008
大学校の巨大な門扉。完璧に磨き上げられた石の廊下を歩き、十ナルグ(=十メートル)でもきかない程の大きな出入り口の前に佇む青年を見つけ、リィンは笑顔になった。
「ルセロ!」
やって来たリィンに気付いてルセロが片手を上げて笑顔を返してくれた。昨日の来客は彼だったようだ。隣にはラディスとシモンもいた。
「やあリィン。久しぶりだね。元気そうで良かった」
昼下がりの陽光に透けるブラウンの短髪に白い肌。自分と同じ、赤茶の瞳。今ではその血が絶えようとしている希少な種族。このレーヌの首都で暮らしているイリアス族の一人だ。
「ルセロ……その格好って」
彼は大学校の制服を着ていた。ルセロはリィンと握手を交わして微笑む。
「そう。この年でなんだけど、大学校に入学したんだよ」
「本当!?」
「うん。リィン、君のおかげだよ。君はやっぱりシルヴィとティルガの子だ。僕らイリアス族の、大事な娘。運命の子。ありがとう……」
ルキリア国内で発令されていた警戒令の影響力は、一国だけにはとどまらず、その威力は全世界に及んでいた。イリアス族の人々はその警戒令の元、常に監視され身元調査や届けを出さなければどこに行く事も許されずにいた。就ける職業も制限され通常の教育を受ける事すら出来なかったのだ。
人としての権利を脅かす元凶であった警戒令が取り下げられた今、やっと真の自由を手に入れたと言って良い。これでやっと、他の種族の者達と同等の権利を得る事が出来た。
リィンの父母が命をかけて勝ち取った奴隷解放宣言から、十八年もの歳月が流れていた。
「それ、道場の道着かい? 凛々しいね。似合ってる」
「あは。ありがとう」
道着姿を褒められて、曖昧に笑みを返した。にこにこと微笑むルセロを見て、何故だかエンポリオを思い出す。彼の柔和で中性的な雰囲気がきっと似ているのだろう。
「ラディス。リィンをプルトの丘へ案内してあげたいんだけど、良いかな?」
しん、と沈黙が降りる。リィンは不思議に思いラディスを見上げた。彼が相手の言葉に対して何らかの返答をしないのは珍しい事だからだ。ゆるくくせのある薄茶色の髪に、黒の眼帯。すっきりとした顎。
「ラディス?」
ラディスは無表情のまま腕組みをしてルセロを見据えている。するとぷっと吹き出して、ルセロが笑い出した。
「あっははは! だ、大丈夫だよ。もうリィンをどうこうするつもりはない。分かるだろう? ははっ」
「そう何度も骨を折られるのはさすがにしんどいからな」
意味が分からず、二人の顔を交互に眺める。
「何?」
「いいんだよ、リィンは気にしなくって。彼、何だか前に会った時より素直な反応をするね」
「ぇえ?」
「僕に聞かなくても、嘘を言ってるかどうかなんてあなたにならすぐに見抜けるはずだろう?」
「ああ。だが、人には気が変わるって事がある」
「ぷっ……くく。そうか、なるほどね。僕は今のあなたの方が好きだな」
「そりゃあどうも」
「ふふ……」
今度は後ろに控えていたシモンが笑い出した。ラディスが彼にじとっとした視線を向けると、すぐに笑いを引っ込めて恐縮し、頭を垂れた。
「す、すみません。つい」
「アミル。お前これが見たくてここに残ったのか。悪趣味な奴だな」
リィンはまた訳が分からなくなり、眉根を寄せる。
「ラディス。名前間違えてんじゃないの? シモンだろ?」
「いや。こいつはアミルだ。アミルヴェラ・ガルトナー。シモン・ガルトナーとは双子だ」
「えっ」
驚いて、シモンだと思っていたアミルヴェラという名の青年を見つめる。黒髪の青年は鮮やかな緑の瞳をまん丸にして、言葉を失くして長身のラディスを見上げていた。
「……驚いた。シモンが言っていた事は本当だったんですね。先生、私とシモンの区別が?」
ラディスが自分の右目の下にとん、と指を置く。
「シモンにはうっすらだが、ここにほくろがある」
「そんな。あんな薄いシミに気付くなんて」
「それにお前とシモンは全く性格が違う。演じているのがばればれだぞ」
アミルヴェラは俯いて、くつくつと笑い出した。片手で拳を作って口元に当てる。そこでやっとリィンにも合点がいった。昨日、大学校の廊下で出会ったのはシモンではなく、この人物だったのか。まさか双子だとは思わなかった。だって二人は本当にそっくりなのだ。
「これはすごい。私とシモンの区別がつくのは、ここではシャウナルーズ様だけだったのに。テンペイジ議長だって、私達の入れ替わりには気付いていないんですよ?
確かに、私はアミルヴェラです。私の双子の弟、シモンは本当は研究員なんです」
そこへ、アミルヴェラとまったく瓜二つの青年が廊下を歩いてやって来た。眉を下げてとても恐縮している様子の彼は、研究員としての装いをしている。アミルヴェラの隣に並ぶとまるで鏡か分身のように見えてしまう。それ程に二人はよく似ていた。背丈や体格も全く同じに見える。別人だと言われてよくよく観察すれば、シモンの方がやや痩せているようにも感じるが、僅かな誤差程度。これは見事だ。
リィンはあんぐりと口を開いて二人を凝視したまま固まった。アミルヴェラがちらりと双子の弟に視線を投げて続ける。
「だから彼がこの黒の制服を着る事はないんです。同僚達は私達の着ている制服で、私達を見分けています。研究員の丈の長い服を羽織っているのがシモン、黒地に金の線が入った制服を着ているのがアミル、という風にね。時々入れ替わってお互いの仕事をしています。周囲にばれていないのだから、仕事も演技も完璧なはずです。弟は演技なんて出来ませんから、私がシモンを真似るんですが、それには自信があるんです。同僚達は私達を大人しくて控えめな双子の兄弟と思っているでしょう。
……だから驚いたんですよ。黒の制服を着ているシモンに、きちんとその名を呼んだあなたに」
「黙っていてすみません、ラディス先生」
「ふふ。驚かせてごめんよ」
シモンがラディスに向かって深々と頭を垂れ、アミルヴェラはリィンの顎に手を添えて、開きっぱなしのリィンの口を閉じた。
「なるほどな。確かに二つの仕事を完璧にこなすのは素晴らしい才能だ。こんな面倒な事をしているのは未来を見据えての事か」
ラディスの言葉にシモンとアミルヴェラは同時に彼を見上げた。動きも連動しているみたいに一緒だ。ラディスは口角を持ち上げて微笑を浮かべ、続ける。
「未来の女帝候補と言うべきかな。アミルヴェラ」
一拍置いて、またしてもリィンの顎ががくんと落ちた。
「……そこまで見抜いていましたか。この一瞬で?」
「俺は医者だぜ。そういうのは身なりだけでは隠せないもんなんだ」
女性だったのか。アミルは。
人の事は言えないが、あらためてまじまじとアミルヴェラを見つめる。黒の短髪にくりっとした緑の瞳。背筋の伸びた姿勢で黒の制服を着こなす彼女はやはり、青年にしか見えない。
「全く。シャウナの奴はどうしてこうも癖のある者を集めたがるのか」
「あなたはやはり、噂に違わぬお人のようです。とても面白い」
「もう一つ。お前達の入れ替えにテンペイジが気付いていないと思っていたか?」
「え?」
またしてもシモンとアミルヴェラが同時に声を上げた。あまりに同調している為に、二人の声が一人分にしか聞こえなかった。
「あの人は忙しいからな。お前達のゲームに付き合ってる暇はないんだ。気付いていないふりをしているんだよ。入れ替わろうが仕事が完璧ならば支障はないだろう? だからだ」
双子はゆっくりと顔を見合わせ、そしてまたラディスに視線を戻す。
「そうだったんですか……」
ぴったりと重なる二人の声。
「お前達の上司は一筋縄ではいかんぞ。良く勉強するといい。……もう時間だ」
ラディスは静かに経緯を見守っていたルセロに視線を合わせ、
「日暮れまでだ」
と言い置いて、双子を連れて大学校の廊下の先へ消えて行った。長身の背を見送るリィンの肩にルセロがそっと手を添える。
「彼っていつも忙しそうだね」
「うん」
「どこに行っても人を魅了する」
「うん。……詐欺師になったら荒稼ぎ出来る」
「ああ、本当だ。じゃあ行こうか。日暮れまでに君を返さないと殺される」
ルセロがリィンに笑いかけ、二人は大学校を後にした。