004
「シャウナ。俺はガキのおもりは御免だぞ」
「ん? 何の事だ」
艶然と微笑む女王陛下。ラディスは腕を組んで大きく息を吐き出した。
目の前の円卓の上には豪華ではないが色とりどりの料理が並んでおり、どれも良い香りを漂わせている。大学校内の応接室の一つ、≪黎明の間≫で夜の会食がこれから行われるところだった。とはいっても集まる顔触れはいつもの面々であろう。今は女帝シャウナルーズとラディスの二人だけが向かい合わせの席についている。給仕の従者が用意を整え、一礼をして部屋を去っていった。
女帝は緑の瞳を細めて楽しそうにラディスを眺めている。鮮やかな緑のストレートの髪は肩のあたりで真っ直ぐに切り揃えられ、前髪も眉の上で直線的に揃えられている。白のドレスに漆黒の宝石が嵌め込まれたペンダントが、ふくよかな胸元で光を放つ。そしてリリーネ・シルラの使徒の証である、貴重な糸で編まれた輝く長布≪清廉なる織布≫を首から下げていた。
つい先程まで会議に出席していた為、彼女はレーヌ国女王陛下としての正装をしている。
「あの少年はどうだ」
「間違えなければ大物になるだろう」
「そうか」
ラディスの答えに満足げに頷き、女帝は赤い葡萄酒が注がれたグラスを手にとる。
「連れてゆくか?」
「いや。あれはまだ若い。≪光芒の騎士団≫にどうだ」
「ふむ。良かろう。……聞いたぞ。お主、その少年に問われ、己は世界を救うと豪語したそうだな」
「ああ」
優雅な仕草でグラスを傾け酒を一口飲んで、シャウナルーズはラディスを見据え、にっと笑った。
「とんだ大嘘を言いおって」
その言葉を聞いて、ラディスは観念した。やはり、この女帝は全てを見抜いていたようだ……。
いっとき二人は強い視線を交わし無言で見つめ合った。
シャウナルーズは外見だけを見れば二十代後半のように感じる。慈愛を湛える美しさは出会った当初と何ら変わらないようだ。しかし、その内面は底知れない。実際の年齢は三十代かそれ以上、五十代だったとしても不思議ではない。落ち着いた雰囲気に絶対的な威厳と、柔らかな品格を併せ持つ美女。
一国の王でありながら地位や身分を好まず、レーヌの民と肩を並べる。どんな相手であれ、人間として接し、信頼し、育ててゆく。峻厳な厳しさを映す瞳と慈愛溢れる両手。卓越した指導力と先見の明。これ程にまで「人」として磨き上げるのには、どれだけの覚悟と自己鍛錬が必要なのか。計り知れない。
ラディスは俯いて笑った。
「全く、やりづらいな」
「お主は今やただの男に過ぎぬ。一人の女を愛し守ろうとする、一人の男だ」
「なるほどな。だから慌てて召集したのか?」
「雲隠れされては困るからな」
「安心しろよ。俺は戦いを止めるつもりはない。この命はその為に使う。それは変わらん」
「だが表舞台から退くつもりだ。そうであろう?」
「優先順位の問題だ」
そう言うと、ふふふ、と笑い声が上がった。
「我はお主がうらやましいぞ、ラディス」
「すまんな。シャウナ」
シャウナルーズは、構わぬ、と告げてまたグラスを傾ける。
「少しはテンペイジを休ませてやれ。あれは倒れる寸前だ」
「だからお主を馬車馬のように働かせておるのだ。今は少し、休みがとれているはずだ」
「ああ。そうかよ」
俺が倒れても良いらしいな。苦笑しつつ酒の入っているグラスを手に取る。
「あの少年はどれくらいかかる」
言いながら女帝はおもむろに緑のかつらをとった。ふわりと艶やかな黒の巻き髪が、その華奢な肩に落ちる。全く、これは蒸れていかんな、と愚痴をこぼした。
壁に控えていた女帝付きの従者が音もなく傍へ来て、織布とかつらを恭しく受け取って下がっていった。
「十日あれば」
「ならぬ。もうあまり時間はないのだぞ」
「なら、五日だ」
「三日やる。それまでに成し遂げよ」
盛大にため息をつく。さすがは一国を統治する王である。何とも横暴。
女帝が一段声を低くして問いかける。
「それから……モドの具合をどう見る」
ラディスは刹那返答に逡巡し、目を閉じて告げた。
「モド先生は、ご自身で分かっている。早い段階で今後の事を話し合う必要があるだろう」
「……やはりか」
しんと静寂が空間を満たす。
モドはレーヌの大学校には欠かせない存在だ。この大学校の名誉教授であり、研究員であり、医師である。高齢で既に第一線を退いてはいたが、レーヌ随一の知性として現在も若い者達の指導に当たっている。ラディスは今からちょうど十年前、十六歳でレーヌの大学校を卒業したのち、二年間彼の元で医師としての薫陶を受けた。その恩恵には今でも心から感謝をしている。
その彼は今、目の病にかかり、いずれ失明する。
「ラディスよ。お主は勇敢で力ある青年に成長したな」
重苦しい沈黙を振り払うかのように、シャウナルーズが慈愛の笑みを浮かべて言った。ラディスはそれに優雅な微笑で返す。
「お陰さまで」
「しかし満身創痍にも程があるぞ。そのように身体を酷使していたら、あと何年もつか分からぬ」
「だったら少し休ませてくれ」
「ふふ。それは難しいな。駄目になる前に使わねば」
「言ってくれる。……なあ、シャウナ」
珍しく疲労を滲ませている女帝に静かな声で話しかける。モドの件がやはり、こたえているようだ。
「お前がもし間違うような事があれば、俺がその横っ面を引っぱたいてやろう。命がけでな」
一瞬、緑の瞳が見開かれ、それから頭を垂れて肩を揺らし、声を出さずに笑った。
「何と愉快……。我は幸せ者だ。ああ……。お主になら抱かれてもよい」
「おい。そういう冗談はリィンとミッドの前で言うんじゃないぞ」
「ふふふ。あの男、まだ諦めておらぬのか」
「あいつがたちの悪い趣味を持ったのはお前のせいだ」
ミッドラウが泥棒のような鍵開けの名人になりつつあるのは、一国を統べる崇高な王たる女性の、寝所を夜這いせんが為である。何とも罰当たりで、馬鹿らしい男だ。彼は世界を飛び回る運び屋で、今はどこにいるのかさえ分からない。
部屋の外から従者の声がかかり、扉が開いてぞろぞろと人が入って来た。
「おお、ラディス。もう来ておったか!」
モドが立派な白髭を揺らしてやって来る。その後ろにはフォルクード夫妻、若い研究員達や役員が続き、テンペイジとリィンも言葉を交わしながら部屋に入ってきた。書記官アミルと研究員のシモンの姿も見える。シャウナルーズからの伝言があったのだろう、全員制服を着ておらず、楽な格好に着替えていた。あのテンペイジもブラウスとズボンといった普段着姿であるのにはラディスも驚いた。確かに、少しは休めているようだ。この場で堅苦しい格好をしているのはラディスとシャウナルーズの二人だけだった。円卓の傍へ並び、全員が一斉に頭を垂れる。女帝はそれに片手を上げて答えた。
「さあ席につけ。待ちくたびれたぞ」
すぐに賑やかな夜の会食が始まった。
「あの後、ロジエルの家に行ったんだ。そしたらお母さんが家にいてね、仕事が休みだったんだって。
ロジエルが物凄い勢いで帰って来たきり部屋に閉じこもってるんだって心配してた。だから言っといたよ、ラディスが苛めたんだって」
隣に座るリィンが料理を頬張りながらこちらを見上げている。ラディスはその綺麗な赤茶の瞳を眺め、思わず笑った。
「何だその言い草は」
「だってほんとの事だろ?」
「どうしてロジエルの家を知ってる」
「一度お母さんにお茶に呼ばれたんだ。静かだけど優しい人だよ」
いつの間にロジエルの母と仲良くなったのか。確か食堂で働いていると聞いた。リィンの事だ、そこで言葉を交わして親しくなったのだろう。イリアス族として謂われなき理不尽な差別や迫害の中を生き抜いて来ているはずなのだが、こいつには人見知りという言葉はないらしい。
「ラディス殿」
向かいの席にいるテンペイジがこちらに顔を向けていた。大柄な体躯に彫の深い顔立ちの壮年。茶の髪には白いものが目立ってきたようだ。眼鏡の奥の瞳が計るような目つきをしている。隣に座るシャウナルーズも口元に笑みを浮かべ、ラディスに視線を注いでいた。
「≪厳然たる弾劾者≫の事だが。何年いける」
「一年」
即答すると、テンペイジは目を大きく見開いた。
「それは……いくらなんでも短すぎるのではないか? 五年でどうだね」
「二年。それ以上は譲れん」
「ううむ……」
「リィン」
女帝が突然にリィンの名を呼んだ。う、と喉をつまらせて、リィンがはい、と返事を返す。女帝は柔和な笑顔でリィンを数秒見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「高潔なる自由の民。気高く美しいイリアスの子よ、リィンよ」
「はい」
「お主は我のものだな?」
リィンは一瞬ぽかんとして、それからにっこりと微笑んだ。
「はい」
答えを聞いて、シャウナルーズが勝ち誇ったような笑みを向けてくる。
くそ……。リィンを懐柔しやがって。
ラディスは眉根を寄せて相手を睨みつけ、無言で酒を飲み下した。