007
「ロジエル!」
しまった。見つかった。聞こえないふりを決め込み、すたすたと歩き続ける。芝を踏んでやってくる足音が聞こえ、ぽんと肩に手を置かれた。
「ロジエル、無視するなってば」
赤茶の瞳と目が合う。こいつは今日も律儀に道場の道着を着ている。ロジエルは足を止め、わざと大きなため息をついてリィンに告げた。
「今日はやらないかんな」
「何でだよ」
「そんな気分じゃない」
というより、動けない。昨夜の疲れがまだ残っている。あの後結局夜更けまで剣を振るっていた。ラディスの策に自分がまんまと嵌まっているような気がして、それが気に食わないが……。だけどやっぱり、剣を扱っている時間が一番好きだ。その上やっと自分が本気を出しても負かす事の出来ない相手に出会えたのだ。全力で行う勝負はとても楽しかった。
ラディスは最初に言った通り、剣術に関して指導するような事は一切口にしなかった。しかし他人とじっくりと剣を交えてみて色々と分かった事が、数多くあった。今まではそんな機会さえなかったのだ。
「何だ、つまんない」
リィンの素直な言葉を聞いて、ロジエルは頬を赤く染めた。その初めての反応にリィンの目が丸くなる。
「ロジ……」
「あ、明日な!」
言い捨てて急いで駈け出した。疲れているせいで身体が重かったが、何とか足を動かした。心臓が弾む。大学校の広い庭園を突っ切るように駆けながら、ロジエルの口元がこらえ切れずにんまりと微笑んでいった。駆けているせいで風を受け、長めに伸ばしている前髪が後ろへと流れる。視界がぱっと開けたみたいだ。
嬉しかった。単純に。自分との時間をそんな風に思ってくれる、他人がいる事が。
今日はもう家に帰って寝てしまおう。母さんが心配するかな。でもちょっとでも体力を残しておかないと。今夜は自分の剣を持ってこいと言われた。本物の剣で勝負をするなんて、久しぶりだ。わくわくする。
◇◇◇◆
小さくなってゆくロジエルの後ろ姿を見送り、リィンは首を傾げて道場へと帰った。そこで師範より自分に来客があったようだとの伝言を受け、サンダルを履いて大学校へと足を向けた。
「リィンさん。こっちですよ」
道場から大学校の庭園を横切って中庭に回り、廊下に上がったところでレーヌ族の青年に声をかけられた。黒の短髪、ひょろながの体躯。確かラディスと一緒にいた、シモンという名の青年だ。ぺこりとお辞儀をしながら近づいてゆくと、シモンは微笑を浮かべてリィンを見下ろした。
「へえ。可愛い人だ」
ぎょっとしてシモンを見上げる。黒地に金の線が入った枢機議会の制服姿で両手を腰に当て、にこにこと微笑んでいる。
「お客さんがお待ちですよ。私が案内します」
彼は自然な動作でリィンの腰に手を回し、先を促すように歩き出した。リィンは唖然としつつそれに従う。以前に会った時とは何だか雰囲気が違うようだ。
「あなたが護衛なんていう危険な仕事をしているなんてね。とても麗しい女性であるのに」
「……は?」
鮮やかな緑の瞳がリィンを見つめている。シモンが腰をかがめて、ぐっと顔を近づけてきた。彼は意外にくりっとした目をしていて、中性的な雰囲気がある。
「ラディス先生がとても大事にされているようだ。……先生のご苦労は絶えないだろうな」
「あの?」
リィンは僅かに眉を寄せてシモンを見つめ返す。相手は楽しそうに笑っている。
「綺麗な肌」
囁いて、リィンの頬に素早くキスして、舌を出して舐めた。リィンは突然の言いようのない感触に驚き、ぬわ、と奇妙な声を上げ勢い良く後ずさる。
「その反応もまた可愛い」
片手で拳を作り、それを口元に当てて彼は笑っていた。
「シ、シモン!?」
「何です?」
「君、二重人格?」
訝しむリィンをよそに、シモンは声を上げて笑い出した。何がおかしいのだろう……。リィンは舐められた頬を拭い、顔をしかめた。
「そう思っていただいて結構です」
「……勝手に、他人のほっぺを舐めるのは良くないと思う」
すみません、と微笑んで、彼はリィンの肩に手を回し歩き出す。リィンは憮然として彼を見上げるが、シモンは一向に気にしていないようだ。長い廊下の向かいから大学校の深緑の制服を着た女性があらわれ、こちらを見て会釈をした。
「ああ、こちらにいらっしゃったんですね。すみません、リィンさん。お客様は先程帰られまして、また明日来ると伝言をお預かりしました」
告げて、女性はまた会釈をして去って行った。シモンは芝居がかった仕草で片手を額に当てて天を仰いだ。
「残念。もっと早くお呼びすれば良かった。すみません。ですが私はこうしてあなたにお会い出来た事に感謝しますよ」
「はあ……。じゃあ僕、道場に戻っても良いですか」
「ああ。そうですね。失礼しました」
リィンは首をひねって道場へと歩き始める。背後を振り返るとシモンがまだこちらを見ており、笑顔でひらひらと片手を振っていた。
◇◇◆◆
「そ、それっ! その剣!!」
夜の静寂に包まれたベレンダイの道場に、ロジエルの声が響き渡った。今夜は曇っていて月が出ていない為に、ランプの灯が点々と照らす道場にロジエルとラディスはいた。
「知ってるのか。さてはお前もあの自叙伝を読んだくちか」
「知ってるも何もっ! そ、それは剣豪ベレンダイが持ってたっていう名剣……。伝説の刀匠、ヤゴフレットの最後の一振り!」
ラディスが面白そうな表情で眉を上げた。
「随分と大げさな言い方だな」
彼が片手で持っている剣は、あのベレンダイの自叙伝にも描かれているものだ。柄の部分にレーヌ国の紋章が描かれ、柄頭には一粒の小さな結晶石が嵌め込まれている。人を斬るようには出来ていない、特別な細工が施された剣。持つ者を選び、その腕を問う、意思を持った剣だ。余程の腕ではない限り、これで人を斬る事は出来ないと解説されていた。そんな歴史的にも偉大な名剣を、何でこいつが持ってるんだ。
「あ、あんたまさか。あんたの剣の師って」
「べレンダイだ」
さらりと告げられた答えに、ロジエルは息をのんで目を見開いた。
あの! 伝説の剣豪の弟子!? こいつが! ……どおりで強いわけだ。
「とにかく始めるぞ。勝手に道場を借りてるからな、見つかったら怒られる。俺はここの師範達がどうも苦手でな」
愕然としているロジエルにはお構いなしに彼は右腕で剣を構え、あの独特の呼吸を繰り返して集中力を高めてゆく。その一息ごとに、周囲の空気が冷えて張りつめる。気合を入れて立っていなければ、恐ろしい程の殺気に当てられて動けなくなってしまう。ロジエルは慌てて目の前のラディスに集中する。
「ロジエル」
「……何」
「本気を出せよ。気を散らさず一点に意識を込めろ。そうしなければ怪我をする」
緊張が高まる。冷徹な程に落ち着いたラディスの全身から立ちのぼる気配に、ロジエルはじわりと冷たい汗をかいた。
「行くぞ」
高い金属音が、静謐な空間を切り裂いた。
ただただ、無心で剣を振るった。頭で考えている暇なんてない。集中力を高め息をつめて、相手の動きを感じ取る。目だけではなく、全身で。すると自然と身体がすぐさま反応するのだ。
相手の身体が僅かに右に傾ぐ。片方の足に重心が寄り鋭い呼吸音が耳を掠める。それだけで次の一手を読んで、先んじて攻撃をしかける。しかし自分のその動きもまた相手に読まれている。防がれ、一歩退いてもう一度軽やかに踏み込んでゆく。
ここまで自分が動けるとは思わなかった。まだまだ、やれる。もっと、もっと速く動くんだ。こんなもんじゃ相手は倒せない。もっと速く、もっと重い一撃を。
楽しい。
何て楽しいんだろう!
剣を持つ手に今までにない感触が走り、ロジエルは我にかえった。ぱっと真っ赤な液体が道場の床に数滴落ちていった。それが人の血液である事を認識した少年の身体から、一気に血の気が引いた。悪寒がぞわりと全身を駆け抜ける。目の前にいるラディスの、左の二の腕あたりの服がすっぱりと切れて、そこから血が流れている。自分の持っている剣の先が少しだけ赤く染まっていた。
何て事だ! 斬ってしまった!!
その時、力の漲るラディスの瞳が一瞬で目の前から消えた。ロジエルの剣が弾き飛ばされ、首元で彼の剣がぴたりと止まった。瞬間に身体が強張る。あまりの速さに何の反応も出来なかった。
「勝負あったな」
肩で息をしながらラディスが笑った。ゆったりとした動作でロジエルから離れ、剣を鞘に納める。ロジエルは彼を凝視したままよろよろと後ずさった。
「途中で急に気を抜くな。刺しちまうところだった」
ラディスはズボンに手を入れて白い布を取り出し、端を口に挟んで素早く左腕に巻き付けて縛り上げた。それから乱暴にも足の裏で床に落ちた血を拭った。ロジエルはその場にへたり込んで尻もちをつき、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。必死に言葉を構築しようと試みるのだが、うまくいかない。
人を傷つけてしまった。何て事をしてしまったのか。自分の剣が、人を傷つけ、血が流れた。
「お、お、俺……」
傷つけてしまった。こんな自分を気にかけてくれた人を。ラディスを、傷つけてしまった。どうしよう。何て言えば……。
「おいおい。そんな死にそうな顔をするなよ。かすっただけだぜ」
目の前にどっかりとあぐらをかいて、ラディスが顔をのぞきこんできた。薄茶色の髪が汗で額に張り付いている。
「で、でも」
「くっ……」
突然、声を上げて笑い出した。心底楽しそうな笑い声。愕然とする自分の事なんかそっちのけで、目の前で笑っている男。何。何なんだ。
混乱していたロジエルの意識が、だんだんと覚醒してゆく。
「何だよ!」
「くく……。お前は何とも可愛げがあると思ってな」
赤面しつつ、むっとする。
「あいつなんかもっとひどかったぞ。リィンは俺の脇腹をぶすりと串刺しにした事がある」
「ええッ!!」
「あれはさすがに痛かった」
ロジエルはこれ以上出来ない程に目をむいて口を開け、彼の整った顔を見つめた。
「な、何て凶暴な女なんだ……」
「そうだろう? 今の今まで俺も忘れていた」
肩の力が抜ける。やわやわと口元が緩み、思わず笑ってしまった。
……ラディスはこんな事で怒ったりしないのか。良かった。
緊張がほぐれると、どっと疲れが全身に押し寄せて来た。心地の良い疲れだった。ばったりと仰向けに倒れ込むと、薄闇に溶ける道場の高い天井が見えた。
「あっはは……疲れて動けないや」
「全くだ。俺も年かな」
「おっさんにはこたえるだろ」
「こんな美形を捕まえておっさんはないだろう」
「……自分でそんな事言って、恥ずかしくないの」
「どこに恥ずかしがる必要がある。それが事実だ」
「偉そうに」
「現に俺は偉いからな。仕方ない」
「……あっそう」
「誰だ! 神聖な道場を無断で使っているのは!」
びりびりと響く野太い声にぎょっとして、慌てて身体を起こして振り返った。遠くの出入り口に人がやってくる気配がするが、暗くて分からない。突然に身体がぐらりと持ち上がった。
「わわ、ちょっと!」
「さっさとずらかるぞ」
ラディスがロジエルを片腕でかかえ上げて、空いている手に剣を二本持って駈け出した。
「こらっ! 待たんか!」
背後から声が追いかけてくる。ラディスはそのまま広い芝を駆け抜け、一目散に逃げた。どうやら本当にあそこの師範が苦手らしい。自分と一緒だ。こんな大きい大人なのに……。笑ってしまう。
それから大学校の出入り口まで送られ、家まで送ると言うラディスを押し返して家へと駆けて帰った。
「明日も来いよ。仕上げだ」
うん、分かった。心の中だけで返事をした。




