003
木剣を右手に持ち替えたラディスの強さは圧倒的だった。あらゆる力を凌駕する、殺気と熱。今まで互角に戦っていたロジエルだが、彼の強さに振り回され、立っているのもやっとのようにふらふらになっていた。
ロジエルはよろめいて木剣を取り落とした。あえぐように肩で息をしている少年は汗だくで、打たれた腕に手を当てながら、ラディスを見上げるように睨みつけている。
「拾え」
ラディスは何の感情も表れない声で告げた。青い瞳は鋭くロジエルを射抜き、彫像のように整った美しい顔から残酷な冷たさが漂う。もう既に、何度となく彼はこの言葉を少年に突き付けていた。相手は子供だというのに全く容赦がなく、相手をとことんまで追い詰めてゆく。
いつの間にか二人の周りには遠巻きに人が集まっており、固唾を飲んでこの場を見守っていた。誰も口を挟めない。ラディスの気配がそうさせている。小さな少年は体力も気力も限界をとうに超えている。ロジエルがぎりりと歯を食いしばり、木剣を力任せに振り上げた。
「うう……あぁあッ!」
ラディスの剣先がぶれる事なくロジエルの中心を捉え、彼の木剣を弾き飛ばした。少年は衝撃に耐え切れず、膝から崩れ落ちるようにして地面に伏した。
「強いな。お前は」
大きく息をついてラディスが感慨深げに呟く。
「だが、まだまだ青い。基本も全くのでたらめだ。そのまま続けていたら身体を壊すぞ」
ロジエルは荒く息をついて少し咳き込んだ。
「護衛なんて、いらないじゃないか……」
本人がこれ程強いのに何故リィンを護衛として置いているのか、と言いたかったようだった。リィンは無言で目の前の二人を見守る。ラディスはうっすらと笑みを浮かべた。
「それは違う。リィンはお前より強い。今のお前では太刀打ち出来ないだろう」
ぎゅっと胸がつかえた。そんな事言わなくて良いのに……。僕はロジエルに一度も勝ててない。
「ロジエル。お前はここに何しに来た? 何の為にここにいる」
四つん這いで俯いたままのロジエルに、ラディスは言葉をかける。少年の身体はこうして見るととても小さく、華奢だ。無言の時が流れる。大きなため息をついて、ラディスがまた口を開いた。
「お前には口がないのか」
「……あんたに言う必要ない」
「答えられないのか」
「別に来たくて来たわけじゃない。この道場にだって、別に……」
「何故剣を学んだ?」
「なんであんたに言わなきゃいけないんだっ!」
「何を守りたくて、剣を学んだ?」
「そんなの、知るかよっ」
「何の為に剣を持つのかを違えたら、無意味だ。お前の成長はそこで止まる」
「きっ、決めつけるな! 偉そうにっ! あんたはどうなんだよ! あんたは何の為に剣を持ってんだよ!!」
あのロジエルが、感情をあらわにしてラディスに向かって怒鳴っている。噛みつくような勢いで彼に食ってかかっていた。ふらふらになるまで徹底的にやられ、追いうちをかけるように詰問されているのだから、怒って当然と言えるかも知れない。
ラディスは少年の問いに、悠然と答えた。
「世界を救う為だ」
ロジエルは一瞬呆気にとられ、またぎりぎりと歯を食いしばる。
「……んだよそれっ」
「おいおい。俺は本気で言ってるんだがな。それでお前はどうなんだ?」
「うるさいッ!!」
ロジエルは怒鳴ってラディスの言葉を遮り、転びそうになりながら身体を起こして駈け出した。
「ロジエルっ」
リィンが小さくなってゆく背中に声をかけるが、ロジエルの姿はすぐに見えなくなった。その場にいた人々も少年が走り去った先を見つめる。
「ラ、ラディス先生……すみません。あの、早くしないと会議に間に合いません」
シモンが申し訳なさそうに小さな声で言った。ラディスは、ああ、と返事をして大股でこちらに歩いてくる。
「ラディス! 大丈夫なのかよ」
木剣を受け取りながら見上げると、ラディスは肩で息をして額には汗を浮かべていた。彼は右目を細め、リィンの小さな頭にぽんと手を置いた。
「右腕はもって十五分程度、ってところだな」
そのままシモンを連れて大学校へと戻ってゆく。リィンは無言でその長身の後ろ姿を見送った。見送る事しか出来なかった。胸にじわじわと悔しさが込み上げる。
これで分かったか、おっさん。あんたはもう終わった人間なんだ。
ロジエルの言葉が胸に刺さって痛かった。確かにラディスは、以前に比べたら弱いのかもしれない。やっぱり、あの時の傷のせいだ。だけどそれだって自分以外の人達を護る為に、背負った傷なのに。あの傷こそが本当の強さの証明なのに……。
この豊かなレーヌの大学校に集う人々の中にも、ラディスを嗤う者がいるのを知っている。彼はどこに行ってもたくさんの人に愛され、そして憎まれる。
ラディスは医師としても剣士としても、他に追随を許さない程の一流の腕を持つ。しかし、その人々の中ではそれはもはや過去形だった。右腕と左目が不自由になった彼を、使いものにならない半端ものだと嗤った奴がいたのだ。確かに怪我を負う前の状態から見ればそう言えるのかもしれない。だけど。
ラディスは、今だって強い。
心は以前と変わらずに強くて、自然と周囲の人々が彼に頼る。その絶対的な存在感に皆が安心する。彼は自分が為して来た事をぺらぺらと口にしたりしない。淡々と、ただ自らの為すべき事をこなしてゆくだけだ。他人からの陰口も噂話も、どこ吹く風でちっとも気にしない。
それに今だって剣の腕も師範クラスだ。ついさっきのロジエルとの手合わせを見て再確認した。医者としての技術だって、診察眼は以前と変わらないし薬品の調合の腕だってぴか一だ。ただ、難しい手術の執刀が出来なくなっただけだ。
だから悔しくて仕方ない。あんな風に言われて、黙っているわけにはいかない。ラディスは気にしないだろうけど、僕はいやだ。
なのに、僕は弱い。
「いい気味だったな。せいせいしたよ」
「ああ。あの生意気なガキがあそこまでやられるなんてなあ」
「噂に違わず、ラディスさんはお強いのだな。まるで格が違う」
「間近に見られて光栄だ。あの剣さばきは本当に素晴らしかった」
勝負を見守っていた人々のほとんどが、道場で剣術の稽古をしている剣士達だった。
「生前のベレンダイに師事したと聞いたぞ」
「あの剣豪に!? それはすごいな」
「でもなあ、少し大人げなくなかったか? あんな子供に本気だなんて」
「うーん。確かに……」
「よっぽど腹を立てたんじゃないか?」
違う。
「あのガキ、剣の腕は確かに凄いが、人を見下しやがるから。口のきき方だってなってない」
「そりゃあラディスさんだって怒るだろう」
違う。そんなんじゃない。
口々に会話を交わし見物人達は散っていった。広い芝生の上にリィン一人がぽつんと立ち尽くす。
どうしてラディスが、あんな役をしなくちゃいけなかったんだ。
僕が、もっと強かったら……。
リィンは俯いて鼻をすすり、腕でぐいと顔を拭った。
◇◇◇◆
「ラディス先生、大丈夫ですか」
大股で大学校の長い廊下を足早に歩く。これから≪厳然たる弾劾者≫の会議があり、それにはシャウナルーズ様もご出席されるとあって、シモンは内心とても慌てていた。そんな大事な会議に遅れるなんて大変な事だ。
「ああ。欲を言えば冷えた水を一杯飲みたいが、そんな暇はなさそうだ」
隣を歩く長身の彼をちらりと見上げる。涼やかな鼻梁から顎にかけての美しい曲線。
鬼才と言われたレーヌ族名家の子息、クレイ・フォルクードが主と定め、女王陛下やテンペイジ議長からも絶大な信を寄せられる人物、ラディス・ハイゼル。この大学校で知らぬ者はいない程の有名人だ。今現在クレイ・フォルクードはルキリア国の診療所で医師をしていると聞いた。その両親であるフォルクード夫妻は枢機議会の一員として女帝を支えている。
ルキリア族である彼の瞳は、真っ青な海のようで、その奥が金色に輝くとても珍しい瞳の色をしていた。ルキリア族の中でも正統な血筋の皇族のみが持ち得る事の出来る瞳。彼は≪黄金の青い目≫を持つルキリア皇族だった。永い歴史の中で世界一の領土を誇り、絶対的な権力を独占し続ける種族。
偉大で高貴、不遜なるルキリア族。
レーヌ国は独立国家だが、ルキリア国に連なる国土には変わりない。世界一の知性と医療、薬学を誇り、絶大な権限を持つレーヌでさえもルキリア族の支配下に置かれているのだった。
ラディスはルキリア皇族の血筋ではあったが、その位を持たないどころか、生まれてすぐに当時ルキリア国に実際に存在していた強制労働施設へ連れ去られたと聞いた。そこでイリアス族によって育てられたのだ。数奇な運命を生きる、力ある青年。
実際にラディスと接してみて、意外にも気さくで朗らかな人物だったので驚いた。三年間大学校の役員として従事し、つい最近枢機議会の一員に任命されたシモンにとって、毎日が緊張の連続であるのだが、何故だか彼とは普通に言葉を交わせるので不思議である。
「あの、先生。何故手加減をしなかったのですか?」
先程の手合わせは圧倒的だった。いくら強いとはいえ、向こうは少年だ。それこそ大人と子供程の力の差があった。そんな相手に手加減せずに全魂を込めて打ち合っていた。
「真剣な人間と向き合う時にはこちらにもそれなりの覚悟がいる。中途半端な事をすると怪我をするんだよ。お互いにな。それにその怪我が致命的になる事がある。子供だろうが何だろうが、俺は人間を相手にしてる」
彼の答えにシモンは曖昧に頷いた。怪我をするって……。あの少年は身体中に擦り傷と打撲を作っただろうから、もう怪我をしているんじゃないだろうか。それに、覚悟とは。それは一体どういうものなのだろうか。
目の前にやっと会議室の扉が見えて来た。良かった。間に合いそうだ。扉の前で身なりを整え、呼吸を落ち着かせる。それからラディスに資料を手渡し、シモンは遠慮がちにまた口を開いた。
「あの、それと……」
「何だ」
「ど、どうして私の名前を知っていたのですか」
ひとくちに枢機議会といっても、様々な分野に分かれて大勢の役員達が働いている。大学校の運営に関する仕事に従事する者と医療関連に配属した者は、大学校の制服と同じ深緑のそれだが、右胸に国家の紋章が描かれているものを身につける。研究員達はその上から丈の長い上着を着用するのが常だ。そして政治や国家運営に関わる分野で働く者達がこの黒の制服に身を包んでいる。役員同士でも名を知らぬ事の方が当然だと言って良い。
それにシモンには、少し特殊な事情があった。
長身の彼は意外そうな顔でシモンを見下ろし、眉を上げて答えた。
「共に仕事をする仲間だ。知らなくてどうする。当然の事だろう」
そう言って扉を開け先に部屋に入ってゆく。黒髪の青年は刹那、呆然とその背を見つめ、慌ててそれに続いた。