第三章 師の教え(四)
月浄は二人の邪魔にならぬように、月明から少し離れた場所で控えていたが、月明がいつ月への扉を潜らなかった事実を話すか、気が気ではなかった。
鍛之介が、まだ話し足りないのか、薪を囲炉裏に足した。
月明が月浄を見た。囲炉裏の明かりに照らされてか、それとも酒に酔ったせいか、月明の顔は赤かった。
月明が赤い顔で、笑顔で語り掛けてきた。
「月浄、これが最後です。よく見ておきなさい」
月明が何を伝えたいのか、月浄にはわからなかった。
次の瞬間、月明の手から空の杯が零れ落ちた。
月明が月色に光ると、全身から激しい炎が天井まで吹き上がった。火に包まれた月明は、月浄が何か言う前に、体が熔けるように崩れ落ち、後には、ただ灰の塊が残っていた。
五つ数える間もない短い時間の出来事のために、月明と共に飲んでいて鍛之介も、手を引っ込めるのがやっとだった。
月明が座っていた場所に、灰はある。けれども、激しく一瞬で燃えたのに、他に焼け焦げた跡がなかった。明らかに普通の燃え方ではなかった。
「お師匠様!」
事態を認識し、動けるようになった月浄は、月明の灰が残る囲炉裏端に転がるように駆け寄った。月浄はわけもわからず、かって月明だった灰を、服が汚れるのも構わず掻き集めた。
灰は掻き集めても、月明には戻らない。頭では、なんとなくわかっていた。それでも、灰を一掬いも残さないようにしなければ、という思いが強かった。
「月浄!」
鍛之介の鋭い声が飛び、灰を必死に集めている月浄の肩に手が掛った。
月浄は鍛之介の手を払いのけた。灰を掻き集めるのに必死だった。
後ろから、強く逞しい腕に抱きしめられた。月浄は腕を振り払おうしたが。腕は離れなかった。
鍛之介から大きな声が飛んだ。
「もういい、もういいんだ。諦めるんだ」
月浄の全身から、がっくり力が抜けた。月浄は声を上げて泣きそうになったが、声を上げられなかった。声を上げれば声で灰が飛んでしまうと思った。
背後で鍛之介の大きな指示が飛んだ。
「胡蝶、蝋燭だ。蝋燭に火を点けて、空の壺を探してこい。ほら、あれ、あの、朝鮮の白磁の壺があっただろう。それと、乾いた筆だ、筆と懐紙を持ってこい。筆と懐紙で灰を集める」
胡蝶は囲炉裏から蝋燭に火を点け、鍛之介の指示に従った。
脱力した月浄の背後から、鍛之介から寂しそうな声で問いかけがあった。
「若い時分に一度だけ、同じ光景を見た。月明は月への扉を潜らなかったんだな」
月浄は涙を流しながら、ゆっくりと頷いた。月浄はそのうち理解した。
鍛之介は何も言わなかったが、鍛之介の腕から悲しみが伝わってくるのが理解できた。
鍛之介も悲しいのだ。当たり前だ。たった一人の、仲の良い弟を亡くしたのだ。悲しくないわけがない。
胡蝶が壺を持ってくると、月浄、鍛之介、胡蝶で、月明だった灰を集めた。
月明は、ほとんど骨も残さず、ただ真っ白で綺麗な灰になっていた。唯一、骨で残ったのは喉仏の小さな骨だけだった。
月浄は灰を集めながら、月明が月光送になぜ、選ばれなければいけなかったのかを恨んだ。同時に、月明が最後に何を伝えたかったのかも、はっきりと理解できなかった。
月明だった灰は、一升ほどの大きさの壺に全て収まるくらいしか残っていなかった。
最後の一筋の灰を筆で集めて、懐紙に載せて白磁の壷に入れると、月明が存在した形跡は、もうどこにもなかった。
鍛之介に手を洗うように勧められた。月明の灰を掻き集めた手は、白く汚れていた。けれども、けして汚らしいものには思えなかった。それでも、勧めに従い、手を漱いだ。
月浄はどうしていいかわからず、入口の上がり框に腰掛けていると、鍛之介が壺を持ってきて、奥の仏間に連れて行った。
鍛之介は仏壇の蝋燭に火を灯した。鍛之介が仏壇の前に壺を置くと、やりきれないといった口調で促した。
「最後に月明に月浄の経を聞かせてやれ」
月浄は阿弥陀経を唱えたが、すぐに涙声になり、まともに経を最後まで唱えられなかった。
月浄は全く不甲斐ない弟子だと思い、悔いた。
経を唱えている間、鍛之介は何も言わず、胡蝶は啜り泣いていた。
泣きながら経を上げ終わった。
月浄は灰の入った、壺を手に持とうとした。すると、鍛之介が静かに声を掛けた。
「待て、月浄。今日はもう遅い。夜道で壺を割って、灰を道に撒いては、まずいだろう。今日は家に泊まっていけ。いいな」
「ありがとうございます」
礼を述べるのが精一杯だった。
月浄はその晩、中々、眠れなかった。独り寝ながら、灰の入った壺を眺めた。
おそらく、月明は今晩、灰になる事態を予期していたのだろう。だから、月浄を誘って最後に鍛之介の家に来た。
でも、月浄に最後に何を伝えたかったのか、今でも見当が皆目つかなかった。
(やはり、師は月光菩薩を恨んだのだろうか。それとも、御仏なぞいないと、拙僧に身をもって示したかったのだろうか)
どちらも違う気がした。でも、何もわからなかった。
月浄はいつの間にか寝てしまい、朝になって他の鍛冶師たちが振るう槌の音で目を覚ました。
朝食を摂ると、鍛之介が重い口を開いた。
「俺が寺まで従いていってやろうか」
月浄は鍛之介の心遣いはありがたかったが、丁寧に辞退した。
「いえ、師を送り届けるのも、弟子の務めですから。それに、師の灰を道に撒くような愚かな真似は、絶対にしません」
鍛之介は「そうか」と短く呟くように言葉を発したが、言葉に悲しみが込められていた。
朝食を摂って檀林寺に帰る途中も風が強かった。
月浄は壺をしっかり握り締め、落さないよう細心の注意を払って帰った。
月浄が早めに暫暇から帰ってきたので、知りたがりのやんちゃな小坊主たちの出迎えを受けた。
でも、円月を筆頭とする小坊主たちは、月浄の様子を見ると、合掌して挨拶だけし。月浄に何も聞かなかった。
月浄は帰って真っ直ぐ御住職の部屋に行った。
御住職が一人で帰ってきて、壺を持っている月浄を見て、だいたい何が起こったのかを理解しているようだった。
月浄は月明の灰が入った壺を前に、ひれ伏して報告した。
「月浄、ただいま、戻りました。師は鍛之介の家で、黄金の炎を吹き上げ、灰となりました。どうか、寺で葬儀を執り行っていただきとうございます」
「それは、できん」即答だった。
御住職の言葉にすぐに顔が上がった。寺で亡くなった者が出たのに葬儀を上げられないなんて、よほどの罪を犯した者でなければ取られない措置だ。
御住職は渋い顔をしたまま、歯切れ悪く理由を述べた。
「悪いが、これは、昔からの決まりなのじゃ。月光菩薩様の呼掛けを無視して、月への扉を潜らなかった者の葬式は、檀林寺では上げられん。墓に埋葬するのもならんのだ。灰は海に流す決まりになっておる」
月浄は御住職の言葉を聞いたときに、殺意にも似た感情を月光菩薩に持った。仏弟子が菩薩に殺意を持つなぞ許される行為ではないが、この時ばかりは月光菩薩を激しく怨んだ。




