第三章 師の教え(一)
月読会が終ってからというもの、月浄は日々の修行に身が入らなくなった。小坊主たちも、月浄の異変を察したようだった。
小坊主たちは月浄を元気づけようと、知っているはずの掃除のやり方をわざわざ聞きに来たり、硯箱の蓋に、墨で筆を貼り付けるなどの些細な悪戯をしてきた。
幼年の小坊主の中には率直に「どうしたのですか」と素直に尋ねて来る花月のような者もいたが「また、月念様と御住職に怒られた」と答えるしかなかった。
もし、月明に月光送を拒否する意思があるなら、頭を擦り付けるように下げて、残りの僧を個別に説得して周っただろう。
でも、月光送にされる月明自身が月光送を希望する以上、残りの僧を説得できたとしても、意味がないように思えた。
修行に身が入らず、月浄は月念にほぼ毎日のように怒られたが、心にここにあらずといった心境だった。
御住職に弁事【寺の外に出て用事を済ませること】を許可してもらい、鍛之介に月明を説得してもらおうか、とも考えた。されど、月明本人が月光送になった事態を鍛之介に話さないのに、話してはいけない気がした。
月光送の前に、月明が鍛之介に家に経を上げに行く機会があった。鍛之介と会った時に月明が月光送になった事情を話してくれれば、成り行きが変わるかもしれないと思った。
鍛之介の家に月明がお務めに行った日、月明は普通に寺から出て行き、普通に戻ってきた。
鍛之介からも月浄への呼び出しがなかったので、おそらく月明は月光送になった状況を話さなかったのだと思った。月浄には、もはや打つ手がなくなった。
四月十五日【陽暦五月二十三日】の月光送の日を迎えた。夜になり、月浄は提灯を手に塔頭の前まで行くと、月明がすでに待っていた。
月明の顔に不安や悲しみは全くなく、いつもの師としての穏やかな顔があった。
どこかに外にちょっと用事を足しにでも行くかのように、月明が声を掛けてきた。
「さあ、行きましょうか」
月浄は月明が歩き出すのを待った。すると、月明からやんわりと促された。
「どうしました。月浄。貴方が月読の守人なのですから、貴方が先頭を歩くのですよ。それに提灯を持っているのは、貴方ではないですか」
師の前を歩くのは無作法であるとの思い込みがあったので、月浄はつい月明が歩き出すのをいつものように待ってしまっていた。
月浄は合掌して、初めて月明の前を歩いた。
背後で月明が何気なく話す声が聞こえてきた。
「いいですか、月浄。来月からは貴方が一人で、この道を歩くのですよ。もし、月光送になる方が不安がっても、貴方は絶対に不安させるような言葉を喋ってはいけませんよ」
「はい、お師匠様」
月浄は師との別れに心乱れ、つい声が震えた
月浄の声を聞いた月明が、少し笑ったような声で返した。
「ほら、それがいけません。もっと冷静に声を出しなさい。それと、歩く速さですが、速過ぎず、遅過ぎず、ですよ」
「はい。お師匠様」と声を震わせないように答えるのが精一杯だった。
月浄は別堂に向う月明かりに照らされた道を歩きながら、後ろを歩く月明に思わず尋ねた。
「お師匠様は、本当に月光菩薩様がいると思いますか?」
月明が、しょうがないやつだとばかりに返した。
「これ、月浄。先ほど不安にさせるような言葉を言ってはいけないと、教えたばかりではないですか。そのような言葉は、口にしてはなりません」
「すいません、お師匠様」
本当はもっと色々と話したいが、どうしても短い言葉しか出なかった。
月明が世間話をするように話しかけてくる。
「いいですか、月浄。御仏は必ず存在します。月光菩薩様もおられます。いつも、娑婆で苦しむ人を見て、救いの手を差し伸べる方法を思案されているのです。何も迷うことなぞないのですよ」
月浄は、月明の言葉が本心ではないと感じた。初めて月光送を見た晩「果して御仏はいるのでしょうか」と呟いた、あの言葉こそが本心だと思った。
月明が歩きながら、先代の月読の守人として、月浄に問答があった時の言葉を教えているのだと解釈した。
月浄は月明が気がかりで、つい首を少し動かし背後を振り返った。すると、月明から再び、やんわりと注意が飛んだ。
「これ、月浄。それもいけません。月読の守人は歩き出したら、振り返ってはならないのです。振り返る態度は、人を不安にさせます。たとえ、背後から人が従いてこなくても、振り返ってはいけません。黙って再び歩き出すのを待ちなさい。それでも来ない時、初めて振り返っていいのです」
「すいません、お師匠様」
月明が息をふーっと吐いてから、感想を述べた。
「今日の月浄は、謝ってばかりですね」
月明がそこに来て、初めて少しばかり寂しそうに言葉を口にした。
「でも、いいでしょう。もう来月からは、愚僧は悪いところを注意する行為ができませんから」
先頭を歩いてよかったと思った。涙が出そうになるのをぐっと堪えている顔を、月明に見せるわけにはいかない。
月明が悲しげな声で回想するように続けた。
「二年前でしたが、最初は月光送を喜んでいたのに、途中まで来て逃げ出した人がいました。月光送では本当に予期しない事態が起こるものなのですよ」
背後から月明の諭す声が聞こえてきた、
「いいですか、月浄。月読の守人は、一人です。もし、何かあったら、自分の頭で考え、自分で行動を起さねばなりません。それだけは、しっかり覚えておいてください」
月浄は声に出すと涙声になりそうなので、黙って頷いた。




