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少年と剣  作者: 茂治
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006

 ここに来れば、答えが見つかると思っていた。

 ここに来れば、きっと、全てが良い方向へ変わってゆくと信じていた。

 だが実際はどうだ。何一つ変わらない。


「頑張ってくるんだよ、ロジエル。母さんも今日は仕事だからね。そういえば昨日は随分遅くに帰ってきたみたいだけど、大丈夫なの?」


 玄関口で母が心配顔を向けている。黒の髪を一つに結わえ、白のブラウスに薄緑のスカートに前掛け。頬にはそばかすが散っていて少し垂れ気味の両目は、いつも眠たそうに見える。その目は自分と同じロガート族特有のもの。黒の瞳に光が反射すると銀灰色に輝く。


「ちょっと残って稽古してただけだよ」

「まあ。一生懸命なのは良いけど、あんまり根詰めたらいけないよ」

「……行ってきます」


 にこにこと微笑む母にちらりと視線をやって、ロジエルは朝日に輝く石畳の上を道場に向かって歩き出した。

 今日も嫌味なくらいの青い空。きらきらと輝く緑に民家の赤い屋根。坂道の多い町には澄んだ水を湛える用水路が小川のように流れ、小さな橋が点々と架けられている。そこをなるべくゆっくりと歩く。

 遠くからでも巨大な遺跡みたいな大学校の茶色い校舎と、大聖堂の真っ白な円天井が緑の中から聳えているのが見える。自然と憂鬱なため息が口からこぼれた。


*


 剣術道場にはあの伝説の剣豪ベレンダイがいるのかと思っていたら、本人は数年前、とっくに他界していた。

 彼の自叙伝や剣術指南書を何度となく読んだ。本が擦り切れるまで、暗記するまで、読み込んで剣術を身につけたのだ。ベレンダイ先生に会えれば、きっと自分は変われると思っていた。なのに来てみたらその先生はいない。手合わせをしてみたら、すんなりと勝ってしまった。それから皆の目つきが変わったのを、肌で感じ取った。怯えているのだ。

 何故、一度も師の元で剣術を学んだ事のない子供が、これ程強いのか。尋常ではない。やはりロガート族の血が、そうさせるのだろう。


 ロガート族は武芸に長けた者が多い種族である。好戦的で、攻撃的。ロガート国は現在でさえ他国に心を開かず、軍事国家として世界を威圧している。国境沿いでは常に小競り合いが勃発し、緊張状態が続いているのだ。その上良くない噂が後を絶たない。

 今はあの異形の怪物、イグルを戦争の兵器に育て上げようと恐ろしい研究をしているともっぱらの噂。人を拉致してはイグルの毒をその体内に入れて感染させ、ヒト型のイグルを作り出しては実験を繰り返しているとか……。だからグナーの村にいた時も、ロガート族の者達は随分と肩身の狭い思いをしていた。

 その国から逃れてきた移民なのだが、他の種族の人々は自分達を恐れ、嫌がるのだ。


 ロジエルは母と二人きり、ひっそりとその村で暮らしていた。面と向かって苛められたり嫌がらせを受けたりする事はなかったが、ひそひそと陰口をたたかれていたのは知っていた。いつも常に壁を感じていた。埋めようのない深い溝が、自分達と他の種族の人々との間に闇を落としているのだ。

 自分達が何をしたというのだろう。辛い毎日を送り、やっとそこから逃れて来たというのに……。悔しくて仕方なかった。怒りのやり場がどこにもなかった。だから一人、剣を振るった。

 夜、月明かりの落ちる原っぱで、一人きりで無心になって剣を扱っていると不思議と心が落ち着いた。

 剣の腕はぐんぐんと上達していった。それ程好きなら、と母が二つ先の村にある剣術学校に通わせてくれた。しかしそこも僅か数日で辞めてしまった。先生と呼ばれている大人が、ロジエルに対してあの目つきをしたからだった。

 そんな奴に教わるものなんか、一つもあるものか。


 この頃だった。三つの村の合同で、剣技大会が行われたのだ。グナーの村からはロジエルの他に四名の腕に自信のある者が選出された。けれどロジエルは嫌でたまらなかった。こんな時だけ、自分をまつり上げようとする大人達に嫌気がさした。しかし母がとても嬉しがって泣いて喜んだので、しぶしぶ大会へは出場した。結果は優勝を逃し二位であった。村の人々や母が良くやったと褒めてくれたが、本当は、優勝出来た戦いだった。やる気がなかっただけだ。

 その大会の会場にはレーヌ国の女王陛下シャウナルーズ・ルメンディアナが来賓として出席されていた。この国の女帝は、こんな小さな村の大会へも足を運ぶのかとロジエルは驚いた。そして更に驚いた事に、たった一人の護衛だけを連れて村を訪れ、ロジエルの粗末な家にやって来たのだった。薄っぺらくてがたがたのテーブル席に座って、母の淹れた薄い茶を飲んで、ロジエルに微笑んだのだ。

 こんなに綺麗な微笑みは、今まで一度も見た事がなかった。

 こんなに優しいまなざしを、今まで一度も、母以外の人から向けられた事はなかった。


 お主には剣術の才があろう。どうだ、我の元に来ぬか?


 女帝は多くは語らなかった。ロジエルは彼女の美しい顔を見つめ愕然とし、母はその後ろでしきりに恐縮し、また目に涙を浮かべていた。


 レーヌの首都に移り住んで、ベレンダイの道場で全員を負かしてから、幾日も無為な時間を過ごした。

 ある日ルキリア国から、とてつもなく強く、大学校始まって以来の天才とも称される者が帰ってくるという連絡が入った。シャウナルーズ様やテンペイジ議長からも絶大な信頼を寄せられる人物。更にその護衛としてもう一人、イリアス族の英雄の子供も一緒だという。その子供はイリアス族を真の解放に導いた人物なのだそうだ。皆がそんな一報にうかれて頬を紅潮させた。

 それがラディス・ハイゼルとその護衛、リィンだった。


 ロジエルもその二人には興味を持った。何せ聞いたところによれば、二人はとんでもなく過酷な人生を歩んでいるのだ。それにイリアス族にも興味がある。

 十八年前までルキリア族に奴隷として虐げられ、永い歴史の中で差別と迫害を受けてきた種族だ。ルキリア国内に発令されていた、イリアス族に対する警戒令が解かれたのもつい最近の事。世界を牛耳るルキリア族の取り決めが、全世界に及ぼす影響は大きい。イリアス族は自らの国を持たない流浪の民だ。国を離れ細々と暮らす移民の自分とも共通点があるような気がした。

 しかしそれも実際に当人達を見てみたら、期待はずれでとてもがっかりした。

 イリアス族のリィンは予想に反して女性だったし、ロジエルが考えていたような人物ではなかった。それにラディス・ハイゼルは左目と右腕を負傷して以前のように剣を振るえなくなっているらしい。一部の大人達が嗤って話しているのを聞いた。確かにびっくりする程の美形だが、それだけだ。

 原因不明の苛々が募る。

 どうしてあんなに笑っていられるのか。どうして明るく他の奴らと会話が出来るのか。リィンの屈託のない振る舞いが、やけに目につく。あいつはきっと、たいして苦しい思いなんかしていないのだ。

だってそうだろう。人に苛められたりしていたら、あんな風に他人に心を開いたり出来なくなるはずだ。恵まれてるんだ。そう思った。

 剣の腕だって強い部類には入るだろうが、自分よりかは遥かに弱い。馬鹿みたいだ。こんな奴をちやほやする周りの連中もどうかしてる。こんな女を護衛にしているラディスだって、同じだ。馬鹿ばっかりだ。また一気に心がさめていった。

 何も変わらない。ここにも自分に教えてくれる人はいなかった。答えはなかった。

 誰も、いなかった。


 そう思っていた。あの時までは。


*


 夜も更け、中庭の背の低い木々の中でロジエルはじっと息を殺して身を潜めていた。高い空には満月より少し欠けた月が昇っている。むっとする程の緑の匂いと涼やかな虫の音が薄暗い闇夜を包む。その中に佇むロジエルの視線の先には、ランプの黄色い灯りが漏れる窓。校舎のあの部屋の窓に灯りがついてからだいぶ時間がたつ。あそこは来客用の部屋ではないのだが、確かにあいつらが入って行った……。

 ロジエルはその日一日をレーヌの町や大学校の広大な庭園などで過ごした。へたに道場に近づいたら、リィンに見つかって面倒な事になるので、気をつけながら相手の動向を探った。何とかして接触する機会を狙っていたのだが、相手は常に忙しそうに動いている為に近づくチャンスが全くなかった。結果、またこんな時間までかかってしまった。

 よし、と勇気を振り絞ってすっくと立ち上がる。周囲に誰もいない事を確認して、ロジエルは一直線にその部屋目指して、駆けた。中庭から大学校のつるつるの廊下に上がり、そろりと足音を忍ばせて、部屋の扉の前でまたじっと気配を殺す。ここまで来ておいて何だが、この扉の取っ手を掴む勇気が出てこなかった。

 やっぱりやめようか……帰ろうかな。


「突っ立ってないで、入れよ」


 突然、部屋の中から聞こえて来た声に驚き、身体がびくりと小さく飛び上がった。心臓が口から飛び出るかと思った。

 何だ……ばれてたのか。観念してそろりと扉を開き、室内の明るさに目を細めた。この部屋は書斎のようで壁一面が書棚で埋め尽くされている。その前に幅広の作業机があり、ラディスがそこで何やら書き物をしていた。机の隅には書物がうず高く積み上げられている。慎重に足を運び、後ろ手で扉を閉め、そこで気がついた。部屋の隅にある長椅子に横になって眠っているリィンがいた。薄手のシーツがかけられている。気の抜けた寝顔を見て、張りつめていた緊張がぷつんと途切れてしまった。ロジエルはふうと息を吐き出す。


「……護衛の意味、ないじゃないか」

「まあそう言うな。誰かさんが今日一日、殺気のこもった目で俺の事を睨みつけるもんだから、こいつはずっと気を張りっぱなしだった」


 はっとして顔を上げるとラディスは書き物をしていた手を休め、こちらに顔を向けていた。今は黒い眼帯ではなく、片っぽだけのレンズが高い鼻にひっかかっている。目が合うと、にっと笑顔になった。


「遅かったな」

「え……」

「昨日には来るかと思っていた」


 ぎくりとする。本当は昨日もすぐ近くまで来ていたのだ。リィンの凄まじい殺気に、動けなくなってしまって急いで逃げ帰った。あんなに恐ろしい気配をまとう奴だとは思っていないかったし、それが今長椅子でぐうすか寝ているこいつと、同一人物とは到底思えない。

 ラディスが眼鏡を外して席を立った。


「ついてこい」


 ずかずかと扉に向かってやってくる。その手には練習用の木剣が、二本。ロジエルは慌てて憮然とした表情を作り、口を開いた。


「お、俺、別に! そういうつもりで来たわけじゃっ」


 すぐ傍まで来ていたラディスがきょとんとした顔で少年を見下ろす。


「ん? じゃあ何の為に来た」

「前に言った事、取り消してもらう為に」

「何だそれは」

「俺の成長が止まるとか、勝手に決めつけて……」


 くく、と低い笑い声が聞こえた。ロジエルはむっとして見上げるようにラディスを睨みつける。彼の青い瞳の奥が、黄金色に光っていた。


「悔しいか? だったら俺を負かせてみろよ」


 言い置いて先に部屋を出て行ってしまう。


「ちょっ……」


 振り返るが、背の高い後ろ姿は既にすたすたと廊下を歩いて遠ざかろうとしていた。ロジエルはいまいましげにその背を睨む。

 どうして俺が従わなきゃいけないんだよ! 絶対についていくもんか!

 しん、と部屋が静まりかえる。書斎に取り残された自分。ぐうぐう寝ているリィン。これじゃあ何の為にここに来たのか分からない。今日一日が無駄になってしまう。

 何て強引な奴! 何て勝手な奴! 何であんなに偉そうなんだよ!


「これだから、大人って嫌いだっ!」


 ロジエルは憤慨しながら足早にラディスの後を追った。


 月明かりの落ちる芝の上で、やっと彼の足が止まった。振り返り、ロジエルに向かって木剣を投げて寄こす。ロジエルは器用にそれを受け止めて視線を足元に落とし、もう一度彼に言った。


「……別に剣術を教わるつもりも稽古をつけてもらうつもりも、一切ないんだけど」

「分かってる。俺の右腕のリハビリに付き合ってくれ。俺の相手が出来るのは、お前くらいだ」

「何でそんな事」

「お前はもっと強くなりたいんだろう?」


 おそるおそる顔を上げる。先に立つ長身の彼はこちらを真っ直ぐに見つめていた。薄茶色の柔らかそうな髪。青い瞳は闇に沈んでいるが、その奥の金色が輝いている。上品な鼻筋にすっきりとした顎の曲線。 左右対称の、嘘みたいに圧倒的な美しさ。切れ長の瞳に見つめられ、ロジエルは思わず見惚れてしまった。


「俺はお前にはない技術を持ってる。俺を踏み台にすれば良い。使えるもんは利用しろよ。俺もお前を利用してる」


 と言って、上手に口元を持ち上げ不敵に笑う。


「ふ、ふん」


 ロジエルは静かに木剣を両手で構えた。顔が熱い。不覚にも彼の顔に見惚れてしまった事が腹立たしい。

 そこまで言うんなら、利用してやる。あいつの技術を盗んで強くなって負かしてやれば、きっと気持ちがすっとするに違いない。


◇◇◇◆


 ふわりと優しい香りを嗅いだ気がして、リィンはうっすらと瞳を開いた。すぐ近くに温もりを感じる。身体がふわふわと揺れていて心地良く、まどろみの中でまた目を閉じた。

 書斎にいたところまでは覚えている。どうやら自分はそこで寝てしまい、今ラディスに抱き上げられて運ばれている途中だと気付く。


「……ごめん」

「寝てて良いぞ」


 リィンは寝ぼけたままラディスの首元に頬ずりをした。ああ、良い匂い。リィンの頬が、彼の素肌に触れている。しっとりとした感触。無意識に鼻を押し当てて匂いを嗅ぐ。あれ……。


「ラディス……汗かいてる」


 ふん、と鼻で笑った気配。


「お前を犬と間違えそうだ」


 どうして汗なんか、と思いながら、強烈な眠気に耐え切れずリィンは深い眠りへと落ちていった。



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