愚僧にも、言わせていただきたい言葉がございます」


 月念が月明をジロリと睨み、冷たく述べる。

「月明はたった今、月読の守人を辞めた身、月読会の構成員ではない。発言権はありません」


 御住職が中に割って入った。


 御住職は月念を困った奴だというような顔で見て、やんわりと考えを述べた。

「まあ、そう理詰めで物を申すな、月念よ。前月読の守人として、参考までに、月明の意見を聞こうではないか」


 月明は合掌してから、凜とした声で宣言した。


「先ほど月読会から抜け申しましたが、言わせていただきたい。月光送を中止の詮議。この月明の月光送の議式を終えてからにしてはいただけませぬか」


 月浄は思わず頭を上げて、月明を見た。

 月明が真剣な面持ちで黙って御住職を見ていた。


 御住職が眉を下げて確認した。

「月明、お主、月光菩薩様の元へ行きたいのか?」


 月明が頭を下げて発言した。

「愚僧には愚僧の考えがあります。生涯一度の我がままとして、受け入れてくださいませ」


「なんで……」

 そこまで言うのがやっとだった。とはいえ、月浄には月明の心も理解できる気がした。


 月明が散々に御印を出た人間を月光送にしておいて、いざ月明の番になったら中止しましたでは、月明の気が済まないのだと思った。


 月明は月読の守人として、月に人を送った責任を最後に取ろうとしているだと思った。

 月浄は月明を止めたかったが、すぐには言葉が見当たらなかった。


 すると、御住職が先に口を開いた。

「あいわかった。月光送中止の詮議は、月明の月光送が終ってから、また後日に行う」


 御住職が手を叩いて宣言した。

「ではこれにて、月読会を解散する」


 月浄は「待って、待ってください」と閉会を止めようとした。だが、月雲が席を立ち、他の僧も次々と立ち上がって、御住職の部屋を出て行った。


 最後に御住職と月明、それに月浄が部屋に残った。

 月明が月浄の肩を叩いて、言葉を掛けた。


「さあ、月浄、今日はもう遅い。寝ましょう」

 月浄は月明の顔を見上げると、そこには優しく穏やかな、いつもの師の顔があった。

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