第四章 月光菩薩が求めるものと鍛之介の決断(一)
月浄は僧衣を着替えて笠を被り、十三湊の港湾地区に向かった。
港湾地区には東側に十三湖があり、西側に潟湖と呼ばれる大きな河がある。潟湖の向こう側には浜があり、その向こう側に沖がある。
潟湖は十三湖川の湊へ繋がる重要な地点でもあるが、沖で取れた魚を十三湊に運ぶための船も頻繁に通る。
月浄は親切な漁師に、潟湖を下る船に乗せてもらった。
船は南下して、海の神様を祭った浜の明神を過ぎ、鯨海【後世の日本海】側と潟湖を繋ぐ水戸口に出た。水戸口から鯨海側がよく見えた。
十三湊はこれから夏を向え交易の季節を迎える。交易の季節の前でも魚は取れるので、多数の漁船が沖へ出て漁をしていた。
水戸口から足場の悪い砂浜を歩いて半里ほど下ったところまで歩き、月浄は漁船から十分に離れている状況を確認した。
月浄は一度、目を閉じてから壺の蓋を開けた。
蓋を開けると、かって月明だった白い灰があった。月浄は灰を見ると、悲しくなった。
(これで、師ともお別れなのですね)
月浄は海に少しずつ灰を流した。灰を流し終えると、残った喉仏の小さな骨を波に委ねた。砂浜に座って、最後にもう一度、目を閉じて月明の姿を思い浮かべながら、経を唱えた。
経を唱え終わり、立ち上がろうとすると、背後から若い女の声がした。
「おい、坊さん。こんなところで、何をしているのさ」
月浄は声に驚き、振り返った。
背後には上半身裸で、腰に木綿の布を巻き、髪を藁で纏めて結んでいる、雀斑だらけの顔の海女が背後に立っていた。
月浄は一目見て、小菊だとわかった。
小菊も月浄の顔を見て、目を大きく開いて声を上げた。
「あんた、潮兵庫様の屋敷の前で会った、頭に文字を書けって言った、変わった坊さん。檀林寺の坊さんが、こんなところで何をしているのさ」
気落ちして早く月明を海に帰してやりたい一心だったので、月浄は漁師の船にばかり気を取られていた。今年は寒いとはいえ、季節的には、鮑やサザエ漁が始まる時季だ。
すっかり、海中で作業している海女の存在を忘れていた。
きっと、海中から息継ぎするために顔を出した時に、灰を流して経を唱える月浄を見つけ、奇妙だと思って興味を持ち、近付いてきていたのだろう。
月明を思い、目を閉じて経を唱えていたので、すっかり小菊の接近に気付かなかった。
月浄は見られてはいけないものを見られた気がしたので、咄嗟に言い訳した。
「べ、別に、拙僧は、なにも。ただ、竈の灰を海に流していただけです」
口下手な上に、下手な受け答だと我ながら思った。
小菊は胡散くさそうに月浄を見て、疑問を投げ掛けた。
「竈の灰を捨てるなら、何も、こんな水戸口の下流に来なくてもいいだろう。それに、坊さんの持っている壺。朝鮮な白磁の壺じゃないか。檀林寺じゃ、そんな高価な壷に、捨てるだけのための灰を入れるのかい」
「そ、それは、拙僧の勝手ではないですか」
我ながら、苦しい言い訳だった。月浄はこれ以上あれこれ小菊と話すと、もっとボロが出ると思ったので、足早に壺を持って立ち去ろうとした。
背後で小菊の鋭い指摘が跳んだ。
「待ちなよ、坊さん。それは、ひょっとして、誰かの遺灰じゃないのかい」
心ノ臓が跳ね上がった。
「そんなことは、断固、ありません。遺灰なら、寺で供養いたします。海に捨てたりなぞ、しません」
月浄は振り返らずに否定した。だが、声がどこか上ずってしまった。
小菊は月浄の正面に回り込み、月浄の顔を泥棒でも見るかのように見据えて詰問した。
「じゃあ、檀林寺では、竈の灰を捨てるために、いちいち水戸口の下流まで来て、竈の灰に供養の経を上げるのかい。ちゃんと見ていたんだよ」
月浄は怒って答えた。
「いちいち、貴女の質問に答える義理はありません」
月浄はもうこれ以上はまずいと思って、小菊を避けて帰ろうとした。すると、小菊が月浄の行く方向に足を寄せ、邪魔をした。
小菊は神妙な顔をして、小さな声で尋ねてきた。
「あんたが檀林寺の坊さんだったら、ひょっとして、あんたがさっき流した灰。あれは、月光送で月への扉を潜らなかった人間の灰じゃないのかい」
月浄は平静を装ったが、心ノ臓はバクバクと脈打った。
なにか上手い言い訳はないかと思ったが、ここまで言い当てられてしまうと、もうなんと言い逃れていいのかわからなかった。
それに、なんで小菊が、修行を積んだ修験者の如く読心術でも持っているように月浄の頭の中を言い当てるのか、不思議でならなかった。
そんな月浄の様子を見て、小菊は真剣な顔で聞いてきた。
「そういえば、まだ、坊さんの名前を聞いていなかったね。あんたの名前は? 言わないと、おかしな奴がいるといって、他の海女も呼ぶよ」
他の海女と聞いて、海を見ると、離れたところで月浄と小菊の遣り取りを黙って見ている数人の海女の頭が見えた。
月浄は事態が余計な方向に向うのを恐れ、腹を決めて名乗った。どうせ、檀林寺の僧だと知られているのだ。名前だけ嘘を吐いたとしても、きっとすぐに露見する。
「拙僧は檀林寺の僧で、月浄と申します」
小菊は海に向って、他の海女に大声で叫んだ。
「小さい時の知り合いだった。少し話して来る」
小菊の声を聞こえた海女たちは、また冷たい海に潜って作業を再開した。小菊が浜に腰を下ろしたので、月明も腰を下ろさざるを得なくなった。
小菊は月浄の名前を知ると、心なしか表情が柔らかくして話し始めた。
「二年前、おっとうが月光送になったんだ。おっとうは私とおっかあを置いて、一人で檀林寺に出向いて、月へ行っちゃった。おっかあも、去年の冬に亡くなった」
月浄は小菊の言葉を聞き、なぜ小菊が月浄の行為を言い当てたのか理解した。小菊は月光送になった身内として、月光送がどんなものか、月明から聞かされていたのだろう。
昨日、月明に見せた態度も、父親を月光送に迎えにきた人物として、覚えており、蟠りを持っていたからだと感じた。
月光送を行っていた月明の灰を流した日に、月明が月光送にした家族と出会った。不思議な縁を感じた。
月浄は小菊を、月光送で身内を失った人間と知り、近しい存在として感じた。そこで小菊に思い切って聞いてみた。
「お父上を月光送に送り出して、小菊殿は月光菩薩様を御恨みなのですか?」
小菊は穏やかな顔で平然と答えた。
「どうして、月の世界は選ばれた人間しか行けない、極楽に似た世界なんでしょう? だったら、おっとうは、きっと幸せだったと思うし、今では、おっかあと一緒に暮らしているんだよね。いずれ私も、死んだら月に行けるんでしょう」
月浄は大いなる皮肉を感じた。御仏に仕える僧である月浄が御仏を疑い、月光菩薩を恨んだ。けれども、世俗の人間である小菊は、月の世界と月光菩薩を信じていた。
月浄は親しい者を失った者同士で苦しみを慰め合えるかも、と期待していて、弱い己に気が付いた。
気が付くと同時に、小菊に近しい存在だと思い込もうとした自分勝手な月浄自身を恥じた。
月浄は月明の教えを思い出し、月光送になった家族を不安にさせるべきではないと判断し、笑顔を浮かべる努力をした。
努力をして月浄は、月浄自身が思っている意見とは正反対の言葉を口に出した。
「もちろん、月の世界はありますよ。お父上もお母上も、きっと月の世界から、月光菩薩様と一緒に貴女を見守っていてくれているでしょう」
小菊はどこか納得したような表情で、空を見上げて感想を述べた。
「そうだ。そうだよね」
小菊は立ち上がると海に向って歩き出した。小菊は仕事に戻るのだろうが最後に「でも、やっぱり、独りぼっちは寂しいよ」と言い残した。




