007.5
先に寝ていろと言われたが、そんな訳にはいかない。
リィンは寝たふりをしてやりすごし、しばらくして剣を手にしたラディスが部屋を出ていったのを確認してから気配を殺して足音を消し、後をつけた。そしてベレンダイの道場に灯がともり、ラディスとロジエルの手合わせが始まったのだった。驚きつつ、身を隠し息を詰めてじっと見守った。
二人の剣さばきは尋常ではなく、その動きは目で追うのがやっとの程だ。本気で剣を扱う、鬼のように強いラディスと対等に渡り合う、少年のロジエル。彼の秘められた才能は本物であり、しかも伸び白は未知数。たった今、それをはっきりと実感した。
その時、自分の背後に何者かの気配を感じ、リィンは反射的に振り返った。目を細めて廊下の先を睨みつける。闇の中からおどおどとした影が現れ、相手はリィンの殺気に怯えつつ囁いた。
「す、すみません」
黒の短髪に緑の瞳。シモンだ。今は制服ではなくブラウスに黒のズボンという格好。リィンはふっと小さく息を吐き出して肩の力を抜いた。
「……すごいですね。あの少年」
シモンの視線はリィンを通り越し、道場の二人に注がれていた。驚いているような感嘆しているような、そんな表情。昼間会った時の人を食ったような彼ではなく、控えめで大人しい印象のシモンだった。リィンとシモンは寄り添うように壁に張り付いて、二人の勝負に無言で見入った。
ロジエルの動きが徐々に研ぎ澄まされてゆく。速い。ほんの瞬きの間ほど、たった僅かのずれが生じ、ラディスの左腕に少年の剣が当たったように見えた。鮮やかにラディスの服が切れ、次の瞬間にはロジエルの動きが唐突に止まった。
無意識にリィンの身体が反応し飛び出そうとしたところを、シモンが両腕で押し留めた。抱き寄せられる格好になり、リィンはシモンを見上げる。彼は先にいる二人に視線を向けたまま、小さく呟いた。
「先生は大丈夫です。避けられたのに、そうしなかった」
「え……」
決着しラディスが剣を収め、白い布で手早く腕の傷を覆う。
「なるほど」
シモンが感慨深げな囁きを落とした。間近で見ると、ひょろりとした体躯の彼ではあるが顔の輪郭は少しふっくらとしている。リィンがもの問いたげな顔を向けると、その視線を感じたのか彼が口を開く。
「固く閉ざしていたあの少年の心に、先生はどのようにして入ってゆくのかと考えていたんです。驚いた……。とても単純で、強引な手口でした」
「どういう事?」
リィンとシモンはひそひそと言葉を交わす。
「あれは、わざと切られたんです。緊張と緩和。共有と無償の赦し。ほら見て下さい」
道場の灯の中にいる二人は座り込んいて、ラディスの朗らかな笑い声が聞こえて来た。ロジエルの声がして、二人の会話が始まる。確かに二人の距離がぐっと縮まったような気がする。
「最初に迷いの道に風穴をこじ開けて、開きかけていた扉を鷲掴みにして押し入る。……先生らしい」
リィンは先にいるラディスとロジエルをぼんやりと眺め、そういえば、と思い起こす。
自分も随分前にラディスを傷つけた事があった。短剣で彼の脇腹を突き刺したのだ。出会ってすぐの事だ。とても申し訳ない気持ちになり、自分でした事だったのだがひどくショックを受けた。しかしラディスはそれさえも全てを受け入れてくれたのだ。そこまで考えて、待てよ、と思う。
「それじゃああれも……」
「誰だ! 神聖な道場を無断で使っているのは!」
自分達のいる廊下の向かいにある通路から野太い声がして足音が響いた。暗闇の中リィンとシモンは身を固くして息を殺す。道場にいるラディスはロジエルを軽々と抱え上げて、中庭の芝へと駈け出してゆく。
「こらっ! 待たんか!」
道着姿で口髭を生やした師範の姿が灯の中に現れた時には、二人は既に逃げ出した後だった。リィンは無意識に呟く。
「まさかこれも、計算のうち?」
「……かもしれません」
「なっ……。ラディスって」
恐ろしい。何だか騙されたような気がしてくる。そこで、自分の身体を抑え込んでいる両腕に気付いた。
「あの、シモン。もう離してくれて大丈夫だよ」
「あ! うわわっ! す、すみませんっ」
シモンは両腕を頭の上まで掲げ、慌てふためいて何度もリィンに謝った。彼の狼狽ぶりに笑い、手を振って別れた。何だかとっても不思議な人だ。昼間にほっぺを舐めた人物だとは思えない。リィンは頭を掻きながら薄暗い廊下を歩いて部屋へと戻った。
その小さな背を、じっと見つめるシモン。ゆっくりと片手を動かし拳を作り、口元に当てて笑った。
「柔らかくて良い匂いだ」
暗闇でにっこりと微笑む。
◇◇◇◆
手当てを済ませて部屋に帰って来たラディスを待ち構え、リィンは彼を睨みつけて言い放った。
「あんたって、おっかない奴だ。詐欺師だ。腹黒悪魔だ」
扉の取っ手を持ったままのラディスが、ぽかんとした表情でリィンを見つめ返す。
「急に罵るなよ。押し倒したくなる」
「な、何だよ。訳わかんない」
「ああ……さすがに疲れた。リィン、水をくれ」
頬をぷっと膨らませながらテーブルにある瓶を鷲掴み、グラスにごぼごぼと冷えた水を注ぐ。ラディスが年寄り臭い呻き声を上げて椅子に座り、手渡されたグラスを傾けて一気に飲み干した。リィンは向かいの席に腰を下ろし頬杖をつく。
「そんなに使って平気なの……右腕」
「まずまずの仕上がりだ」
そう言う割には少し辛そうである。椅子に深く凭れ目を閉じている彼の眉間に、僅かにしわが寄っている。痛みがあるに違いない。
ラディスは詐欺師で腹黒い。だけど、いつだって真剣に相手に向かってゆく。
「ラディス」
「ん」
「あんたってすごいや」
「……当たり前の事を言うな」
リィンはくすりと微笑んだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回こんな中途半端な回を作ってしまいました。
どうにも入れ込む事が出来ず、しかし必要だと判断しての0.5話。
どないやねん。
多々お見苦しい点あるかと思います。すみません。
残すところあと六話。立ち寄ってくださる方々に、深く感謝を。