第一章 月光菩薩の導き(一)
歴史小説の需要があるかわかりませんが掲載します。感想欄での歴史的考察や作中の間違いを指摘するのは自由ですが、節度をもってお使いください。
午後の作務が終わり、一人茶礼【休憩】に入る前のちょっとした休憩時間に、檀林寺幼年僧の月浄は、背後より言葉を掛けられた。
「月浄。今夜、お前に特別な修行を命じます。今夜は解定【就寝】せず、寺の縁側で月が消えるまで、月に向って心中で法華経を暗誦しなさい」
月浄は今年で十五歳になったばかり。背が低く、丸顔でまだ子供らしい愛嬌の残る僧侶であった。
月浄が振り返ると、月浄の師匠僧の月明がいた。月明は、歳は三十二にして、細身で細面の僧侶であったが、優しいだけでも、厳しいだけの僧侶でもなかった。
月浄と月明の関係は深い。月浄が五歳で父親を海で亡くし、母親の小桜が一人で育てられなくなり、見習い僧の半月として寺に預けられた時から、月明は師として時には親として、面倒を見てくれており、強い結び付きがあった。
月浄は合掌して答えた。
「わかりました。お師匠様、修行に励まさせていただきます」
修行に励ませてもらいますとは言ったが、永享四年二月十五日【一四三二年三月二十六日】の十三湊はまだ寒かった。
十三湊は後世の青森県西部の津軽半島にある。十三湊は日本最古の海法である回船式目にも登場する有名な港で、十三湊だけで約二十万人の住民がいた、大きな港町であった。
月浄は暗く寒い、暖のない縁側で雪が残る中、一晩ずっと心の中で経を唱えるのは、辛い修行となるであろうと予感はしていた。
師の月明は、嫌がらせや、思いつきで、修行を命じはしない。師には師の考えがあり、弟子には弟子の使命がある。言い渡されれば、従うまでだ。
月浄は、他の僧侶が解定に入って行く中、最後の一人になるまで夜の読経をする。檀林寺は僧侶が多いので、最後となると、夜も暗くなっていた。
檀林寺は奥州藤原氏の藤原秀栄が建立したとされる伝統のある天台宗の寺で、規模は大きく、僧侶と小坊主を併せて約百名が暮らす大きな寺院であった。
一人になってから月浄は、縁側で寒さに震えながら、法華経を暗誦し続けていた。
さすがに一人で座って経を唱えるのは辛いので、縁側から下り、庭をグルグルと歩き回りながら、経を暗誦するように努めた。
春を迎えたとはいえ、今年の春は遅く、寒さが居座り、境内の影には除雪のために集められた雪の山が所々残っていた。
今の時季では身体を動かしていなければ、若い月浄といえど、寒さは耐え難かった。下手に眠り込むと、朝には冷たくなって発見されそうだった。
月明は暗誦しろとは命じたが、座って暗誦しろとは言っていなかった。だから、体を動かすくらいは許されるだろうと、勝手に解釈した。
月が高くなった頃、歩きながら経を暗誦していた月浄は暗がりの中に灯りを見つけて、おやと不審に思った。夜中に人が境内の中に入って来るのは、稀な事態だ。
灯を凝視していると、灯りを持った人が近付いて来た。灯りの正体は、提灯を持ってやって来た月明だった。
月浄は、まさか月明が起きて修行をきちんとやっているかを確認に来るとは思わなかったので、縁側に座っていなかった事態を、いささか気まずく思った。
月浄は座ってなかった行為を叱責されるかと思ったが、すぐに不思議に感じた。
今晩は満月であり、月明かりがあるので、少しは明るい。月明が眠っている部屋から縁側にいる月浄を確認するだけなら、わざわざ貴重な蝋燭を使い、提灯まで用意して確認に来るだろうか。
月浄が不思議に思っていると、月明が神妙な面持ちで言葉を掛けてきた。
「今宵はお前に、檀林寺の真実の顔を見せます。愚僧に従いて来なさい、月浄」
月明が真剣な顔で、それだけ述べると、提灯を持って先頭を歩き始めた。
命ぜられた通り、月浄は従いて行った。すると、寺社内に設置された、女人が入ってよい限界を示す塔頭の前まで来た。
塔頭の前には三人の人物がいた。三人は親子のようで、一人は若い娘だった。
三人は別れを惜しむように静かに泣いていた。なぜ、三人が泣いているのか事情はわからなかったが、父親が月明に「よろしくお願いします」と言葉を掛けると、月明は「確かにお届けします」と答えた。
月明が娘を促し、女人禁制を示す境界の塔頭を超えた。
月浄は女人禁制の寺に月明が女性を招き入れた行為に俄然、胸が高鳴った。悪戯坊主の習性として、発作的に辺りを見回し、他の僧侶や小坊主が見ていないかを確認した。悪戯をした瞬間に、すぐに見つかったしまった時ほど、悔しいものはない。
ところが月浄の思いなど関係なく、月明は娘を連れて、普通に歩いて行く。
月浄はここで、師の月明が一緒なのを、すぐに思い出した。月浄はいくら怒られてもいいが、月明には僧としての立場がある。
月浄は急いで師の横に並び、貸しを作るつもりで、小声で提案した。
「お師匠様、まずいですよ。女人をこの先に連れて行くなんて、御住職様が知ったら、きっと、きついお叱りを受けますよ。もし、ちょっとした戯れから出た出来心でしたら、拙僧が一人で引き受けますが」
月明は平然と、月浄に言葉を返した。
「御住職は、お怒りになりませんよ。娘さんを送り届けるのは、月光菩薩様の命なのですから、仏弟子である愚僧たちが菩薩様に従わないわけには、いかないでしょう。それ、お前は横に並ぶのではなく、娘さんが転ばないように、後ろから見ていなさい」
薬師経では月光菩薩は日光菩薩と並び薬師如来の脇侍であり、月の光を象徴する菩薩である。とはいえ、檀林寺に月光菩薩の仏像が三尊形式でも、単体でも祀られている光景を月浄は見た記憶がなかった。
それに、月明の言い方では御住職は、すでに了承しているのだろう。
月浄の心は萎えた。悪戯は禁止されているから、興奮を覚える。許可があるのなら、悪戯ではなく、単なる義務的な行為でしかない。月明に貸しも作れない。




