012
二人が出立する日が決まった。明日だ。
ロジエルは朝から気持ちが落ち込んでいて、ベッドからなかなか起き出せずにいた。今日は道場での稽古も休みの日だから寝坊しても大丈夫だ。けれどもう目が覚めてしまった。しぶしぶ身体を起こしてため息をつく。
二人が行ってしまう。ラディスとリィンはシャウナルーズ様からの命を受けて旅に出るのだ。自分はそれについていけない。連れて行って欲しいと思った事もあった。しかし今の自分に何が出来るのだろう。二人には遠く及ばない程、自分には何もかも足りていないのだ。
遠く人の話し声がする。それからぱっと楽しげな笑い声が上がった。一つは母の声。この家で、こんなに楽しそうな声が聞こえるのは初めてかもしれない。ぼうっとする頭で考えつつ扉を開いた。
「あら。やっと起きたのねえ。おはようロジエル」
「稽古がないからってどんだけ寝るんだよ。もう昼前だよ」
テーブル席に母とリィンが座っていた。ロジエルは内心で驚き、口元をむっと尖らせる。
「……何でいるんだよ」
テーブルの上には質素な茶器と美味しそうなパイが乗っかっていた。このテーブルに、こんなに楽しそうなものが並んでいるのは初めてかもしれない。
「まあロジエルったら! リィンちゃんがね、パイを焼いて来てくれたのよ! とっても美味しいのよ。お料理が上手なのねえ」
母がにこにこと笑いながら説明をする。……ちゃんづけかよ。何だかちっとも似合ってない。
「ロジエル、顔洗って来いよ」
リィンが席を立った。今日はいつもの道着姿ではなく、白のブラウスに緑のベスト、細身の黒のズボンに茶革の長靴という格好だ。栗色の髪や真っ白の肌が陽に透けてとても壊れやすそうに感じる。
「手合わせしよう」
リィンがこっちを見ている。もろそうな容姿とは正反対の、意思の強い光を宿す赤茶の瞳。元気な奴。
何で起きぬけにそんな事しなくちゃいけないんだよ、と言いたかったが、ロジエルは無言で洗面所に足を向けた。分かってる。これが最後の手合わせだ。リィンはわざわざ自分に会う為に来てくれたのだ。
「いってらっしゃい。怪我しないようにね」
上機嫌の母が手を振って送り出す。リィンとロジエルは片手にそれぞれ木剣を持って、家の裏手にある小さな原っぱへと向かった。
「母さんになつくなよ」
先を歩く細い背に声をかける。リィンは自分より四つ年上だが、背丈は自分とそんなに変わらない。リィンが足を止めくるりと振り返って、首を少し傾けて笑った。
「いいだろ、別に。ロジエルのお母さんって優しいね」
突然に理解した。
こいつはきっと自分が想像もつかないような大変な苦労を乗り越えて、ここに立っている。
リィンは最初から、自分に対してあの目つきをしなかった。他の皆が自分に向ける、怯えたような計るような視線だ。リィンのまなざしは真っ直ぐで何も隠さないし、飾らない。それに痛みを知っている人間のそれだった。もう既にロジエルには分かっていた。リィンは自分なんかよりも遥かに強い。実戦を経験した事がある者にしか身につかない強さを持っている。それに心も強くて、大きい。
俺は本当に、何にも知らなかった。
世界は、広い。
ロジエルは両手で木剣を構えた。
「俺、また強くなったんだ」
「知ってるよ。ラディスに稽古つけてもらってたんだろ。僕なんか一度もしてもらった事ないのに」
むすっとしつつリィンも構える。
「でも僕だって今日はほんとの本気だからな!」
ゆらりとリィンの瞳の奥が揺れたように感じた。鮮やかな深紅の炎が宿る。見ると腕にはブレスレットがなかった。ロジエルは俄かに慌てる。
「ちょ、ちょっと! 『力』を使うのは反則だろ!」
「勝負!」
有無を言わさずに素早さが格段に増したリィンが、ロジエルに斬り込んでいった。
◇◇◇◆
ノックの音がして返事をすると、扉が軽やかに開いた。現れた人物に心底驚くが顔には出さない。相手は室内にぐるりと視線を巡らせつつ、眉を上げた。
「まるで研究室のようだな」
書棚に向かっていたアミルヴェラは、顔だけを相手に向けてにっこりと微笑んだ。
「ええ。私もシモンも、こういう部屋の方が落ち着くんです。何か御用ですか? ラディス先生」
ラディスが片手に持っていた数冊の書物を机の上に置く。
「前に言っていたモド先生の論文だ」
「すごい! もう今では手に入らない本なのに」
感嘆の声を上げて、アミルヴェラは貴重な書物の表面をなでた。
「たまたま持ってきてたんだよ。本当は俺のもんじゃない。もう十年以上も借りっぱなしでな。……ん? 何だ、シモンもいたのか」
書物と研究器具の山の奥で机にかじりついている双子の弟は、ぶつぶつと何事かを呟いて一心不乱にペンを走らせている。朝からずっとあのままだ。苦笑を浮かべ長身のラディスを見上げる。
「彼があの状態の時は何を言っても反応しませんよ」
「学者肌だな。そういや最近は入れ替えをしていないらしいな」
「ええ。もう飽きましたから。私がこんな性格をしていたと知って同僚達は驚いています。ふふ……なかなか面白い反応が得られました。女性であるという事実はもう少し伏せておこうと思っています」
「そうか。ゲームも良いが、あまりテンペイジを困らせてやるなよ。あいつの胃に穴が開く」
「了解しました。……先生」
青い瞳がこちらを見下ろす。
「私は≪厳然たる弾劾者≫の計画は、失敗すると思います」
「何故そう思う」
間髪入れずに質問が返ってきた。彼の表情からは何も読み取れない。まるで自分がこのような質問をすると分かっていたかのように、冷静で冷ややかだ。
「人は愚かであるからです。どれ程こちらが取り締まろうと、網の目をぬって卑しい者は生き残る。初めは成功するように見えるでしょう。しかし時が経つにつれ破綻をきたします。ミイラ取りがミイラになる。
……こちらの焦燥などお構いなしに、世界は膨れ上がってゆくんです。今この時にも。たった二人に何が出来ますか?」
「お前の意見は的を射ている」
しかし、と彼は続ける。
「無意味だと傍観者を決め込んで何になる。両手両足があるんなら動くべきだ。劇的に全てが変わる事などあり得ないが、訪れた場所だけは良い方向へ変わるだろう。それは俺が保障する。それにたった二人ではないぞ? これには多くの人間が携わり、希望を抱いている。元よりこの計画は始動する事に意味があるからな」
「失敗は覚悟の上という事ですか。何という事だ」
「たったの一度でどうにかなるなんて思っちゃいないさ。何度でも立ち上がれば良い。何度でも、訴えていけば良い。思考錯誤を繰り返し僅かでも前進する。その為に賢い奴らがここには集まってるんだろう」
「しかし。……あなた程の人が、城の土台を固めるちっぽけな石垣の一つになろうというのですか?」
「なあアミルヴェラ」
落ち着いたラディスの声音にはっとした。少し感情的になってしまったか。片手で拳を作り口元に当て、咳払いを一つ。
「何です」
「世界を変えられなくても、目の前のたった一人の力になれるなら意味があると思わないか?」
見上げると彼の美しい微笑み。
「シモンに茶でも入れてやれ」
アミルヴェラは目を伏せて笑った。何を焦っているんだろうか、自分は……。
我々が恐れなくてはならないのは、失敗ではなく、諦めだ。
広大な世界を見渡せる視野と、己の足下を見つめる視線。彼の非情な程に冷静な瞳は、どこかで見た事があるような気がする。
既に部屋を出てゆこうとしている後ろ姿に声をかける。
「ラディス先生」
振り返ったラディスに、笑顔を作って言った。
「あなたの意見は的を射ている」
◇◇◆◆
「リィンってすっげー負けず嫌い。勝てるわけないじゃないか」
原っぱの真ん中で、二人して大の字に寝転がっている。リィンが楽しそうに笑った。
「イリアス族の『力』ってすごいんだな」
真っ青な空に白い雲が細長く流れている。今日も嫌味なくらい晴れやかな、良い天気。大きく息を吸い込むと、緑の爽やかな香りが胸を満たす。ロジエルはふと思いついた事を口にした。
「もしかしてさ、俺がロガート族で皆になじめないから相手してくれてたの?」
身体を起こしたリィンが不思議そうな顔を向けた。頭に草を乗っけている。
「違うよ。負けたのが悔しかったからどうしても勝ちたかったんだ。僕が弱くて、そのせいでラディスが悪く言われるのが嫌なんだ」
答えを聞いてロジエルは呆れた。
何だ……。何て自由な奴らなんだろう。ラディスもリィンも、自分の好き勝手に生きている。周りから伝説とか天才とか、英雄とか言われてるくせに欠片の気負いもない。こんなんで良いのかよ。
なあんだ。
「ロジエルって偉いね」
「はあ? 何だよ」
「道場に顔を出さないのに毎日通って来てたろ? お母さんを心配させない為にさ」
ぐっと言葉に詰まった。
「ロジエルは良い奴だもん、大丈夫だよ。きっとすぐ友達も出来る」
「……ふん」
ふいに涙が出そうになり、わざと不機嫌な顔を作って身体を起こす。リィンが立ち上がって身体についた草を払った。
ロジエルは長すぎる前髪を手で押さえてリィンを見上げる。
「あのさ……怖くないの?」
「何が?」
太陽を背にしたリィンがきょとんとした表情を向けた。
「その、色々。旅だって危険だろ? それに戦えば、自分の剣で人を傷つける事になる」
「ああ……」
リィンはゆっくりと横を向いて遠くを見つめる。
「怖くないとは言わないよ。でも、大事なのはそこじゃない。僕には護るべきものがある。全力で、自分の全てをかけてそれを護るだけだ。その為の剣だ。
それに相手を深く傷つけないで済むように、強さが必要なんだろ? 中途半端な強さじゃだめだ」
あらゆる意味での、強さ。それは覚悟というものかも知れない。
語るリィンの横顔はとても凛々しく、背筋を伸ばして佇む姿が潔くて、ロジエルはリィンが女性である事を忘れそうになった。
「……また、会える?」
青い空に栗色の髪がなびく。リィンがにまっとした笑顔を作った。
「うん。今度手合わせする時には、絶対僕が勝つよ」
ロジエルも立ち上がり、リィンの隣に立つ。
「俺だって、これからどんどん強くなるんだ。負けないかんな。あ……そうか。そういうわけかよ」
「何」
「あんたとラディスって恋人同士なの?」
「こっ……」
リィンの白い頬が一気に赤く染まった。それを見て肩を竦めてため息をつく。
「今更照れてもね」
「う、うるさいなっ。行くぞっ」
ずんずんと歩き出したリィンの後を歩きながら、思った。
自分にはそういう事は良く分からないし、そんなに良いものだとも思わない。だけど、自分が思っている程悪いものでもないかも知れない。自分もいつか恋をするなら、こんな自分にそんな時が来るなんて今は想像も出来ないけど、それはそれで、もしかしたら楽しいものかも知れない……。