001
びしりと相手の一撃が手首に命中し、リィンの右手から木製の剣がこぼれ落ちた。
リィンは痛みに眉を寄せ、赤茶の瞳でぎりりと相手を睨みつける。目の前に立つ黒髪の少年は息一つ乱れずリィンに向かって真っ直ぐに木剣を突き付けている。目にかかる程に伸びた前髪が表情を消し、時折見える黒の瞳は光を反射して銀灰色に輝く。
もう何度となく同じ所を打たれており、リィンの手首はじんじんと痛み、血がそこに集中して熱を持っていた。
「……期待はずれだ」
「ま、まだまだッ!」
肩で息をしつつ足元に転がった木剣を拾い上げて、リィンはもう一度構え直した。ロガート族の少年は、しらけた顔で小さく呟く。
「こんなひょろひょろの女がイリアス族の英雄? こんな弱い奴に護られてるのが伝説の男?
……期待はずれだ。何もかも」
燃えるような深い怒りを含んだ声だった。
◇◇◇◆
世界で唯一の女帝が統治する、人心ともに豊かで慎ましやかな財に富む独立国、レーヌ。
島国であるこの国の首都には全世界に信者を有する慈愛の女神リリーネ・シルラの聖地、白銀の大聖堂が鎮座している。それと対為すように聳える、赤茶の壁面に重厚な歴史を刻む大学校。一流の英知を結集し一流の人材を輩出しゆく、全人民の学問の守り手たる学び舎は、レーヌ国女帝直結の公的機関である。
その女帝の膝元に控えているのがレーヌ国枢機議会の面々。
彼らはリリーネ・シルラの第一の使徒であるレーヌ国女王陛下の手足と動き、世界の医療の発展と平和の為に、命を奉ずる契約を交わした女帝腹心の部下達である。世界の人々が希求してやまぬ大学校の運営から政治経済、外交に至るまでに心を砕き、卓越した手腕を発揮している。その枢機議会に今回新たな部署が新設された。それはこの世界で絶大な権限を誇るこの国ならではのものだった。
レーヌ国の認可を受けて契約を交わし、医師や聖職者となったリリーネ・シルラの使徒達の所在を調査し、安否の確認をする。そして使徒たる資格を持ち得る人物であるかどうかの追跡考査を行う専門の部署。女帝の命のままに全世界に散っている使徒達を捜索し、出会い選別し、時には医師や聖職者の免許をレーヌへ返還するという重要な任務が与えられている。それに伴い、この任に従事する者にも大きな権限が付与される。その為レーヌ国女王陛下よりじきじきに専任者が任命される事になっており、また詳細は目下議論中である。この部署の長は枢機議会議長でもあるテンペイジが兼任し、現在二名のみがその部署に配属になる事が確定していた。それがつい最近、レーヌ国に入国を果たしたルキリア国の医師ラディス・ハイゼルとその護衛リィンであった。
二人は既に任命式を終え、正式にレーヌ国女王陛下、シャウナルーズ・ルメンディアナの部下として枢機議会の一員に連なった。二人は今後≪厳然たる弾劾者≫として女帝の命を受け、世界を相手に果てなき闘争の旅路へと向かう事になるだろう。
ただ現在はレーヌの大学校に滞在しており、ラディス自身の体調の回復を待っている状態にあった。彼は左目の視力の低下と右腕に受けた傷による後遺症により、万全の状態にはいまだに程遠い。この国の女帝シャウナルーズがルキリア国へ書簡を出し、彼らをいち早く召集したのもラディスの体調を慮ってのものだった。世界一を誇るレーヌの医療を持って彼の状態をより十全に完璧にする意図があったのだろう。
と、思っていたのだが……。
テンペイジは重厚な円卓の、美しい木目を眺めて大きく息を吐き出した。向かい側の席には自分と同じように少しばかり疲労を滲ませている青年が天井を見上げている。今日こなすべき全ての会議が、今やっと終了したところだ。日は既に朱に染まりつつある。
「シャウナは俺を殺す気らしいな」
青年の呟きを聞いてテンペイジは苦笑をこぼした。本当に、そうかも知れん。
「ラディス殿、体調はいかがかな」
「大分良い。右腕の方もあともう少しだろう。なあテンペイジ、少しは休んだ方が良いぜ。この調子でこき使われていたら死ぬぞ」
「私はもう慣れたよ」
「あなたは女帝を甘やかしすぎだ」
笑いながら席を立つ。ラディスはテンペイジと同じ、枢機議会の制服に身を包んでいる。首元までボタンのついた立襟の上衣に対のズボン。大学校のそれは深緑だが、この制服は黒地に金の線が入ったものだ。長身の彼がそれを着ると、何の変哲もない制服もまるで礼服のように見えてしまう。その上左目の視力を補う為の片眼鏡をかけており、それが皮肉にも整った顔立ちに洗練された雰囲気と華を添えていた。品格と威厳の漂う、美麗な容姿。
「リィンはどうしているかね? あなたをこちらに張り付けにしてしまって申し訳ないな」
「あいつはまた別の仕事を与えられてる」
「ほう」
テンペイジは眼鏡を外し、深いしわが刻まれた目尻をこすった。
「すぐ近くの剣術道場に行ってる」
「ベレンダイか」
「ああ。そこで師範達の手伝いをしている」
それだけを聞いて、自分の上司が意図している事に気付く。
この首都にある剣術道場ベレンダイは、伝説の剣豪と呼ばれたベレンダイが三十数年ほど前に開いた道場だ。歴史も古く一級の剣士を育てる事には定評がある。テンペイジ自身も師範として名を連ねており、次世代の青年の育成の為に剣を振るう事もあった。隣を歩くラディスは、その剣豪ベレンダイに手ほどきを受けて剣術を学んだ。
今あそこには、シャウナ様がまたどこかで見出して来た人材がやって来たばかりだ。確かロジエルという、相当剣術に長けた少年だったな。
中庭から差し込む西日に色づいた廊下を歩く。
「明朝ラディス殿には研究員達との会議が入っていたな。後ほど資料をまとめて渡しておく。書記官を向かわせよう。その後はまた、≪厳然たる弾劾者≫の会議だ。こちらもやっと何とか形づいてきたな……。あとは詰めの段階だろう。頼りにしている」
彼は薄茶色の髪をがしがしと掻きつつ片手を上げて答え、去ってゆく。テンペイジはその背を無言で見つめた。あの存在感と彼の纏う空気は、おいそれと出せるものではない。自分よりも遥か年下のその人物に対して、心から尊敬の念を抱いている。
ルキリア国で起こった事件の事は報告で聞いているが、それさえも彼はもしかしたら予測して動いていたのではないかと思っている。華奢で少女のような端麗な容姿をしていたあの少年は、勇ましく成長し、本当に当初の目的を達成してしまった。
ルキリア国は今後、種族の枠を飛び越えて多才な人材を国の中枢機関に置くようになるだろう。 それに長年停滞していた医療の発展も期待できる。全ての土台を彼自身が作り上げ軌道に乗せた。尚且つ帝都ベイルナグルには自分も信を置くレーヌ族の才人、クレイとソアの二人がいるのだ。盤石である。
シャウナ様があれだけの期待をかけて薫陶した意味が、ここに来て痛切に身に染みて分かってきた。あのラディス・ハイゼルという男を見出し、才能を開花させたこの国の女帝に、テンペイジはやはり絶大な信頼と尊敬を寄せるのであった。
◇◇◆◆
ラディスは来客用の部屋へ戻り、首元まである立襟のボタンを外して着崩した格好になって、深く息を吐き出した。頭痛がする。目を使いすぎた。眼鏡をテーブルへ置いて椅子に腰かけ、明日の案件を思案しているところへ、勢い良く部屋の扉が開いてリィンが戻って来た。
「あ。帰ってたの」
剣を壁に立てかけて、こちらへ歩いてくるリィンの姿を眺める。白い頬は少し紅潮しているが、それは激しい運動による為のものだ。歩幅、肩の揺れ。顔色、肌の張り。視線、口元、息使い。瞬時にあらゆる部位に視線を巡らせ相手の状態を無意識に≪診て≫しまう。これは職業病だろう。
ラディスは席を立ち、瓶に入っている良く冷えた水をグラスへ注ぎ、テーブルへ置きながら口を開いた。
「荒れてるな」
「別に!」
リィンはすとんと椅子に座り、グラスの水をごくごくと飲み干してゆく。
レーヌ国では女性でも剣術を習う事が普通だ。それにイリアス族に対しての差別や偏見も皆無といって良い。この首都には数名のイリアス族が暮らしている程だ。日頃男性として性別を装っているリィンも、ここでは女性として過ごしている。が、普段とたいして変わらない。今はベレンダイの紺色の道着を身につけている。
リィンの左手首には漆黒のビーダの腕輪が嵌まっていた。これはイリアス族の特殊な『力』を、安全に外へ逃がす為に特別な鉱石を配合して作ったものだ。現在は既に実用化の段階にまで来ているが、どれだけの耐性があるのかといった様々なデータを収集する為に、実験的に数日間リィンが身につける事になった。
ラディスはリィンの傍に椅子を引き寄せて座り、その細い手首を手に取って話しかける。
「今日は『力』を何回発動させた?」
「……覚えてない」
「おい」
「だって! そんなのいちいち数えてらんないよ」
小型の時計を眺め脈拍を計り、口を開かせ見分してゆく。ふと気付き、リィンの袖口を捲って右手首を見る。青黒い痣が出来ていた。触れると熱を持っている。
「ベレンダイの道場は腕自慢の奴らが集まるからな。なかなか面白いだろう」
何の気もないような言い方をしつつその細い二の腕を掴むと、リィンはごく僅かに眉をひそめた。どうやら全身に打撲をこしらえているようだ。あの道場では木製の剣で鍛錬をする。
「すっごく強い奴がいるんだ」
「らしいな」
こいつをこれだけ痛めつける奴だ。余程の自信があるのだろう。リィンに剣術の稽古をつけたのはクレイだ。元々腕力も強いリィンは、今ならちょっとした剣士よりも腕が立つ。
「何て名前だ?」
「えっと、ロジエルって言ったかな。僕より四つも下なのに、強いんだ。悔しいけど剣じゃ負ける」
「そのようだ」
その上相当性格がひねくれている。おそらくは何度も手首を打って、剣を落とさせたに違いない。絡まれたな。
そこで、シャウナルーズの意図する事が読めた。どこまで働かせる気だ。
「……あいつめ」
深く息を吐き出して憎々しげに呟く。
「は?」
「いや。こっちの事だ」
リィンの顎を掴んで顔を横向きにさせた。良く見ると細い首筋にも擦れたような傷があり、白く繊細な肌が赤く染まっている。
ラディスは無表情を装い、ふつふつと湧き上がる怒りを抑え込んだ。
「なあ、もう良いだろ? 食堂行こう。お腹すいたよ」
リィンが屈託のない表情でこちらを見つめている。ラディスは無言のままリィンを椅子ごと引き寄せて華奢な背に腕を回し、首筋の傷に唇をつけ、舌で舐めた。びくりと身体を竦ませて、リィンが両手でラディスの肩をぐいと押す。
「ん……なん、だよ」
「擦り傷が出来てる」
「だ、だからって舐めるなよ……あんた医者だろ」
耳の後ろあたりに唇を押しつけて、リィンの柔らかな身体を抱き締める。艶やかな栗色の髪が頬に触れた。
「ラ、ラディス。ぼく、汗かいてるんだ……」
「ああ。そうだな……」
リィンが服の裾をぎゅうと掴み、弱々しく抵抗してくる。抱き締めている腕に力を込め、ゆっくりと息を吸い込んだ。
自分の嗅覚は人よりも敏感に出来ているのは知っている。が、あまり役に立たないのだ。敏感な故に、すぐに麻痺してしまう。診察をする時や初めて行く場所に向かう時等にこの嗅覚を使う事はあるが、それでも補助的な役割にしかならない。ほとんどこれに頼る事はなかった。
人の体臭には一つとして同じものがない。他に強い匂いのない時は背後から近付いて来ただけで、相手が誰なのかが分かる事もある。
リィンの体臭は、他のどれよりもかぐわしく、自分を虜にするのだ。
この事は口が裂けても言えない。こんな事を言おうものなら、変態扱いされるだろう。ただでさえ以前にケダモノと罵られているのだ。
先程から扉の外に気配を感じていたが、ラディスはそれを無視してリィンの首筋に唇を這わせた。
「ん、ちょっと……ラディ、ス……食堂、行こうよ」
リィンが身じろぎながら呟く。照れ隠しに言っているのか。それともそんなに腹が減っているのか。おそらくそのどちらもだろう。
腕の中にいるリィンをじっと見つめ、微笑む。
「リィン。俺はお前を食いたい」
顔を真っ赤にして固まったリィンに口付けようと顔を寄せた時、扉を叩く音が響いた。
「し、失礼しますっ。ラディス先生、資料をお持ちしました」
助かったとばかりに、リィンが腕の中から逃げていった。
「僕、先に行ってるから!」
入れ違いに黒髪の青年が資料を手に申し訳なさそうな顔で部屋に入ってくる。ラディスは席を立ち、礼を言ってその資料を受け取り、ふと思いついたように聞いた。
「シモン。今ベレンダイにいるロジエルという少年を知ってるか?」
「えっ!?」
緑の瞳を丸くして、青年が驚いた表情でこちらを見上げる。背はラディスより頭一つ分程低く、右目の下にほくろがある。細身の体躯でいかにも文学青年といった風貌。ラディスと目が合うと少しだけ赤面した。
「あ! はい……。つい最近ここへやって来た少年ですね。グナーの村の出身だと聞いていますが」
「そうか。詳しい事が知りたい。頼めるか?」
「分かりました」
ラディスはシモンと会話を交わしながら部屋を後にした。
はじめまして。お久しぶりです。もじといいます。
この物語は「紅い月 青の太陽」の続編になっております。
こちらだけでは多少、分かりづらい点もあるかと思いますが、物語の大筋には問題ありません。(おそらく)
少しの間ですが、お付き合いいただけたら嬉しいです。