第二章 月読会(四)
胡蝶が水飴を持って来るために台所に下がっていった。
鍛之介が笑顔で説明する。
「甘酒もあるぞ。鍛冶は結構、体力を使うからな、滋養のために、甘酒はたいがい造ってある。水飴とは合わんかもしれんが、どうだ飲むか」
鍛冶は体力を使う。当時、甘酒は強壮剤だったので、鍛冶師である鍛之介の家には甘酒があっても不思議ではない。でも、水飴を貰ったという胡蝶の言葉はおそらく、方便だろう。
水飴は月浄が来るのを見越して、胡蝶が麦芽と玄米から作っておいてくれた物だ。
近所の人から貰ったと話したのは、「月浄のために作っておいた」と素直に喋れば、月浄が遠慮すると思ったのだろう。胡蝶なりの気の回しようだ。
ちなみに、豪雪地帯で気温が上がらない十三湊では夏に畑で野菜を作っていても、米は作っておらず、米は越中や越後から海路で輸入していた。
水飴は食べたい。でも、ここで素直に頂くと、気の良い鍛之介夫妻の性格だ。月浄が来る度に水飴を用意してくれかねない。それでは申し訳ない。
月浄は本当は水飴を食べたかったが、一旦は辞退した。
「いえ、そこまでしていただくわけには参りません」
鍛之介が意地の悪そうな顔で勧める。
「なんだ、月浄。本当は好きなくせに、月明に聞いておるぞ。痩せ我慢は月浄には似合わん。いいから、水飴を食べて休んで行け。水飴を食しながら、ゆっくりと檀家の相談に乗るのも僧侶の務めではないのか」
檀家からの相談と言われれば、僧として聞かないわけにはいかない。久しぶりに来たので、鍛之介夫妻とは話をしていきたかった。
それに檀林寺では、坊主と小坊主を合わせて百人近くいるので、甘酒や水飴を作っても、少量しか周って来なかった。檀林寺では甘い物を充分に堪能する機会はない。
水飴や甘酒があるのならご馳走になりたい、甘味に対する正直な欲望だった。
結局、鍛之介から水飴を振舞ってもらった。鍛之介と談笑していると、月浄は鍛之介が月光送について知っているのか気になった。
月浄が気にすると、鍛之介は月浄の僅かな心の揺れを読んだかのように質問してきた。
「どうした、月浄なにか悩み事があるのか。寺の坊主に話しづらければ、俺が聞いてやる」
鍛之介の勘のよさには驚かされる。それともさすが、月明の兄というべきか。はたまた、月浄自身がわからないだけで顔に出るほど月光送が気になっていたのかもしれない。
月浄は月光送の儀式を話すかどうか迷ったが、月明は十三湊の大人はほとんどが知っていると話していた。後継者に指名されたのは誰にも言うなと言われていたが、鍛之介と胡蝶は家族同様の付き合いをしていたので、月浄は意を決して話した。
「月光送の儀式をご存知ですか。実は、次のお役目の後継者として指名されたのです」
途端に鍛之介の顔が険しくなり、胡蝶の顔が曇った。
鍛之介が険しい顔のまま感想を述べた。
「そうか、次の月読の守人は月浄が指名されたか」
月浄は「お役目」としか言わなかったが、鍛之介は「月読の守人」と正確に発音したので、やはり十三湊の大人が月光送をほとんど知っているのは事実らしかった。
胡蝶の表情の変化からも、胡蝶も月光送を知っているようだった。
鍛之介はすぐに真剣な表情で月浄を見て述べた。
「月明のやつ、月読の守人をよりによって月浄に振ったか。よし、役目が嫌なら、俺が月明に話をつけてやろう」
月浄は慌ててすぐに鍛之介を止めた。
「いえ、お役目が嫌なのではないのです。ただ、本当に十三湊の大人のほとんどが月光送を知っているのかを知りたかったです。また、どう思っているのかを聞きたかったのです」
鍛之介は真剣な顔のまま、月浄に言い渡した。
「月浄、月読の守人は、お前が思っている以上に辛いものだぞ。月明も月読の守人の後継者として指名を受けて引き受けてから、引き受けねばよかったと、愚痴をこぼしに来たものだ」
月明が愚痴をこぼす姿なぞ、想像できなかった。
月明はいつも、優しくときに厳しくあっても、悩みや愚痴を零していた記憶がなかった。月明はいつも完璧な師であり、僧であり、それが月浄が知る月明の姿だった。
鍛之介は言葉を続けた。
「俺は十三湊の人間だから、十三湊が衰退するのは困る。だが、他人を犠牲にしてでも、自分さえよければいいという考えは好かん。ましてや、月光送はどう考えても、坊主たちの説教とまるで正反対ではないか。それに、今日の十三湊があるのは俺たちの努力の賜物で、他人から恵んでもらったものではないと考える」
鍛之介は、ただ、そこで顔を歪めた。
「だが、これは月読の守人になった月明から実態を聞いたからこそ、言える言葉だ。月光送の話題なぞ、普段の寄り合いでも、誰とでもするわけではないので、他人の考えまではわからん。とはいえ、おそらく皆、十三湊がここまで発展したのであれば、一度ぐらい止めても構わないと思っているのではないかとは思う」
月読の守人の後継になった事情を鍛之介に話したせいか、甘酒を啜りながら鍛之介は何も言わなくなった。
胡蝶も鍛之介と同様の意見なのか、あえて異を唱えるよう真似はしなかったし、他に何も言わなかった。ただ、月浄の湯飲みに白湯を注ぎ、口の中の水飴の味を落とさせておいて、甘酒を勧めるだけだった。
月浄は甘酒を飲み終えると、寺に戻ろうとしたが、鍛之介に月明が来るまでここで待つようにと言われた。鍛之介には何か考えがあるようだった。
やがて、当然のように月明が現れた。鍛之介は月明を奥に上げると、怖い顔で詰め寄った。
「月明、お前。月読の守人の後継に、月浄に指名したそうだな。なぜ、あれほどお前が嫌がった行為を弟子にさせる。言っておくが、月読の守人の後継に指名された事実を俺に話した件で月浄を叱るのは、お前にはできないはずだぞ。お前だって、月読の守人になった時、俺に話したのだからな」
月明は困ったような顔で月浄の顔を見てから、鍛之介に視線を戻した。
「兄上、後継の話は確かにしました。ですが、断ってもよいと申しても、月浄は引き受けると言ったのです」
鍛之介は怒声を浴びせた。
「たわけ、この愚弟が。師のお前に勧められて、嫌です。と、月浄が言えると思うたのか。月読の守人の辛さは、やっているお前が一番よく知っていることだろう」
鍛之介は明らかに月浄が嫌といえず、引き受けさせられたと思っているようだったので、すぐに月浄は口を出した。
「待ってください、鍛之介さん。月読の守人を引き受けたのは、拙僧の意志です。師は、なにも悪くありません」
鍛之介の怒りが、今度は月浄に向いた。
「考えが甘いぞ、月浄。月読の守人を引き受けたら、簡単に投げ出せはせん。ましてや、お前は今年で十五になったばかり。この愚弟のように弟子に押し付けるにしても、十年は辛い思いをして満月を見なければならなくなるんだぞ」
月浄も黙っていられず、本音をぶちまけた。
「拙僧は師に今まで多くの物をいただきました。でも、何一つ返してはおりません。月読の守人になることで、師の辛さを軽くできるのなら、たとえ辛くとも、何十年でも勤めてみせます」
月浄の言葉を聞き、鍛之介は黙った。黙ったと思ったら、家の奥から藁で編んだ米の入った袋を月明に乱暴に投げて寄こした。
「師も師なら、弟子も弟子だ。それ、布施だ、持ってゆけ」
月浄は鍛之介の家にいづらくなり、月明も同じ思いを抱いたのか、合掌して鍛之介の家を足早に出ようした。すると、胡蝶が持って行きなさいと、残った水飴の入った壺を月浄に渡してくれた。
家を出て、鍛冶町を出て、町屋を抜ける。人通りも疎らになると、月明は足を止めて天を仰いで言葉を述べた。
「月浄がどういう想いで、お役目を引き受けてくれたのか、よくわかりました。ですが、月浄、兄上のいうことは、本当です。このお役目は本当に辛い。愚僧は、どこか月浄に甘えていたのかもしれません」
月浄は、すかさず口を挟んだ。
「辛いからこそ、大事だからこそ、拙僧になら勤められると思って言い渡してくれたのではないですか。師は、拙僧も信頼して任せてくれたのではないのですか」
月浄はゆっくりと月浄を見て優しく言葉を掛けた。
「そうですね。期待はしています。月浄に是非やってもらいたいというのは、本当の気持ちです」
「なら、問題ないではないですか。経文だってもう、暗誦できます」
月明は、そそくさと先を歩き出して述べた。
「あまり外でする話でもないですし、もう、だいぶ時間を喰ってしまったので、寺に戻りましょう。あまり、遅くなるといけないですから」
月浄は月明の後ろ姿を見て思った。
(師は前の満月の晩から、やはりおかしい。こんな風に、話をはぐらかす人ではなかった。なんでも、きちんと正面から受け止めて答えてくれるお人だった。いったい師は、どうしてしまったのだろう)
檀林寺に帰ると、小坊主たちの中で一番力の強い円月を呼んで、胡蝶から貰った水飴の入った壺をこっそり渡した。
「いいか、これには水飴が入っている。指でちょっと舐めて見ろ」
円月が水飴を指で掬い舐める喜びの顔になり、すぐにまた指を入れようとしたので月浄は止めた。
「待った。水飴は、他の隠月や新月、海月、花月たちの分だ。ただ、お前は年長なのに、先に水飴を舐めた。これでお前には責任がある。いいな」
円月は何か重大な任務を帯びた武士のように頷いた。
月浄は、円月が信頼に足ると認めると、命令した。
「この瓶に少し水を足して、幼年の者から順に、匙で掬って、一掬いずつお前が与えるんだ。ただし、月浄から、争いになるようなら壺を割るようにと言われたといって、与えるんだぞ。決して腕力の強い者だけで分けるような状況にはしてはいけない。拙僧はお前を信用したから壺を渡したんだぞ、いいな」
その後、水飴の壺は綺麗に洗われたような状態で帰ってきて、胡蝶の元に返還され、小坊主たちの間で騒ぎになる事態にもならなかった。




