009
「実はね、レドナも大学校に来ているんだ。今はラディス達との会議に出席しているんじゃないかな」
「レドナが?」
道すがら、ルセロが語り出した。
「そう。君とラディスが≪厳然たる弾劾者≫としてシャウナルーズ様の元についた事が関係してる」
「え……」
「ラディスは嘘つきだよ。君を護ると言ったのに、君を危ない目にばかり遭わせようとする」
民家の統一された赤色の屋根と木々の緑。坂道を上って角を曲がり、小川に渡された橋を渡る。リィンは愕然として橋の中央で立ち止まった。先を歩くルセロが気付き、優しく微笑んでリィンの小さな手を取った。今気付いた。彼の腕には自分と同じ、漆黒のブレスレットが嵌まっている。
「ルセロ、違うんだ。僕が望んだんだ。僕が、ラディスの護衛だから」
「それも分かってる」
「ルセロ……」
腕を引っ張られるようにして歩き、ルセロを見つめる。何と言ったらちゃんと彼に伝わるのか分からず弱り果てて、てくてくと歩いた。
「リィン。イリアス族がどうして特定の国や土地を持たず流浪の民となったのかは知っているよね」
「うん」
「リィンのお陰で僕達はやっと人として認められた。だけどこの先も、僕達はどの国にも属さない。孤高を貫く。それが、イリアス族の生き方だ。どうしてか分かるかい?」
ルセロの穏やかな赤茶の瞳がリィンに向けられる。
「イリアス族の『力』は脅威だ。どこか一国に属してこの『力』を行使する事になれば、おそらくはその国が世界最強になるだろうね」
「あ……」
とくりと心臓が脈打つ。イリアス族の『力』。僕らの持つ『力』は確かに、恐ろしい程に強大なものだ。手を触れなくとも念じるだけで、あらゆるものに影響を及ぼす事が出来る。壊す事が出来る。その対象が人であろうとそれは変わらない。イグルよりも強い威力と実行力のある、脅威の兵器になるだろう。
「僕達はレーヌ国で暮らしているけれど、それも全て契約を交わしているんだ。イリアス族を、イリアス族の持つ『力』の事を深く理解して、正しく認識してくれているこの国の女王陛下の元だからこそ、僕達はここに留まる事が出来る。……僕達は関わりすぎてはいけない。影響を及ぼしすぎてはいけない。辛い状況であってもこれは貫かなければならないルールだ。誰かを護る為だけに、僕達は『力』を使う。その時にだって相手の命までをも奪う事はしない。振りかかる火の粉を払うだけ。リィン、君もそうやって護衛をつとめているはずだ。
だからもしこの『力』を悪用するような同族が現れた時には、僕らは命をかけて、それを阻止しなければならない」
高潔なる自由の民。虐げられてきた永い歴史から解放されると、貫かなければならない立ち位置が忽然と姿をあらわした。皮肉にも確固たる権利を得る事によってそれは動き始めた。何と過酷な運命だろうか……。
「君がラディスの護衛なのは知ってるし、君が『力』を使うのはラディスの為だけだと分かってる。だけど今回、レーヌ国の中枢に限りなく近い所に属する事になるんだ。レドナはそれを心配してる。
……彼が何も考えていないとは思わないけどね」
着いたよ、とルセロがにっこりと微笑んだ。
◇◇◇◆
鮮やかな青色。真っ青な海がそこに存在しているかのようだ。小高い丘の一面に、アグデント草の青い花が咲き誇っていた。地平線を挟んで、空の青と丘の青が美しい対比を見せている。幻想的な風景。
ルセロもこの景色がとても気に入っていた。レーヌの首都にやって来てこの丘の存在を知り、ここに来て良かったと心底思った程だ。リィンが慎重に足を踏み入れて、うわあ、と歓声を上げた。
「すごい! 海の中にいるみたいだっ」
興奮で頬を紅潮させながらこちらを振り返る。リィンの素直な反応に、自然と笑みがこぼれた。ルセロはゆっくりとリィンの隣に並ぶ。
「ここはプルトの丘といってね。イグルの特効薬を作る時に必要な、アグデント草を栽培している所なんだ。今がちょうど見頃の時期だよ。綺麗だろう?」
「うん! 綺麗だ! 僕、こんな景色初めて見た」
感動して呟くリィンの、栗色の小さな頭に視線を落とす。柔らかな髪に真っ白で細い首筋。華奢な肩……。まるで繊細なガラス細工のようだ。しかしその内面には熱い心と折れぬ意思、底知れぬ力を秘めている。真っ直ぐで素直な心は接するだけでほっとしてしまう。不思議な娘。大事な、娘……。
あ、とリィンがその場にしゃがみ込んだ。
こんなに大事な君をどうして危険な場所へと送り出す事が出来るだろう。
どう考えても分からない。ラディスは何故、リィンをそんな場所へ連れてゆこうとするのだろう。愛しい人を。かけがえのない、大切な女性を。
彼には臆する心はないのだろうか……。
「ねえリィン。やっぱり僕達とここで一緒に暮さないかい? 君がいてくれたら皆がどんなに喜ぶか。君にとってもそれが一番良いと思うんだ。僕は今でもそう思ってる。……それに」
ルセロは刹那、瞳を閉じて息を止めた。それから意を決したように深々と息を吐き出す。
「それに初めて会った時から、僕は君の事が……」
「すごい……。この花、ラディスの目の色と同じだ」
「…………へ?」
ほら、と言ってリィンがきらきら輝く瞳で見上げてくる。呆然としながらも隣にしゃがみ込んで、目の前の花に視線を向けた。真っ青な五枚の花弁。その中央には黄色い花粉を含んだ葯が集まっている。言われてみれば確かに、ルキリア皇族の≪黄金の青い目≫の構造と似ているが……。
ルセロは途端に気抜けてしまい、苦笑をもらした。
「お土産に持って帰ったら?」
「摘んじゃ悪いよ」
「大丈夫。これだけあるんだから」
「そっか」
「リィン」
名を呼んでリィンの赤茶の瞳を見つめる。力のある光を宿している。綺麗だ、と思う。
「君の世界はラディスを中心に回っているんだね」
リィンの全てが彼なしではあり得ない。そんな単純な事をすっかり忘れていた。いや、そうだと思いたくなかった、の間違いか。
白く透き通るようなリィンの頬が赤く染まってゆく。ルセロはそれを眺めながら、ラディスの事を呪ってやりたい程に憎たらしく思った。
それから丘の頂きにある長椅子に腰かけて、色々な事を語り合った。リィンは良く笑い、話し、ルキリア国の帝都ベイルナグルの診療所で暮らした日々をとても楽しそうに語った。たくさんの優しい人々に囲まれていたようで、ほっとする。彼の周りに心あたたかな人々がいる事に、ルセロは納得した。
これがリィンの選んだ男性。それでこそ僕らが認めた人物。僕らの大事なリィンを、預けた男だ。……気に食わないけど。
「リィン!」
振り返ると、レドナが片手を振ってこちらに歩いてくるのが見えた。白のブラウスに薄桃のスカート、茶の巻き髪が軽やかに揺れている。
「レドナ!」
リィンとレドナは固く抱き合い、顔を見合わせて笑った。
「まあ元気そうね。良かった」
「レドナは?」
「私もとっても元気よ」
「会議は終わったの?」
ルセロの問いかけに、レドナはええ、とふっくらとした頬に微笑を浮かべた。彼女はこのレーヌ国で暮らしているイリアス族をまとめる家長で、現在では珍しい成人したイリアス族の女性である。
「じゃあそろそろ帰らないとね。ラディスが乗り込んでくるかも知れない」
イリアス族の三人は、穏やかに笑い合った。
「レドナ、ルセロ。どうもありがとう」
大学校の入り口まで戻って来て、リィンが二人に真剣なまなざしを向けた。
「良く分かったよ。イリアス族としてどうあるべきか。僕はきっと、その覚悟が出来る。僕はこの先も絶対に、ラディスを護る為にこの『力』を使うよ。だってこの『力』はラディスのものだから……。だから僕が彼の護衛としてついてゆく事を認めて欲しい。僕を信じて欲しいんだ」
「リィン……」
「ええ、リィン。分かっています。あなたと彼との絆は、何よりも深く固いものだわ。私達がどうこう出来るものではないもの。リィン、あなたを信じます」
「ありがとう」
「でもね、これだけは覚えていて? 私達は何があってもあなたの味方よ。私達は家族ですもの」
「レドナ……ありがとう」
「私達の可愛い娘。あなたはあなたの思う道を、真っ直ぐに歩んでゆきなさい。どんなに困難でも、あなたにはそれが出来るわ」
◇◇◆◆
小さな背中が大学校の校舎の中へと消えた後も、レドナとルセロはしばらくその場所で佇んでいた。
レドナはおもむろに腕を組み、盛大なため息をつく。
「もうっ。ルセロったら! 告白はどうしちゃったのよ!? あなた、リィンに愛を告げてここに引き止めて見せるって言ってなかったかしら?」
対するルセロも首を振りつつ、大きく息を吐き出して口を開いた。
「そういうレドナこそ。今度こそラディスにがつんと言って、リィンを彼から引き離すって言ってたのに。その様子じゃ、やっぱりまた彼に言いくるめられてしまったんだろう?」
二人はぎゅっと睨み合い、同時に吹き出して声を上げて笑った。
「女はね、格好良くて優しくて、素敵な男性には弱いものよ。仕方ないわ」
「男だって、本当は臆病者さ。大事な時には二の足を踏んでしまう」
お互いの肩を叩き合い、夕日が照らす石畳の道を、仲間達の待つ我が家へと帰っていった。