005
風呂で汗を流し濡れた髪を布で拭いつつ、ラディスは部屋に戻った。室内は繊細な彫刻が施された調度品が並び、大きく開いた窓から月の光が差し込んでそれらを青白く照らしていた。ベッドには壁に背を凭れたリィンが、今にも眠りに落ちてゆきそうな顔で書物を開いて頑張っている。最近の愛読書は剣豪ベレンダイが書き遺したと言われている剣術指南書だ。しかしそれはベレンダイが書いたものではない事をラディスは知っていた。あのぐうたらな剣術の師匠は、そんな甲斐甲斐しい事をするような人物ではなかった。あれは彼の弟子が書き上げたものだ。
ベッドの脇机にあるランプの温かな灯が、リィンの整った横顔を照らしている。白く透き通るような頬はほんのりと赤く色づいていた。ベッドの脇に腰を下ろしふっくらとした頬を指先で撫でると、とろんとした赤茶の瞳がこちらを見つめてくる。
「顔が赤いな」
「ん……少しお酒飲んだから」
柔らかな栗色の髪に指を通し梳いてやると、リィンは気持ち良さそうに目を細めた。
酒が苦手なリィンだったが、ここに来てからというもの酒好きなシャウナルーズのせいで、少しばかり晩酌に付き合う程度には飲むようになった。グラスに半分も飲まないうちに顔が真っ赤になる。本当は飲ませたくはないのだが女帝の酌を断るわけにもいかず、ラディスはしぶしぶ目をつぶっていた。
白く細い指先がラディスの左目の下あたりを優しく触れる。
「左目、こっちだけ少し紫色で、すっごく綺麗なんだ」
「そうか?」
「うん……」
リィンは常日頃、凜とした空気をその身にまとっている。それは自らのイリアス族の『力』を支配し制御する為に神経を張り巡らせている必要があるからだ。その上今までずっと男性として生きてきているおかげで、今では無意識にしている事なのだろう。
イリアス族の女性であるというだけで、危険な世界だ。気まぐれや遊びではなく生き延びる為に、性別を偽っている。しかし気を抜くと全くの無防備。隙だらけのぐにゃぐにゃになるので、こちらとしては気が気ではない。
酒に酔ったリィンは、強烈な色気を醸し出す。
「はあ……ラディス。良い匂い。……好きだ」
その上思った事をそのまま口にする。危険極まりない。
「もう寝ろ」
手元にある書物を取り上げて額に口付けると、細い腕を伸ばしてしがみついてきた。ラディスはその柔らかな温もりに、一瞬恍惚となる。
「……おい。大人しく寝ないと襲うぞ」
言いながら、しかし既にラディスの指先はリィンの脇腹を撫でていた。滑らかな素肌。程良く引き締まった身体に、柔らかな弾力。
「んん」
くすぐったそうに身をよじって顔を上げたリィンに、吸い寄せられるように口付けを落とす。リィンの形の良い唇に何度も口付け、二人の呼吸が浅くなり色づいてゆく。
「あ……ラディス。ラディ、……」
「リィン……」
口付けは徐々に熱を帯び、深いものへと変わった。華奢な身体を抱き寄せ、ゆっくりとベッドへ沈める。ブラウスの下から細くしなやかな足がのぞいていた。
どうしようもなく、欲しいと思う。リィンの全てが愛おしい。
まるで初めてその快楽を知った頃に戻ってしまったようだ。より強く、夢中になって求めてしまう。
「ん、ン……ッあ……」
リィンが身じろいで顔を横にずらし、両手で胸の辺りを押し返してきた。
「ラ、ラディス。もう……」
熱い息を吐きながらゆるゆると首を振った。力無く抵抗してくるその姿に、激しく欲情する。
「ん……だめ、だ」
「……リィン。そんなに煽るな。理性がブチ切れそうだ」
「ラディス……だ、だめだって」
リィンが泣きそうな表情でぎゅっと睨みつけている。その瞳は深紅に揺らいでいた。鼻先が触れ合う程の至近距離で睨まれると、たまらない。ブラウスがはだけて白く透き通った鎖骨や肩が露わになっている。
これは……まずい。
「ンッ、ちょっ……やめろってばッ」
うごめくラディスの手をがしりと掴んで、リィンが声を上げた。浅い呼吸。可愛らしい口元に吸いつきたくなる。
「お前があんまりにも可愛いもんだから、苛めたくなった」
「へ、変態っ」
ラディスは意地悪な笑みを返し、銀色のピアスが光るリィンの耳朶を噛んで囁く。
「ああ……そうだ。やっと、気付いたか?」
びく、と身体を竦ませ、リィンが真っ赤な顔で抵抗する。
「もっ……やめ、ろって」
リィンの怪力で胸倉を締め上げられて、ようやくラディスは身体を離した。どうやら完全に覚醒したようだ。そのままベッドへねじ伏せられてしまった。上体を起こしたリィンが肩で息をしてラディスを見下ろす。
「あ、あんた疲れてんだから、ちゃんと寝なきゃダメだろっ」
「睡眠よりお前が欲しい」
「んなっ」
耳まで真っ赤にして口をぱくぱくさせているリィンを眺めて微笑む。ああ……愛しいな。
「それに俺は別に疲れてないんだが」
「そんなわけないだろっ。シャウナルーズ様が言ってたもん」
「何?」
「ラディスにたくさん仕事させてるって。だから疲れてるはずだから、夜はよく眠った方が良いって」
「……あいつめ。地味な嫌がらせをしやがって」
「ラディス!」
むっとした表情のリィン。
「前から言おうと思ってたんだけどさ、あんたシャウナルーズ様に失礼すぎるよっ」
ラディスは眉を上げて答える。
「あのなあ、リィン。お前はどうやらあの女帝を手放しで信頼しているようだが、あいつはかなり抜け目なく計算高い奴なんだぜ」
「何だよそれ。ラディスじゃあるまいし」
聞き捨てならない。これはかなり面白くない展開である。ラディスは腕を伸ばし力づくでリィンを引き寄せて組み敷いた。
「わっ」
細い手首を掴んで押さえつける。じっと赤茶の瞳を見つめると、リィンの頬がまた赤く染まっていった。
「あいつは今頃、俺を操る手綱を手に入れてほくそ笑んでる事だろうな」
「……何。どういう意味」
その問いには答えずふっくらとした唇に軽く口付けると、う、と小さく反応する。
「だ、だからっ! もう寝ろよっ。子守唄うたってやるから!」
「俺は駄々をこねるガキと同じか」
「分かってんなら、ぐずるなよっ」
ラディスは笑ってどさりとベッドに寝転がった。
◇◇◇◆
疲れていないと言っていた彼だったが、子守唄を歌い始めた途端に深い眠りへと落ちていった。温かなランプの灯が美しい寝顔を照らしている。その顔にかかる薄茶色の髪はぼさついていて、まだ濡れていた。リィンは起こさないように布で髪を拭い、ぼんやりとラディスを見つめる。
ブラウスのボタンが適当に止められているせいで彼の広い胸板が見えた。右胸には古い焼印がその肌に刻まれている。イリアス族が奴隷であった頃の残酷な刻印。そっと腕を伸ばしてそれに触れた。他にも引きつれたような無数の傷痕がある。鞭の痕だ。いかに壮絶な拷問を受けたのかが、それで分かる。
短剣が貫通した右腕の傷は一応ふさがってはいたが、日中はまだ包帯を巻いていた。ラディスは何も言わないが、もしかしたらまだ痛むのかも知れない。今は包帯をしていない。右腕の肘のすぐ下あたり、傷口の部分が溝のようにへこんでいて、そこだけ皮膚が薄くなっているみたいに見える。指でなぞるとぼこぼことしていた。いびつな形の傷跡。
この大学校に来てからも、ラディスはずっと忙しそうだった。シャウナルーズ様から聞いた。今は枢機議会の要であるテンペイジ議長と同等の仕事をこなしているのだそうだ。それは通常三つの分野に分担されている大学校の運営、医療関連、政治の分野の全てに精通していなければ成せない事だ。
本当は心配でたまらない。ラディスは一向に自分の事を顧みない。
一度だけ、リィンは彼に黙って『命の力』を使った事がある。まだ傷の癒えない頃、ラディスが寝入った後にこっそりとその『力』を発動させた。自分の命を削って、相手の体力と治癒力を引き上げる事が出来る『力』だ。しかし翌朝目覚めた時、すぐにばれてしまった。普段よりも身体が軽かったそうだ。彼は自分の体調を厳密に管理していたのだ。
怒られるかと思ったらそうではなかった。ひどく辛そうな表情で悲しそうな瞳を向けて、頼むからやめてくれと懇願されたのだ。その時の事を思い出すとまた胸が痛む。
ラディスは僕が『命の力』を使うと、とても傷つく。それ以降リィンは『命の力』を使う事はなかった。使う気すら起きない。彼を傷つけたくないからだ。
ふうと息を吐き出して右腕にある漆黒のブレスレットに触れ、それを外して脇机の上に置く。
何の話をしていたのだろう……。夜の会食での事を思い起こす。ラディスとシャウナルーズ様は、時々声を出さずに会話をするのだ。二人で無言で見つめ合い、視線だけで言葉を交わす。聡明な二人であるからこそ出来得る事なのだろう。自分はそれを黙って見守るだけだ。だって目だけで会話をするなんて芸当が、自分に出来るわけがない。そして二人が交わす内容を理解出来ない自分にいらいらする。少し妬けてしまうけれど、絶対に悟られないようにしているつもりだ。そんな事にまで嫉妬する自分が何だか情けないし、恥ずかしい。
ぼんやりと物思いにふけっていたリィンは、ふと顔を上げて大きく開いた窓を見つめる。
何だ。誰かが、この部屋を見ている。僅かな殺気を感じ取った。外からだ。
するりとベッドから降りて、音を出さずに窓に近寄ってゆく。きりきりと視線が厳しくなり、瞳に深紅の炎が宿る。窓の傍から身体を出さずに外を見渡した。月光に青白く照らされた大学校の庭園。ささやかな虫の音。人の影は見えない。だが確かに誰かがそこにいて、こちらを見ている。
リィンの全身から、鋭い殺気が放たれる。
誰だろうと、許さない。
自分は弱いしそんなに賢くもなくて何も出来ないけれど、今、この安らかな時間だけは護りたいと思う。僕に出来得る限りの事を。せめてこの眠りだけは、誰にも破らせない。
……僕が、護る。




