010
そっと木目の扉を開く。部屋にあるテーブルの上には無造作に書物や資料が積み上がり、床の上に丸めた紙クズがいくつか散らばっていた。とうとうこの部屋にも仕事を持ち込んで片付けているようだ。肘掛に肘を乗せて両手を組み、椅子に深く凭れて目を閉じているラティスがいる。黒の立襟のボタンを首元まで開けて着崩した格好。左目は黒い眼帯で覆われているが、黙したその表情はまるで彫像のような秀麗さだ。
リィンが近づいてゆくと、ゆっくりと右目が開かれて青い瞳がこちらを見上げた。寝ていたわけではなく、考え事をしていたようだった。
「何考えてたの?」
「俺を早死にさせようとする女帝に、どうすれば一矢報いる事が出来るか」
笑いながら手に持っていた鮮やかな青色の花を、彼の耳に掛けて飾った。
涼やかな顔立ちと薄茶色の髪に青い花が良く似合っている。ラディスの肩に手を置いてリィンは満足げに微笑んだ。
「やっぱり。似合うと思ったんだ。綺麗だ」
「こういうのは女性がするもんじゃないのか」
ラディスの腕が腰に回り引き寄せられ、青い瞳が見上げてくる。胸に温かな愛おしさが込み上げる。
「……ラディス」
「ん?」
「考えてる事、ちゃんと僕に言ってよ。僕なら大丈夫だから」
きっと、彼はずっと先の事までも思案している。それは自分達だけの事にとどまらない。あらゆる可能性を考えて、けれど一番に僕の事を思ってくれる。僕のしたいようにさせてくれる。ラディスは優しい。
イリアス族でそのうえ女性で、禁忌の『力』を持つ自分。あげく彼の護衛としてついてゆくと言ってきかない自分。ラディスにとったら僕が傍にいる事の方が、色々と大変なのかもしれない。僕はわがままだ。
彼が低く笑った。
「……そうか。お前に口付けたい。お前に触れたい。リィン、お前を抱きたい」
瞬間に、かっと顔が熱くなる。
「ち、違うだろ……そういう事じゃなくって……」
リィンは横を向いて彼の膝の上にちょこんと腰かけ、口をとがらせた。ラディスはまだ楽しそうに笑っている。完全にからかわれている。……分かってるくせに。
「あんた、ほんとにいじわるだな」
「安心しろ。お前を蚊帳の外に置くつもりはないよ。明日は≪厳然たる弾劾者≫の詰めの会議だ。それにはお前も参加する」
「うん。あのさ、僕とラディスって目立ちすぎないかな」
≪厳然たる弾劾者≫として世界に散っているリリーネ・シルラの使徒たる医者や聖職者達に出会わなければならない。速やかに世界中を旅して土地から土地へ渡っていかなければならないだろう。しかし自分は紅い目と白い肌を持ったイリアス族で、ラディスはルキリア皇族の≪黄金の青い目≫を持っている。それだけで行く先々で何か問題が起こりはしないか少し不安だ。
「イリアス族だルキリア皇族だと言っても、噂程度に耳にするだけで実物を見る機会のない者達の方が多い。それに目立つくらいで良いんだ。俺達は広告塔みたいなもんだからな」
「ふうん」
「この壮大な計画は今始まったばかりだ。既に≪早馬≫で通達はされているが、浸透するには時間がかかるだろう。人々の認知度を高める為にも世界に向けて発信する必要がある。俺とお前は≪厳然たる弾劾者≫の顔になるんだ。
だからこそ、何があっても負けられない。崩れる事は許されない」
すぐ傍にある彼の顔を見つめる。ラディスの真剣なまなざしがリィンを真っ直ぐに射抜いた。
「この先にどんな問題や弊害が起こるのか誰にも分からない。全く手つかずの荒野に道を切り開いてゆく。……俺とお前で」
道を作ってゆく。僕とラディスで。
「しかしあくまでも俺は医師として、お前は俺の護衛として仕事をする。戦いに行くわけじゃない。出来る限り戦闘は避けたい。止むを得ず剣を抜く場合があるとしても、最小限で最大の効果が残るようにしてみせる」
ラディスの低く澄んだ声から静かな決意と強い意思を感じる。青い瞳は揺るぎない力に満ちている。
後に続く者の為に、医療を待つ者の為に、命をかける覚悟があるか。ゼロから全てを作り上げる。
彼の進む道に、楽な方途は存在しない。
リィンの赤茶の瞳に強い決意の炎が宿る。
「ラディス。僕はあんたを護るよ。あんたを護るのは僕だ。……だから、ちゃんと僕を使ってよ」
そう告げると、ラディスは口元に笑みを浮かべ俯いた。
「お前の『力』はきっと役に立つ。驚くくらいにな」
「ほんと?」
「ああ」
彼にそう言われると途端に誇らしく思えるのが不思議だ。
「全く……困ったもんだ。お前が何の力もない、ただ護られているだけの女なら良かった」
どきりとする。やっぱり僕が重荷なのだろうか。もどかしい思いで彼の長い睫毛を見つめる。
「ラディス……」
ラディス。
僕はきっとあんたの役に立つよ。もっとうんと強くなるから。絶対に足手まといになんかならないようにするから。
だから、お願いだから、僕を傍に置いて。
「お前がこの上なく頼りになるもんだから、俺はお前に甘えてしまう」
「……え」
顔を上げたラディスと視線がぶつかる。彼はリィンを見つめ、弱々しく笑った。胸が熱くなる。
「ほ、ほんと? 僕は頼りになる? あんたの?」
「ああ」
嬉しい。良かった。口元がゆるんでしまう。
「しかしいつまでもだらだらと続けるつもりもない。過酷だが、短期間の内に仕上げるつもりだ」
「うん」
「一番状況の悪化が激しい場所から始める。一番、厳しい道を選ぶ」
「うん。分かった」
「きついぞ」
「分かってる」
ラディスの長い指がリィンの顎にかかり、鼻先が触れ、唇を塞がれた。優しくて深い口付けだった。
「ん……」
ゆっくりと探るように確かめるように中を這い、舌が絡み、奪われる。じわじわと熱が生まれ、その口付けに夢中になってしまいそうになる。全身の力が抜けてゆき頭の中が真っ白になる。身体の奥が震えて、愛おしさに胸を焦がす。
「……ンッ……はあ」
ぎゅっと服を掴み、俯いて何とか息をついた。彼の優しい匂いに包まれる。視線を感じて顔を上げる事が出来ない。
「……リィン」
耳元で低く囁かれ、リィンは震えて固く目を閉じた。鼓動が速くなる。息が上がる。彼の吐息がかかるだけで身体が反応してしまう。
ラディスはいつも簡単に、やすやすと、僕の理性を奪ってゆく。
「あ、ル、ルセロがねっ」
「……ルセロ?」
「今度また家に遊びにおいでって」
「そうか」
俯いたままのリィンの髪にラディスの口付けが落ちる。リィンは必死に言葉を紡いだ。
「あ、あの、プルトの丘っ。すっごく綺麗だったよ」
「それは、良かったな」
彼の指先が頬をなぞる。リィンが距離をとろうと片手でラディスの胸を押し返すと、腰に回った腕に力がこもり、より強く引き寄せられた。リィンの頬をなでていた指先が顎を伝い、首筋へと落ちる。リィン はこれ以上ない程に赤面し、頑なに俯いて抵抗した。
「あ……ルセロってね、ちゃんと試験で受かって大学校に入ったんだって。す、すごいね」
ラディスがリィンの鎖骨に指を這わせ、静かに呟いた。
「お前はどうしてそう簡単に、人になつくんだろうな」
「……え?」
「あいつがお前の事をどう思っているのかも知らずに、な……」
意味が分からず、思わず顔を上げた。息が止まりそうな程近くにラディスの整った顔が迫り、視線が絡む。彼は吐息まじりに囁いた。
「あいつの話はもう良いよ」
唇が重なり、緩く噛みつかれ、リィンの心臓が、どくん、と脈打った。
ああ……気を失いそうだ。耐えきれず吐息がこぼれる。ふわりと身体が浮いた。ベッドへ向かっているのに気付き、少し慌てる。
「ラディス……あ、あんた何か、野獣みたい」
ベッドの上に降ろされ、迫ってくるラディスの肩を両手で押し返した。彼は何も言わず真っ直ぐに見つめてくる。青い瞳の奥の金色が少し潤んでいるように見え、彼の色気に酔ってしまいそうになる。
青い花がぽとりとベッドの上に落ちた。ラディスはそれを拾い上げ、リィンの栗色の髪を梳いて耳元に飾った。
「お前の方が、良く似合う」
そう言って柔らかく微笑んだ。全身が痺れてしまったみたいに力が入らなくなり、彼から視線が外せなくなる。自分の腕力は強い方なのに何故だかラディスにはそれがうまく発揮出来ない。彼の両手がリィンの頬を包み、優しいキスが落ちる。口付けはすぐに深いものへと変わり、追い込まれ、与えられる情熱に翻弄される。リィンは身じろいでぎゅうとラディスの服を掴んだ。口付けながら彼の指先がリィンの素肌を探り、伝う。
熱い……。
「ん、うっ……ッラ、ラディス……あっ……」
僅かに離れた隙間から喘ぐように空気を求める。彼の色づいた吐息が聞こえ、リィンの身体がざわりと反応する。ぎゅっと目を閉じた。
「リィン……いやか?」
耳元で囁かれおそるおそる目を開けると、ラディスの顔がすぐ近くにあった。切なそうに眉を寄せている。直視出来ず顔をそらした。
僕がいつも抵抗するから、本当は嫌がっていると、そう感じたんだろうか。ちゃんと伝えなくては。でも、ものすごくどきどきして、心臓が弾けてしまいそうだ。
「そ、んなの……い、いやな訳、ない……だろ」
顔を横にそらしたままリィンは消え入りそうな声で言った。恥ずかしくて死にそうになる。頬に口付けられ、またぎゅっと目をつぶった。
いやな訳ないじゃないか。
「……本当に?」
「ん……こ、こんな事……ラディスとじゃなきゃ、いやだよ。僕、だって、ぼく……」
ラディスが好きだ。こんなにも愛おしい。
彼の指先がゆっくりと素肌を伝い、リィンは震えて吐息をこぼす。
「だって……?」
そこではっとした。彼の意図に気がついて、めまいを起こしそうな程恥ずかしくなり、間近にある美しい顔をきつく睨みつける。
「……おい。何を言わすつもりだよ。僕を苛めて、そんなに楽しいか」
ラディスがにやりと笑った。
「惜しい。もう少し楽しみたかった」
むっとしてラディスの顔をがしりと両手で挟む。少し考えれば分かる事だった。今までさんざん好き勝手僕にしといて、今更しおらしく聞いてくるなんて。
リィンは首元まで真っ赤になりながら、ラディスの頬をぐいぐいと両手で押しつぶした。
「怒るぞっ」
「てて。お前がルセロの話ばかりするから……ついな」
一瞬、耳を疑った。
「なに……今なんて」
青い瞳がじっと見返してくる。
まさか。
「妬いてるの?」
「ああ……おかげで会議どころじゃなかった」
少し拗ねたような声音に、胸が高鳴ってしまう。僕って馬鹿だ。たった一言がこんなに嬉しい。
リィンの細い指が黒い眼帯に触れ、そっとそれを外した。綺麗な瞳がリィンを見つめている。
「ラディス……」
胸が締めつけられて息が苦しい。声が震える。
「……僕が、好き?」
「ああ。好きだ」
泣いてしまいそうだ。
「僕が……欲しい?」
ラディスが大きく息をついて笑った。
「お前もなかなか良い性格をしてる」
「だ、だって」
「ああ。欲しいよ。そんな風に見つめられたらたまらなくなる。俺はお前が欲しい。欲しくて仕方ない。
リィン……愛してる」
リィンの頬に涙が伝った。腕を伸ばし彼を引き寄せ、ぎゅうと抱き締める。鼓動が重なる。
「ラディス」
ああ……ラディス。
彼はこの先が困難である事を予測している。女王陛下の部下として、≪厳然たる弾劾者≫として一度動き出してしまえば、決して負ける事が許されない旅が続くのだ。判断を間違えれば取り返しのつかない事になる。一時も油断出来ない。
ラディスの背負うものはいつも大きくて、重要で、過酷だ。
でも僕がいる。大丈夫。僕が、あんたの傍にいる。ラディスを護るよ。
「ラディス……ぼく、っぼくも……」
あんたを一人になんかしない。一緒に行こう。
茨の道を。




